宵闇町・文字屋奇譚

桜衣いちか

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第一章・不吉なペンネーム

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「おばあちゃ……祖母よ。書道の師範しはんをしていたの」

「そうか。道理で良い名前なわけだ」

「千代は良いの?」

「ああ」

 文字屋が着物の合わせ目からりの半紙を取りだし、右手で千代に渡す。
 千代が開いた紙面の文字が、文字屋の声でちゅうに浮かぶ。
 ぽうっと、柔らかい光と共に、優しく弾け飛んだ。

古今和歌集こきんわかしゅう巻七まきのしち賀歌がのうた
 だいしらず、よみびとしらずの巻頭歌かんとうか。『我君わがきみは 千代に八千代やちよに さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで』。
 分かりやすく言うなら。『あなたは千年も八千年も、限りなく長生きしてください』だ。賀歌は祝いの気持ちを表した歌。特に長寿ちょうじゅ繁栄はんえいを祈る歌だからな。
 千代。お前の祖母は知っていたぞ、夢の事を。夢を追いかけるのはお前の自由だと、そう思っていたからこそ、何も言わなかった」

「……え」

「依頼完了だ」

 文字屋が立ち上がり。
 ふくらんだイズナが、書道道具を全て口内に入れた。
 半紙を胸にき、千代は降りそそぐ光をびる。
 耳奥で「千代ちゃんは頑張り屋さんだからねぇ」と、懐かしい声がする。

(……おばあちゃん。わたし、書道教室を大事にするから。大切に守っていくから。
 だから、もう少しだけ、頑張ってもいいかな。もう少しだけ、夢を追いかけてもいいかな)

 パタンと閉まったふすまの音が。
 いいよと、言ってくれた気がした。


【第一章・不吉なペンネーム/了】
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