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ちょーっと待ったぁーっ!
しおりを挟むイザベラの求めに応じて、第三王子付きの侍従が婚約誓紙と破棄証紙を持ち出してくる。彼女はまだ王子の婚約者だから、侍従も従う義務があるのだ。
そして彼女は喜々として、父伯爵とともにペンを受け取りさっさと自分の署名を書き込んだ。王子はこの世の終わりみたいな顔をして、用意されたテーブル上に置かれた証紙に目線を落として固まっている。
「待て待て待てぇーい!」
そこへ威厳のある、だが明らかに焦りをにじませた野太い声が響きわたった。
「その婚約破棄、ちょーっと待ったぁーっ!」
広間に居並ぶ貴族たち、のみならず給仕の使用人たちも侍従たちも一斉に臣下の礼を取る。もちろん第三王子も、その婚約者のイザベラも。自らの主君の声を、彼らが聞き間違うはずがなかった。
王族専用の壇の後方にある専用扉からではなく、一般入口である広間の大扉を開け放って慌てて駆け込んできたのは国王だ。後ろに王妃も息を切らして従っている。
よく見れば国王は肩で息をしている。騒ぎを誰かが注進に及んで、大慌てで飛んできたのだろう。
「はあ、はあ。良い、皆の者、面を上げよ」
慌ててはいたが、王は必要な一言を忘れなかった。それを受けて全員が礼を解いて顔を上げる。
「イザベラ嬢、我が愚息が済まなんだ。どうか婚約を破棄するのだけは待って欲しい」
王は我が子など眼中にない様子でイザベラに駆け寄り、その手を取って懇願した。
「せっかくの陛下のお言葉ですが、お断り致します」
だが懇願であって命令ではなかったため、彼女は即答で拒否した。
「なっ!?」
「わたくしはすでに皆様の面前で散々に罵られ、冤罪まで疑われて、婚約破棄を言い渡されましたの。殿下のご命令ですので、すでにお受け致しました。今さら無かったことにはできません」
「そ、そこを何とか」
「もう無理でございます」
王がこの時冷静であったなら、王命として王子の命令を無効にすると命じたことだろう。だが伯爵家との縁談が消し飛ぶ一大事とあって、慌てていた王は彼女のご機嫌を取ることを優先した。
それゆえのお願いだったが、命令ではないので当然、優先度は下がる。
「は、伯爵!」
彼女の顔色を見て、そして長らく隠していたその美貌を晒しているのに気が付いて、彼女の決意は固いと瞬時に見て取った王は彼女の父に救いを求めた。
「無理でございますよ」
だが進み出た伯爵もまた、娘と同じ返答を返した。
「国内全貴族の面前で辱められて、それでもまだこの婚約を受け入れよと申されるか。王家はどこまで我が娘を、我が家門を愚弄なさるおつもりか」
厳しい言葉を浴びせられ、伯爵の怒りが娘の比ではないことに王はようやく気付いたが、それでも引き下がってはいられない。何しろ伯爵家の資金援助がなくなれば、大災害から立ち直れぬままの直轄領の多くの国民が困窮するのだ。その上さらに伯爵家へ賠償を支払わねばならぬことも考えると、最悪の場合、今年は餓死者すら出かねない。
「ぐ、愚息めには必ずや罰を与える!だから──」
「婿としてはもう要らんと申しておるのですよ」
至極当然の一言に、さすがの王も何も言えなくなった。
だってそれはそうだろう。第三王子はそれまでさんざん婚約者であり伯爵家の嫡女たるイザベラを蔑ろにし、多くの女性と浮名を流し、あまつさえ冤罪まで仕向けて婚約破棄をちらつかせ、娘の顔と家名に泥を塗ったのだ。
そんな相手を、それでも入婿に欲しがるなどあり得ないと、真っ当な神経をしていれば誰でも分かることだ。そもそも最初から、父娘ともどもこの婚約には乗り気でなかったのだから尚更だ。
「婚約破棄は我が家とても望むところ。疾くサインを済ませて戸籍管理局に提出頂きますぞ、陛下」
「ぐ…………」
顔を歪めて唸るが、事ここに至っては王と言えどもどうにもならない。全ては王の入場前に、独断で騒ぎを起こした第三王子の浅はかな企みを、見抜けなかった王自身にも責があるのだ。
「や、やむを得まい………」
断腸の思いで、王はやっとそれだけ絞り出した。これ以上足掻いたところで、王の威厳も王家への支持率も下がるばかりだ。封建制度の王政国家とはいえ、国の柱石たる貴族たちに見放されては王家は虚しく倒れるしかない。
「お待ち下さい!」
だがそこへ、さらに待ったの声がかかった。
声のした壇上をその場の全員が仰ぎ見る。
そこに姿を現したのは長兄たる第一王子だったのだ。
「あ、兄上!?」
「兄上、ではないわ愚弟め。何という浅はかなことを仕出かしてくれたのだ!」
一喝されて第三王子が押し黙る。父と兄に立て続けに面罵され、もはや立つ瀬もなくフラフラとよろめいている。
だがそんな彼を気にかける者など、もはや誰もいない。伯爵家との婚約破棄はほぼ確定事項、それも第三王子の有責でだ。しかも数々の秘密を暴露され満身創痍の彼は事実上再起不能である。今さら彼を助けるメリットなど皆無であった。
第一王子もまた、そんな弟のことなど気にも留めない。脇目も振らず真っ直ぐにイザベラの元へ歩み寄り、跪くとその左手を取った。
「今まで愚弟の婚約者だからと距離を取っておりましたが、今日ばかりはあやつの愚行に感謝したい。
──イザベラ嬢、かねてよりそなたを憎からず想っていた。どうか、私の婚約者となって欲しい」
なんと第一王子、彼女への突然のプロポーズに及んだではないか。しかも跪き、真っ直ぐに彼女の顔を見上げて、熱の籠った瞳でじっと彼女の顔を、瞳を視線で射抜いてくる。
「そ、そんな、殿下。わたくしはこれほど多くの皆様の前で瑕疵を付けられた傷物の女ですわ。それを──」
「そんな事は関係ない!私がそなたの隣に居たいのだ!」
真摯で、そして熱烈な告白。その瞳にも声音にも偽りの色は一切ない。
「そなたが傷ついたというのであれば私が癒そう。この手を借りたくないというのであれば、そなたの心が癒えるまでいくらでも待とう。だからどうか、人生を諦めないで欲しい。君だって、いや君こそ幸せになるべきなんだ。そしてその手伝いを、私に任せてはもらえないだろうか」
「殿下…………」
見つめ合うイザベラと第一王子。
お互いほんのりと頬を染めて、じっと見つめ合って。
まさかの大逆転で第一王子が彼女の心を繋ぎ止めた。居並ぶ人々が、何より王と王妃が、そう確信した、次の瞬間。
イザベラが左手を第一王子の手の中からスッと引き抜いた。
「せっかくのお申し出ですが、お断り致しますわ」
そして数歩下がって、彼女は優雅に淑女礼を決めてみせた。
その姿勢が直った時、すでに彼女の顔は淑女の微笑で隠されている。頬を染めて恥じらっていたように見えた、先ほどまでの彼女はすでにどこにも存在しなかった。
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