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【王女アナスタシア】
10.婚約の受諾
しおりを挟む13歳のアナスタシア姫との縁談を、アーギス王家から正式に申し込まれたマケダニア王宮は騒然となった。
なにしろ、相手として指名されたのが35歳のカリトン王なのだ。年齢差実に22歳、しかも「カストリア公女オフィーリア以外に誰も娶るつもりはない」と公言して実際にここまで誰とも婚約すらしていない、すでに青年期を超えて壮年の域に至っているカリトン王への婚約打診だ。騒然としないわけがない。
王の支持派は、アーギス王家すなわちイリシャ連邦王の後ろ盾を得られるとしてこの婚約を受けるべきと総意がまとまったし、反王派はアーギス王家によるマケダニア王国への内政干渉だ、乗っ取りに等しい行為だと激しく反発した。
そうして真っ二つに分かれた宮廷内の意見にモロに板挟みになったのは当然、当事者であるカリトン王である。縁談を断ればアーギス王家の心象を損ねるのみならず支持派から失望されようし、かと言って受ければ反王派はますますカリトンを批判するだろう。しかも議会で多数派なのは反王派なのだ。
「…………どうしたらいいと思う?」
当然ながらカリトンは態度を決めあぐねた。元々即断即決というタイプでもない上に、どちらに転んでも国内政治の舵取りがさらに難しくなるのは間違いない。そもそも婚姻しないと明言した身でもあるし、亡きオフィーリアへの思慕は全く衰えることなくカリトンの心の裡に残っている。それを今さら曲げることもしたくない。
だが一方でわざわざアーギス家が差し伸べてくれた救いの手を撥ね付ける勇気もなかった。だってそれを拒否してしまったら、おそらく現在の苦境を脱する術は永遠に失われてしまうだろう。
そうして悩みまくって結論が出せなくて、ついに彼は人を頼った。即位後に自ら宰相に抜擢したアポロニア公爵クリューセースに助言を求めたのだ。
「そうですな……」
ヘレーネス十二王家の一角ではあるものの、アポロニア家は長らく侯爵位に甘んじてきた家系である。カストリア家が侯爵位に降爵したことにより半ば自動的に陞爵し、マケダニアの筆頭公爵家になるとともにカリトン王から宰相に抜擢されていたものの、クリューセース自身はさほど切れるタイプでもなかった。
クリューセースは、ヴェロイア侯爵の後任として21歳の若さで宰相の地位に抜擢されてから今年で17年目になる。すでにヴェロイア侯爵の倍近くの任期を務めていたが、経験の乏しかった彼は議会をまとめることがなかなかできず、掌握するまで10年近くも費やした挙げ句に王支持派で多数派を占められなかった。それも、カリトンの治世が安定しない要因のひとつである。
それでも彼がここまで何とか宰相を務めてこれたのは、単にカリトンが辞めさせなかっただけのこと。歳の離れた大人たちを誰ひとり信用できなかったカリトンが、3歳しか歳の違わないクリューセースを手放さなかったのである。
だからカリトンは、今回のことでも17年も苦楽を共にしたクリューセースを頼らない選択肢はなかった。
「まあ婚約は、受けるほかありますまいな」
「やっぱりそうなるのか……」
「アーギス王家の後ろ盾がある、それを明確にできるというのはやはり大きなものがありましょう。というか、陛下にはもうそれしかないですからな」
「ううう……そんなにハッキリ言わなくてもいいじゃないか」
だがそのクリューセースに断言されてもなお、カリトンは煮えきらなかった。亡きオフィーリアへの思慕だけでなく、わずか13歳で政略の駒として婚約させられるアナスタシア姫のことを思えば、やはり踏ん切りはつかなかった。
「どうすればいい、どうすれば……」
クリューセースとしては、態度を繕うこともせず目の前で頭を抱えるこの愚かな王が不憫で仕方ない。望んでもいなかった不相応な地位に就かされて激務に晒され、一時期は恨んだりもしたけれど、頼れる者もなく今にも折れそうな若き王を見ていられずに、気付けばそれとなく支えるようになっていた。
だってクリューセースには、曲がりなりにもアポロニア侯子としてそれまで何不自由ない生活と高い教育とを享受して生きてきた自覚がある。だが冷遇されて育ってきたカリトンにはそれすらも無い。頼れる者がない、すなわち彼にとっては自分自身すら頼れないのだ。
そんなカリトンの弱い姿を知っているクリューセースにしてみれば、彼が今こんなに苦しんでいるのは、そしてここまでの半生ずっと苦しむハメになったのは、何もかもあの時彼を王位に就けたアーギス家のせいだとしか思えない。
「釣書の備考欄に書いてあった通りだと思いますがねえ」
「え、いや、しかし」
「カリトン陛下を即位させ、17年もマケダニアの国政を混乱させた責任を取ると。それでよいではありませんか」
「そ、そうは言うがなあ」
「陛下はお優しすぎるのです。選択肢など無いと再三申し上げておりますのに、それでも御身はまだ会ったこともないアナスタシア姫の身を案じておられる」
「そ、そんなの当たり前じゃないか」
「…………もうひとつ、手がないこともありませんがね」
「え、あるのか!?」
「御身が王位をお退きになることです。新しい王がお立ちになり、その王が国政を落ち着かせられるなら、アナスタシア姫が嫁ぐ必要性もなくなるでしょう」
「それは……まあ、そうだが……」
だがそれでは、オフィーリアの愛したマケダニアをカリトン自身の手で良くする望みは叶わなくなる。
まあ、17年も頑張って達成できていないのだから何を今さら、という感じがしなくもないけれど。
「…………反則かも知れないが、ひとつ手を思いついた」
「ほう?お聞かせ願えますかな?」
どこか覚悟を決めたようなカリトンの顔を見て嫌な予感が走ったが、何食わぬ顔をしてクリューセースは尋ねた。そうして聞く前に却下しなかったことを、死ぬほど後悔するハメになった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
フェル暦678年の花季上月の下週にアーギス王家から打診された婚約の返答をカリトン王が返したのは、10日余りも経った花季下月の上週に入ってからだった。
婚約を受諾する、と。
ただし、条件付きで。
カリトン王が求めた条件とは以下の三点である。
アナスタシア姫が16歳になるまで婚約の事実を公表しないこと、もしも彼女に他に望ましい相手が見つかったならこの婚約を白紙撤回すること、そして、白紙撤回となった場合にはカリトンが王位を退き、ヘーラクレイオス家の直系でより相応しい人物へ王位も家督も譲る代わりに、アーギス王家からの支援を継続してもらいたいこと。
アリストデーモス連邦王並びにアーギス王家には否やはない。アナスタシアの意思を確認したところ、彼女もまたそれで構わないと答えた。
ただし、と彼女は言った。
自分の進学先をムーセイオン学習院ではなく、ミエザ学習院にすること。
それが条件だと彼女は宣言したのである。
それはつまり、婚約に先んじてアナスタシアがマケダニアに移り住むということに他ならない。そしてアーギスの姫である彼女が住まうのは、そう、マケダニア王宮以外にはあり得ない。
(この子、やりおったわ!)
アナスタシアの条件を聞いた父や祖父など関係者全員が、心中で全く同じ呻きを漏らした。
カリトン王からの申し出は、どう見ても婉曲な婚約の断り文句である。それでいてアナスタシアの希望に精一杯沿うように、彼女に瑕疵がつかないよう配慮して、さらに自身の身の処し方まで提示した、よく考えられた辞退であった。
だというのにアナスタシアは、その辞退を受けて瞬時にさらに一手詰めてきたのだ。しかもカリトンの住まう王宮に住むとなると、これはもう婚約どころか事実上の輿入れに等しいではないか。
アナスタシアの提案を却下することはできない。なにしろムーセイオンとミエザは姉妹校であり、一方の入院資格を得ていたら今一方のそれも同時に取得できるからだ。
というか、アカエイアの連邦首都ラケダイモーンにある〈ムーセイオン学習院〉、テッサリアの首都アーテ二にある〈アカデメイア学習院〉、マケダニアの首都サロニカにある〈ミエザ学習院〉、トゥラケリアの首都オレスティスにある〈リュケイオン学習院〉の四校は全て姉妹校である。つまりアナスタシアはどこを進学先に選んでも構わないのだ。
ムーセイオン学習院はすでに、アナスタシアが〈賢者の学院〉に合格したことを受けて入院資格を与えてしまっていた。そしてカリトン王からの釣書の返書が来たのは入院式の5日前、つまり今すぐにアナスタシアがラケダイモーンを出立すればミエザ学習院の入院式に間に合うタイミングなのだ。
「というわけで、行って参りますわ!」
「いやお前いつの間に準備を」
「こんな事もあろうかと、備えておきましたのよお兄様!」
(この子さては、カリトン王が断りを入れることまで視野に入れとったんじゃな……)
(カリトン王……ウチの子は君が思ってるよりずっと手強いぞ……)
「婚姻式には皆様ご招待致しますから!楽しみにお待ちになってて!」
「「「「早くも婚姻式の話してる!?」」」」
「あらあら。アナったら楽しそうね」
「クレウーサは本当にのんびりし過ぎだ。可愛い妹が心配じゃないのか」
「いいえお兄様。可愛いアナがあんなに幸せそうなのに、何を憂うことがあるのです?」
「いやまあ、そう言われればそうかも知れんが」
「さ、ディーアもエリッサも行きますわよ!」
「お待ち下さい姫様!まだ荷物が!」
「そんなものは後で送らせればいいのよ!」
こうして、婚約の受諾を受け取ったアナスタシアは意気揚々とマケダニアに向けて即日出立して行ったのである。
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