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03.お嫁にっ!来ましたっ!
しおりを挟むライデール伯爵ことブライアン・ド・ヘルムスリーは、その日も半ば日課になっている領内の見回りに出ていた。
ライデール伯爵領は牧畜による羊毛生産と、主食のひとつである黒麦の生産、それに領内を縦断する街道を利用した南北の通商と通行料収入が主な財源である。
だがそこを治める領主であるブライアンは、いまだ未婚であった。
ブライアンはフェル暦680年の今年、もう48歳になる。とうに家督も継いで伯爵家当主として領内を監督し、立派に治めてはいるものの、実のところまだ一度も良縁に巡り合ってはいなかった。これまでに3度ほど婚約者を得る機会があったのだが、そのたびに紆余曲折あって破談になり、それでここまで未婚を通している。
年齢も年齢だし、ブライアン本人はもはや婚姻など諦めている。貴族なんて普通は10代の後半から20代の前半のうちに結婚してしまうものだし、そうした年齢のご令嬢がたから社交界で自分がなんと呼ばれているかもブライアンは知っている。
⸺狷狭伯爵、と。
狷狭とはつまり気が短く、心が狭いという意味の言葉なわけだが、そう呼ばれるだけの噂の数々が社交界では長年飛び交っている。
曰く、幼女趣味であって妙齢のご婦人には興味がないのだとか、そもそも女性を愛する御仁ではないだとか、今までの婚約者たちには奴隷もかくやという扱いをして、それで逃げられたのだとか、婚約者に求めるものが多すぎて、気に入らなければ癇癪を起こして追い出してしまうのだとか。
人の噂なんてほんとアテにならんよなあ。そうは思っても、自分ひとりで火消しに走ったところで根も葉もない噂を根絶できるものでもない。現に最初はブライアンと同世代のご令嬢がたが噂していたのに、今その噂を広めているのはそのご令嬢がたが嫁いで産んだ、その子世代なのだ。というか孫世代までチラホラと社交界で話題に上るようになってきているし、その孫世代も親や祖父母に倣って同じ噂を広めるのが目に見えている。
そういうわけで、ブライアンはもはや社交の場に顔を出すこともなく、領地に籠もってその経営に専念している。平民を差別することなく領民に気さくに話しかけ、陳情も快く聞いて民の暮らしが少しでも良くなるよう尽力するブライアンは、社交界の噂とは裏腹に領民からの支持が非常に篤い。
「領主様!」
「おう、どうした」
領内を視察して、今年は黒麦が不作になりそうだと聞いて対策を練っているブライアンの元へ、邸から伝令が飛んできた。
「すぐにお邸にお戻り下さい。急な来客でございます」
「来客?」
そんな予定は聞いていないが、とブライアンは首を傾げる。
「急な、ということは先触れもなかったということか。誰の使いだ?」
「それが、リッチモンド侯爵の脚竜車でして」
リッチモンド侯爵。このノースヨークシア地方で唯一の侯爵家で、ノースヨークシア最西部のペイニーン山脈とその山麓に、南北に長い広大な領土を持っている。少領の伯爵家が大半のノースヨークシアにあって、その権勢はなかなか強大なものがある。
現当主はいけ好かない陰険な男だが、格上の家門だし怒らせては面倒だ。
「それは待たせてはマズいな。よし、すぐに戻ろう」
だからブライアンは愛馬を飛ばして邸へと駆け戻った。
だが、そうして戻ってきたブライアンの目に飛び込んできたのは、侯爵家の脚竜車と使者と、そしてひとりの妙齢のご令嬢の姿。
それはくすんだ赤毛と蘇芳色の瞳の、まだうら若き乙女と言える年齢の娘だった。着ているのは侍女のお仕着せに近い質素なドレスだが、礼法に則った最低限のドレスコードが整えられていて、確認しなくとも貴族家、それも伯爵家以上の家門の令嬢だと分かる。
「では、確かにお届けしましたからな」
侯爵家からの使者はブライアンの顔を見るとそれだけ言い捨てて、脚竜車の御者台に乗り込むと、さっさと帰って行ってしまった。
要するに彼は使者ではなく馭者だったようだ。ということはつまり、このご令嬢を送り届けるためだけに、ここまでやって来たということか?
「お待たせして申し訳ない。私がライデール伯爵ブライアン・ド・ヘルムスリーです。貴女は?」
侯爵家の脚竜車の置いていったご令嬢とはいえ、粗雑に扱うわけにもいかない。ほかに使者がいないのであればこのご令嬢自身が使者を兼ねているはずだ。そう考えてブライアンは礼法に則り挨拶をする。
だがそんなブライアンに対して、彼女は涙を湛えた目で睨みつけるようにして、声高に宣言したのだ。
「お嫁にっ!来ましたっ!」
いやいや、なんで半ギレなんですかね?
そもそも一体どちらさま?
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