クズ人間の婚約者に嫁がされた相手は、ただのダメ人間でした

杜野秋人

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01.非情なる婚約破棄(1)

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「デイモン様、お話があると伺いましたが」

 リッチモンド侯爵レイバーン家の、領都本邸にある嫡子デイモンの執務室。来訪を告げ中に通されたハンブルトン伯爵令嬢アデライン・ド・ラートンは、奥の執務机で書類を処理している婚約者に声をかけた。
 デイモン・ド・レイバーンは16歳でヨーク市立大学を卒業したあと、父のリッチモンド侯爵の補佐として領政に関わるようになっていて、それで本邸にも彼の個人執務室が与えられている。
 そのデイモンは今年18歳、婚約者のアデラインよりひとつ歳上だ。ふたりは婚約してもう5年目になる。

 普段から、仕事中は邪魔をするなとデイモンからは言われているのに、仕事中に呼び出すとはどういう風の吹き回しだろうか。

「来たか」

 書類から顔を上げることなく、デイモンはそれだけ言った。

「これを読んで、理解したらサインしろ」

 そうして、顔を上げぬまま彼は手元の書類にサインすると、その書類をアデラインの方へ滑らせた。
 執務机の端まで滑ってきた書類を、アデラインは慌てて駆け寄って受け止めた。大事な書類を床に落としたりなどすれば、きっとまた叱責を受けるに決まっている。

「こ、これは……!?」
「読んでも分からないのか。婚約の破棄証紙だよ」

 アデラインが受け止め、目を通したそれは、婚約を破棄するという旨の書かれた証紙(証明用書類)だった。記載された内容に同意し、婚約関係にある両者が⸺当人が子女などで決定権を持たない場合はその当主おやもだが⸺署名して然るべき窓口へ提出すれば婚約は破棄される。
 貴族の婚約は家門同士の契約だ。ゆえに必ず、結ぶときも解消するときも証明書類を作成して公的機関の窓口へ提出する必要がある。だがなぜ白紙でも解消でもなく『破棄』なのか。

「なぜ……でございますか」
「決まっている。ハンブルトン伯爵のだからだよ」

「そんな……!我が家は締結した通りに農業支援を行っているではありませんか!」
「だが結果が出ていない。それは即ち不履行と同義だ。違うかい?」

 アデラインとデイモンの婚約、それはリッチモンド侯爵がハンブルトン伯爵に農業支援を依頼して実現したものだった。
 リッチモンド侯爵レイバーン家の所領はアルヴァイオン大公国の中北部にあるノースヨークシア地方の、最西部に連なるペイニーン山脈とその山麓が大半で、元々農業生産が盛んな地域ではない。だからリッチモンド侯爵は自領の領民のために食料を他領から購入する必要があり、それがなかなかバカにならない経費がかかっている。
 それを少しでも解消すべく、隣接するハンブルトン伯爵領の農業技術を導入して自領の農業生産力を向上させるため、リッチモンド侯爵の側から打診されたのがアデラインとデイモンの婚約だったのだ。

「だってそれは、作付面積に限りがあるからではありませんか!」

 山間部と山麓が主で平野部の少ないリッチモンド侯爵領では、そもそも耕作地を増やすにも限界があるのだ。その少ない耕作地で、少しでも生産量を増やすべく今まで頑張ってきたはずなのに。

「そんなものは言い訳に過ぎない。こちらが求める収穫量を達成するという約束を、君の父上、ハンブルトン伯爵は果たせなかった」

 だからハンブルトン伯爵ラートン家の有責で婚約を破棄するのだ、と言われてアデラインは絶句するしかない。婚約してから5年、確かに短くはない期間だ。だが収穫量の改善という観点ではいささか足らないのが事実である。
 元々困難が予想されていたのだから少なくとも10年、場合によっては数十年単位の長いスパンで取り組まなければならないはずなのに、農業技術にノウハウのないデイモンにはそれが分からないらしい。かくなる上はリッチモンド侯爵に直訴するしかない。

 破棄証紙を握りしめたまま、アデラインは踵を返した。

「どこへ行く」
「リッチモンド侯爵閣下に直接お話致します」
「君はバカか」
「…………なんですって?」

「家門同士の契約を、僕が独断でどうこうできると思っているのか?そんなわけがないだろう」

 そう言われてアデラインはまたもや絶句する。ということは、この件はリッチモンド侯爵も諒解済みなのか。

「そもそも、父上の署名もあるだろう。よく見たまえ」

 再度書類を確認すると、確かにリッチモンド侯爵の署名も書き入れてある。デイモンの署名に気を取られて、そのすぐ上の署名は爵位名しか見ていなかった。

「そんな……ですが、我が家は!」
「ああ、あれは実に不幸な痛ましい事故だったな。そればかりは本当にお悔やみ申し上げるよ。⸺だがな、伯爵が事故死した以上は契約の続行も履行ももはや不可能じゃないか」

 口先だけでそう言うデイモンの顔は、言葉とは裏腹に、義両親になるはずだったハンブルトン伯爵夫妻の不慮の死を悼んでいるようには見えなかった。それどころか口角が上がってニヤついているようにしか見えない。気のせいであってほしい。





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