宵闇町・文字屋奇譚

桜衣いちか

文字の大きさ
上 下
4 / 102
第一章・不吉なペンネーム

しおりを挟む

 千代は最寄り駅で地下鉄を降り、地上へ繋がる階段をのぼる。
 夕下風ゆふしたかぜが、千代の草履ぞうりまきぜた。
 同じ都内でも、出版社と下町情緒あふれる駅前とでは、まとっている空気が全然違う。

「千代ちゃん。今日も綺麗な着物ねぇ」

 惣菜屋の女主人に声をかけられ、千代は足を止める。
 大皿に盛りつけられた惣菜の数々が、グウゥゥと腹の虫をくすぐった。

「お腹が先に返事したねぇ。ちゃんと食べてるのかい?」

「こんばんは、おばちゃん。……あはは……えーと、そのー……」

 三食ぬか漬けごはんです。
 口にあふれたよだれごと、千代は言葉を飲みこむ。
 トロリとした餡かけ豆腐。
 ツヤツヤ光るカボチャの煮つけ。きんぴらごぼう。肉だんご。ふわふわのだし巻き卵。

(ああああ、おいしそう! せめて匂いだけでも!)

 スーハースーハーと、店先で深呼吸をくり返す千代へ、女主人がいなり寿司のパックを差しだした。

「お稲荷さんの掃除。今週はウチが当番なんだけどねぇ。忙がしくて行けなくてねぇ。
 千代ちゃんが代わりに行ってくれたら、もう一パックおまけしても良いんけどねぇ」

「お掃除大好きです!」

 夕暮れのオレンジ色に染まる商店街に、千代の声が響きわたった。
しおりを挟む

処理中です...