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「くまみたいなおっきなきしさま。あの時たすけてくださってありがとう」

 ノルマンド公爵家の首都公邸でアンドレの面会に応じたレティシアは、怯えながらも彼女を守ろうとする侍女たちや護衛たちを後ろに下げつつ、満面の笑みでそう言って可愛らしくお辞儀した。
 それから「あっ」と慌てたようにスカートの裾を摘んで、習いたてであろう淑女礼カーテシーを披露する。

「わたくしはレティシア。レティシア・ド・ノルマンド・リュクサンブールです。きしさまのおなまえをお聞かせくださいな」

 あの時は死んでしまうかと思った。助けが来たと分かって本当に安心した。安心しすぎて、大きなお胸で眠ってしまってごめんなさい。あのあと爺やにきしさまのことを調べてもらって、それでこうして会うことができました。本当はわたくしが会いに行くつもりだったのだけど、呼び出してしまってごめんなさい。
 頬を赤らめて止めどなく話し続けるレティシアに戸惑い、公爵家の豪奢な応接間のふっかふかのソファに緊張し、飲んだこともない美味しい紅茶に恐縮し、侍女や執事や使用人や護衛や、果ては馬丁や庭師まで纏う洗練された一流の職人のオーラに圧倒され、アンドレはこの時レティシアが語ったことをほとんど憶えていない。ただ憶えているのは「くまみたいなおっきなきしさま」というレティシアの言葉と、その時見せたキラキラした金色の瞳、そして名を告げた際の「アンドレさま、とおっしゃるのですね」と呟く鈴の音のような声と、サッと朱に染まった可愛らしい頬だけだ。
 まさかそれが、その後ずっと向けられる好意の始まりになろうとは、神ならぬ身で分かろうはずもなかった。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


 その後、一旦はノルマンド公爵家からアンドレへの接触はなくなった。だから彼も、あの時のことは良い思い出として、半ば記憶の彼方へと流しかけていた。
 そんなタイミングで、彼の元へノルマンド公爵家から婚約の打診が来たものだからビックリ仰天である。あれから7年。レティシアは12歳に、そしてアンドレは結婚もできないまま32歳になっていた。

 公爵家ではアンドレの素性から人となり、経歴から交友関係まできっちり調べ上げていた。その上で、無爵の騎士に過ぎない彼に婚約を打診して来たのだ。
 使者としてやってきた侍従によれば、婚約に応じれば実家の子爵家に多大な支援をし、アンドレには伯爵位を公爵家で用意するという。もちろん希望するなら騎士は続けて構わないし、社交界にも必要最低限を除いて出なくていいという。そしてレティシアが成人して晴れて結婚できるようになれば、首都にあるイェルゲイル神教西方大神殿で盛大に神前式を執り行う予定だと言う。

 とんでもない、畏れ多くてとてもではないが受けられない、とさすがに断った。断ること自体が不敬に当たるのは重々承知の上で、それでも断った。
 だって断るしかないではないか。仮にも相手は世界屈指の尊き血筋のお姫様で、そこらの国王よりも高貴なご身分なのだ。それにひきかえこちらはほとんど平民の、取り立てて才能もないただの騎士に過ぎない。勘弁してくれ、というのが偽らざる本音だった。
 だというのに、断ったら断ったでレティシア本人がアンドレのいる街に居を移してしまったではないか。しかもそのためにわざわざ別邸まで建てて、アンドレにも邸をプレゼントすると言うのだ。
 そして何かにつけてアンドレの元を訪れ、デートに誘い、話をねだり、ともに時を過ごそうとする。12歳になった彼女はまだまだ幼いながらも神々しいまでの美貌に拍車がかかり、美しく成長した姿は女性としての魅力をしっかりと備え始めており、蕩けるような瞳と鈴音のような声で、アンドレに真っ直ぐに想いをぶつけてくるのだ。

 アンドレは決して幼女趣味ではない。だがその彼をして、抗いがたいほどの魅力を彼女はすでに発揮し始めていた。

 だから彼は逃げた。
 逃げたと言っても、姿をくらましたところで公爵家の情報網でたちどころに探し当てられるのは目に見えている。だからレティシアの動きを予測して、すれ違うように別の場所に移動する。そうして可能な限り立ち回ったのだ。
 逃げ切れずに捕まることも多かったが、それでも婚約の話だけはなんとかごまかし続けて1年が過ぎた。

 そんな時、レティシアが言ったのだ。〈賢者の学院〉への入学が決まって、アルヴァイオンに行かなくてはならなくなった、と。

 正直、逃げ切れたと思った。
 だって〈賢者の学院〉には西方世界のほとんどの国々から、選りすぐりの天才秀才たちが集うのだ。それも王侯貴族の子弟をはじめとして、特別の家柄の貴顕の人々が。そんな中で3年も過ごせば、きっと彼女にも相応しい相手が見つかるだろう。同年代の、家格も才能も見合う相手を見つけられれば、彼女もきっと幼き日の淡い初恋から卒業できることだろう。
 旅立ちの日には、レティシアたっての希望もあってアンドレも見送りに参加した。彼女は少しだけ淋しげに、でも彼が来てくれた喜びを隠さずに、笑顔で海を渡って行った。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


 それから3年。
 16歳になった彼女はさらに成長して母国ガリオンへと戻ってきた。

 そう、戻って来てしまったのだ。さらに美しく魅力的になって、しかもアンドレへの想いはそのままに。

「ただいま戻りましたっ!」
「は、はい」
「今度こそ、婚約致しましょう!」
「え、ええと」
「大丈夫ですっ!わたくしが選んだ良人おっとならばと、公爵家にも王家にも、リュクサンブール大公家にもお許しを頂いておりますわ!」
「えええ!?いや待ってそんな!」

「わたくしは、あの日からずっと!貴方様をお慕い申し上げておりますの!」

「いやでもですね、俺………私は取り立てて才能も血筋も財力もないですし」
「でもお優しいです!それにお力も強くて、わたくしを守って下さいます!」
「それにほら、お……私はこのように見た目が怖ろしげで」
「そんな事ありません!とても頼もしくて安心しかありませんわ!」
「だけど、20も歳の離れた親子みたいなオッサンですよ!?」
「ですがあの時からずっと、アンドレさまはわたくしにとって唯一の“騎士様”なのです!」

「とっ、とりあえず定期巡回がありますので、この話はまた後日!」
「あっ、お待ちになってアンドレさま!お話を聞いて下さいまし!アンドレさまぁ~!」


 今日もレティシア姫様はグイグイ来る。
 アンドレが陥落するのは、もうそう遠い未来ではなさそうである。



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