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【二度目のミエザ学習院】
22.間違いなかった
しおりを挟む「…………何をしている?」
不意にかけられた声に反射的に顔を上げると、そこにカリトン王が立っていた。
「あ……」
「ここは奥まっていてほとんど誰も来ない、知られていない場所だ。貴女は誰からこの場所のことを聞いた?」
何か言う前に問い詰められて、彼の表情を見て絶句した。
アナスタシアとして、いやオフィーリアの頃まで含めても初めて見る表情。憎々しげに睨みつけてくるその顔に、サッと血の気が引いた。
「あ、あの……」
アナスタシアともあろう者が、咄嗟に言葉が出てこない。いつだって見ていたいはずの、非力なほどに穏やかなばかりだったはずのその顔からもっとも向けられたくない感情を向けられて、彼女はパニックを起こしかけた。
それでも彼女はすんでのところで踏み止まった。かつてオフィーリアが“継承の証”を使ってしまったあの罪人牢投獄の一件、ボアネルジェスが本当は処刑するつもりなどなかったのに独り勘違いして思い詰めた挙げ句に早まって自死を選んでしまった、その後悔が頭によぎった。
ひとつ、深呼吸する。
おそらく彼も勘違いをしている。きっと、この場所を余人に知られたことに腹を立てているだけだ。だってオフィーリアの記憶をいくら探っても、この場所を知っていたのは彼と自分だけだったから。
そこまで何とか思考を巡らせて、そして気付いた。彼は自分の思い出の場所を他人に踏み荒らされたことに腹を立てているのだと。
ということは、つまり。
彼もまた、この場所を大切な思い出として心に残していてくれたのだということ。
「わたくしは……っ」
かつてのオフィーリアの生まれ変わりなのです!
喉元まで出てきたその言葉を、かろうじて呑み込んだ。もしも本当に彼がこのベンチをオフィーリアとの思い出として大切にしていてくれたのだとしたら、下手にその名を騙ったら絶対に激怒させてしまう。
それは、それだけは嫌だ。
オフィーリアの生まれ変わりだと告白するのは、絶対に今このタイミングではない。
「お、王宮三階の廊下の窓から見えたのです」
だから咄嗟に嘘をついた。
まあ嘘というか、かつてオフィーリアが実際にこのベンチを発見した時のことを口にしただけだが。
「……なんだと?」
「木々の梢の向こうに見えたものが何か分からなくて、こんな隅に何があるのだろうと気になってしまって。それで来てみたら、ベンチが」
「…………そうだったのか」
どうやら咄嗟の嘘だが通用したようである。緊張していた全身が一気に弛緩し、同時に汗が吹き出してきた。
「その、済まない。睨みつけてしまって怖がらせたようだ。悪かった」
「い、いえ、頭をお上げ下さい陛下!」
もう17年も王をやっているというのに頭を下げることに慣れすぎている彼の行為に慌てると、何でもないことのように彼は姿勢を戻した。その眼差しがいつもの柔らかなそれに戻っているのを確認して、心から安堵する。
「隣に座ってもいいだろうか」
「あ、はい」
請われて思わず了承すると、カリトンはアナスタシアとは反対側の端、右の隅に申し訳なさそうに腰を下ろした。
「この王宮は全て陛下のもの。わたくしに許可を得る必要などないのではありませんか?」
「そうかも知れないが、貴女が先に来ていたのだから、この場は貴女が主だろう?」
つまりアナスタシアが主で、自分は客に過ぎないと、当たり前のように彼は言う。
ああ、そういえばここで最初にお会いした時も、貴方はそう仰って下さったのだったわ。
それもまた懐かしい思い出だ。オフィーリアが13歳、カリトンが15歳の時のことだから、もう20年も前の記憶である。
それからふたりは、ベンチの両端に座ったまま、とりとめもない会話を交わした。日々の政務のことや、アナスタシアの学習院生活のこと、今度オルトシアーの実家を訪問することなど、色々と。
何度か開いたお茶会ですでに出した話題も、彼は嫌な顔ひとつせずに頷きながら聞いてくれた。かつてのあの日々と同じように、それはとても穏やかな、心癒やされるひとときであった。
「……この場所はね、私の大切な思い出なんだ」
すっかり口調も砕けたカリトンが、不意に遠い目をした。こちらに向けず、どこか遠い場所に目を向ける彼のその横顔に、アナスタシアは釘付けになった。
「“悲劇の公女”、カストリア公女オフィーリア嬢もね、この場所を知っていたんだ。誰にも知られずにここで何度か会って、いろんな話をした」
ええ、よく憶えています。お互い愚痴を言い合っては笑いましたよね。あれはわたくしにとっても、かけがえのない時間でしたもの。
「カストリア家での彼女の扱いに怒りもしたし、弟の仕打ちに申し訳なくなった。何もしてやれない自分の不甲斐なさに絶望したりもした」
いいのです。貴方が憤って下さるだけで、わたくしは幸せでしたのよ。
「弟が公務を押し付けたせいで貴女はここに来れなくなって、そうしてそれっきりになった」
それに関しては今でもわたくし、あの方を許しておりませんわね。まあもう終わってしまったことですけれど……ん?
「久しぶりに話ができて良かった。このベンチはこれからも好きに使ってくれていい。たまにここで顔を合わせる機会があれば、またこうして話し相手になってくれればありがたい」
「あ、あの……」
「あまり時間が取れないのでね。このあたりで失礼するよ」
「あっ……」
そうして話すだけ話して腰を上げると、カリトンはさっさと立ち去ってしまったのだった。
えっえっえっ?
もしやカリトンさま、わたくしのことを……!?
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「間違いない!間違いなかった!」
唯一ひとりきりになれる王の寝室で、ベッドではなくソファでグラス片手に酒を呷って、独り悶えているのはもちろん王たるカリトンである。
「あの方は、もしや生まれ変わってまで会いに来てくれたというのか!?」
信じたいが信じられない。信じられないのにおそらく間違いない。というかそうであって欲しい。
浅ましい願いだとは分かっている。もしも万が一間違っていたりしたら今度こそ立ち直れない。でもきっと、いや絶対に間違っていないと断言できる。
だってあの場所は誰も知らない場所なのだ。あの場所をあらかじめ知っていなければ、絶対にあんな隅には足を延ばしたりしないのだから。
オフィーリアが自死してからバシレイオス王に退位を突きつけるまでの約半年の間、カリトンは弟が彼女にした数々の仕打ちの証拠を求めて、密かに王宮内を隅々まで調べて回った。そのついでに彼女が立ち寄ったであろう場所を探し、彼女が見たであろう景色を求めて、わずかでも彼女の痕跡があるならとくまなく探し求めたのだ。
アナスタシアが言った、あのベンチが見える王宮三階の廊下の窓のことは、その過程で知ったもののひとつである。確かに梢の向こうにベンチの一部が見えていたのを自分の目で確認したことを憶えている。
だが、それをアナスタシアが見れたはずはないのだ。だってもうとっくに伸びた梢に隠されてしまって、あの窓から見えなくなっているのだから。数え切れないほど通って、もう完全に見えなくなってしまっていることを、カリトンはその目で確認していたのだから。
というか、王になってから庭園隅の木々の梢の頂上部を剪定しないよう、王宮庭園師たちに命じたのは他ならぬカリトン自身である。だってあのベンチがいつまでもあの場所から見えていたら、きっとそのうちに誰かに知られるのが目に見えていたのだから。
あの場所をオフィーリアとだけ共有し続けるために、彼が意図的に人の目から隠したのだ。
それなのに、彼女はあの場所を知っていた。あのベンチに座って、愛おしそうに座面を撫でていた。あの不自然に綺麗になった座面にあんな目を向けるなんて、そんなの彼女でしかあり得ないのに!
「あらあら。久しぶりに伽に呼ばれたかと思えば、わたくしはもう用無しのようですわね?」
扉を開けて入り込んできた人の気配に、カリトンは顔を上げて目を向けた。
「ああ……ヘスペレイアか」
それはカリトンの幼少期からずっと仕えてくれている、専属侍女頭のヘスペレイアだった。
ヘスペレイアはカリトンの座るソファに近付き、その隣に腰を下ろす。その彼女の腰にカリトンは抱きついて、その腹に顔を埋めた。
「あらまあ。今日はまた甘えん坊ですこと」
そんなカリトンの肩を優しく抱きしめ、頭を撫でながら、ヘスペレイアは囁く。まるで幼子をあやすかのように。
「彼女だったんだ」
「……はい?」
「アナスタシア姫が、彼女だったんだ!」
「…………まあ!それでは、ようやく会えたのですね?」
「……ああ」
ヘスペレイアは16歳でマケダニアにやって来て、王宮侍女として仕えてもう28年になる。19の時に、当時まだ10歳だったカリトンとその母アーテーが隔離されていた離宮の侍女頭として栄転、という建前の左遷をされて、それからずっとカリトン母子に仕えてきた。
オフィーリアの死後、当時17歳のカリトンの初めての閨の相手を務めたのもヘスペレイアである。愛しい人を亡くし心の支えを失って今にも折れてしまいそうな主の姿を見て、わずかなりとも支えになれればと、彼女は自らその身を捧げたのだ。
身も蓋もない言い方だが、男は女を抱いて初めて一人前になる側面がある。17歳のカリトンに、26歳のヘスペレイアは文字通り心身ともに尽くした。カリトンがオフィーリアの復讐を遂げただけでなく、その後に王として立っていられたのは、ひとえに彼女の献身があればこそだった。
公的には宰相となったアポロニア公爵クリューセースが、そして私的にはヘスペレイアが支えたからこそ、今のカリトン王がある。
だからカリトンは、そのふたりには包み隠さず何でも話していた。王となる前のことも、なってからの悲喜こもごもも、もちろんオフィーリアとのことも、全部。
そしてこの日、13年ぶりに閨に呼んだヘスペレイアに、カリトンは全て話した。アナスタシアを初めて謁見したあの瞬間に、姿形がまるで似ていないのにオフィーリアの姿を幻視したこと、その能力や言動や自分に向けてくる全てに彼女を感じたこと、それでも確証が持てずに今まで誰にも話していなかったことまで、全部打ち明けたのだった。
「でしたら、何を迷われる事があるのです」
「う……そう、だが」
「わたくしを閨に呼んでいる場合ではありませんでしょう?本懐をお遂げなさいませ」
「だが、万が一違っていたら」
「臆病になっている場合ですか。気になるのでしたら確かめればよいではありませんか」
「…………」
「陛下の幸せは、わたくしの望むところでもあるのですよ」
「……すまないヘスペレイア。ありがとう」
「礼はともかく謝罪は不要ですわ。どうかお幸せになられませ」
そうして心身ともに支えてくれたヘスペレイアに背を押され、カリトンは覚悟を決めたのだった。
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