1 / 6
01.非情なる婚約破棄(1)
しおりを挟む「デイモン様、お話があると伺いましたが」
リッチモンド侯爵レイバーン家の、領都本邸にある嫡子デイモンの執務室。来訪を告げ中に通されたハンブルトン伯爵令嬢アデライン・ド・ラートンは、奥の執務机で書類を処理している婚約者に声をかけた。
デイモン・ド・レイバーンは16歳でヨーク市立大学を卒業したあと、父のリッチモンド侯爵の補佐として領政に関わるようになっていて、それで本邸にも彼の個人執務室が与えられている。
そのデイモンは今年18歳、婚約者のアデラインよりひとつ歳上だ。ふたりは婚約してもう5年目になる。
普段から、仕事中は邪魔をするなとデイモンからは言われているのに、仕事中に呼び出すとはどういう風の吹き回しだろうか。
「来たか」
書類から顔を上げることなく、デイモンはそれだけ言った。
「これを読んで、理解したらサインしろ」
そうして、顔を上げぬまま彼は手元の書類にサインすると、その書類をアデラインの方へ滑らせた。
執務机の端まで滑ってきた書類を、アデラインは慌てて駆け寄って受け止めた。大事な書類を床に落としたりなどすれば、きっとまた叱責を受けるに決まっている。
「こ、これは……!?」
「読んでも分からないのか。婚約の破棄証紙だよ」
アデラインが受け止め、目を通したそれは、婚約を破棄するという旨の書かれた証紙(証明用書類)だった。記載された内容に同意し、婚約関係にある両者が⸺当人が子女などで決定権を持たない場合はその当主もだが⸺署名して然るべき窓口へ提出すれば婚約は破棄される。
貴族の婚約は家門同士の契約だ。ゆえに必ず、結ぶときも解消するときも証明書類を作成して公的機関の窓口へ提出する必要がある。だがなぜ白紙でも解消でもなく『破棄』なのか。
「なぜ……でございますか」
「決まっている。ハンブルトン伯爵の不履行だからだよ」
「そんな……!我が家は締結した通りに農業支援を行っているではありませんか!」
「だが結果が出ていない。それは即ち不履行と同義だ。違うかい?」
アデラインとデイモンの婚約、それはリッチモンド侯爵がハンブルトン伯爵に農業支援を依頼して実現したものだった。
リッチモンド侯爵レイバーン家の所領はアルヴァイオン大公国の中北部にあるノースヨークシア地方の、最西部に連なるペイニーン山脈とその山麓が大半で、元々農業生産が盛んな地域ではない。だからリッチモンド侯爵は自領の領民のために食料を他領から購入する必要があり、それがなかなかバカにならない経費がかかっている。
それを少しでも解消すべく、隣接するハンブルトン伯爵領の農業技術を導入して自領の農業生産力を向上させるため、リッチモンド侯爵の側から打診されたのがアデラインとデイモンの婚約だったのだ。
「だってそれは、作付面積に限りがあるからではありませんか!」
山間部と山麓が主で平野部の少ないリッチモンド侯爵領では、そもそも耕作地を増やすにも限界があるのだ。その少ない耕作地で、少しでも生産量を増やすべく今まで頑張ってきたはずなのに。
「そんなものは言い訳に過ぎない。こちらが求める収穫量を達成するという約束を、君の父上、ハンブルトン伯爵は果たせなかった」
だからハンブルトン伯爵ラートン家の有責で婚約を破棄するのだ、と言われてアデラインは絶句するしかない。婚約してから5年、確かに短くはない期間だ。だが収穫量の改善という観点ではいささか足らないのが事実である。
元々困難が予想されていたのだから少なくとも10年、場合によっては数十年単位の長いスパンで取り組まなければならないはずなのに、農業技術にノウハウのないデイモンにはそれが分からないらしい。かくなる上はリッチモンド侯爵に直訴するしかない。
破棄証紙を握りしめたまま、アデラインは踵を返した。
「どこへ行く」
「リッチモンド侯爵閣下に直接お話致します」
「君はバカか」
「…………なんですって?」
「家門同士の契約を、僕が独断でどうこうできると思っているのか?そんなわけがないだろう」
そう言われてアデラインはまたもや絶句する。ということは、この件はリッチモンド侯爵も諒解済みなのか。
「そもそも、父上の署名もあるだろう。よく見たまえ」
再度書類を確認すると、確かにリッチモンド侯爵の署名も書き入れてある。デイモンの署名に気を取られて、そのすぐ上の署名は爵位名しか見ていなかった。
「そんな……ですが、我が家は!」
「ああ、あれは実に不幸な痛ましい事故だったな。そればかりは本当にお悔やみ申し上げるよ。⸺だがな、伯爵が事故死した以上は契約の続行も履行ももはや不可能じゃないか」
口先だけでそう言うデイモンの顔は、言葉とは裏腹に、義両親になるはずだったハンブルトン伯爵夫妻の不慮の死を悼んでいるようには見えなかった。それどころか口角が上がってニヤついているようにしか見えない。気のせいであってほしい。
110
お気に入りに追加
106
あなたにおすすめの小説

なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた
下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。
ご都合主義のハッピーエンドのSSです。
でも周りは全くハッピーじゃないです。
小説家になろう様でも投稿しています。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろうにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる