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【王女アナスタシア】

03.彼女は思い悩む

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 ベッドの上で上体を起こして、アナスタシアは窓の外を見る。
 とはいえ、王宮の三階の窓から見えるものなんて空くらいしかない。スッキリと晴れた青空に白い雲が浮かんでいて、どこへともなく流れていくのが見えるだけだ。

 はあ、とアナスタシアはひとつため息をつく。池に落ちたあと目覚めてからもう何日も経っているのに、彼女は相変わらず療養させられている。今も彼女が生まれてからずっと仕えてくれている侍女イオレイアが側に控えているので、勝手にベッドを抜け出すことさえできそうにない。

 ⸺暇だわ。

 今のアナスタシアの、嘘偽らざる本音である。5歳児としては当然の思考ではあるが、彼女がそう考えるのは5歳の知能ゆえではなかった。
 彼女は今や前世だったオフィーリアの記憶を完全に取り戻していた。3歳の頃に始まった厳しい淑女教育、7歳で始まった王子妃候補の先行教育、10歳で課せられたカストリア家の後継教育に、11歳で受け始めた王子妃教育、さらに12歳からのミエザ学習院入院に向けての受験勉強と押し付けられた領政執務に、13歳で学習院に入院してからの学生会業務に、15歳で命じられた王子の公務に忙殺されていた記憶を。
 そう。要するに寝る間どころか食事の時間さえ削って、教育に執務に公務にと多忙を極めきっていた彼女オフィーリアの記憶の中で、している記憶などほぼ無かったのだ。だからこそ、今こうして何もしないでただ寝ているだけというこの時間が、彼女には無性に苦痛だったのだ。

(まだわね……)

 オフィーリアの記憶と、アナスタシアの日常と。そのギャップに彼女はまだ慣れない。そしてアナスタシアとしての物心ついてからの記憶もきちんと保持している彼女は、こういう時に自分がどういう行動を取っていたかもよく憶えている。

(、絶対にじっとしてなくてイオレイアを困らせていたはずよねえ……)

 さっきからイオレイアがチラチラこっちの様子を窺っているのは間違いなくそのせいだ。アナスタシアが大人しく寝ているはずがないと分かっているのだから、警戒するのも無理はない。

(あああああ!わたくしったらなんてワガママな子だったのかしら!)

 今すぐにでも穴を掘って埋まりたい。けれどもここは地面の上ではなくベッドの上で、穴を掘る道具なんかもありはしない。そもそも5歳児の体力と運動神経でそんなことが可能だとも思えないし、掘り上がる前に絶対に誰かに阻止される。

 いや問題はそこでなくて。
 前世からは考えられないくらいにワガママ放題だった自分の現状こそが問題だ。

 これって絶対にそうよね!?あの時“茜色の魔女”に「遠慮はいらない。剥き出しの欲望そのままに、自分が欲しいものだけ思い浮かべて求めればいい」だなんて唆されたせいよね!?
 なんてこと!今までオフィーリアわたくしが身につけ築き上げてきた完璧な淑女の振る舞いが全っ然できてないじゃない!どうしてくれるのかしら魔女のバカぁ!

 なんて、5歳児が完璧な淑女の振る舞いなど身に付けていたら絶対に怪しまれるだろうということも、アナスタシアには分かっている。
 そして彼女は、反省はしても後悔はしていない。なぜならだと解っているから。

 なおここまでの言動は全て彼女の脳内でのことであり、今の彼女はただベッドの上で座っているだけで、表に出た具体的な行動はため息ひとつだけ。表情もつまんなそうに空を見ているだけで、一見して怪しいところは何もない。
 そのあたりはまさに前世の、感情や思考を表に出さない淑女の振る舞いが活かされているのだが、無意識レベルで完璧にやれている彼女はサッパリ気付いていない。

(こういう時、庭園の隅のベンチに行ってご本を読んでいたわね、そういえば)

 それは懐かしい、そしてとても大切な記憶。
 オフィーリアが王宮の窓から遠目に眺めていて偶然見つけた古ぼけたベンチ。疲れ切っていた時にふと、そこまで足を運んで座ってみれば、風の音、木々の梢越しの柔らかな陽射し、鳥や虫達の鳴き声になんだかとても癒やされてしまって、それ以来隙間時間を無理に作ってでも通うようになった、あのベンチ。
 そこにはなんと、7歳で王宮に上がるようになってから顔を合わせるようになったカリトン殿下もよく足を運んでいたようで、何度か鉢合わせした事がある。本当は殿下とふたりきりで会うなんて絶対ダメだと分かってはいたけれど、彼との時間はとても穏やかで、この時間がずっと続けばいいのにと思ったほどだった。

 会えなかった時でも、行けば殿下が座面に伝言をこっそり残していて下さって、言葉と心のやり取りができたのだったわね。
 ⸺ふふ。あの第二王子の愚痴を、たくさん聞いて頂いたわね。あの薄情な父の悪口も、いっぱい書いちゃったわ。

(って、そうよ!カリトンの今を、何とかして確かめなくては!)

 オフィーリアわたくしが死んでから、殿下はどのように過ごされたのかしら。泣いて下さったのは見たけれど、王位をお継ぎになったのはどういう経緯なのかしら?ていうかあの第二王子や王妃がよく引き下がったわね!?

「イオレイア」
「はい姫様」

「⸺いえ、何でもないわ」

 あっぶな!新聞が読みたいから持って来てだなんて、アナスタシアわたくしが絶対に言わなそうなこと口走るところだったわ!ていうか5歳だったわわたくし!そんな子供が文字なんて読めるわけないじゃないのまだ習ってないんだから!

 オフィーリアはもちろん読めるけれど、習っていないアナスタシアは当然読めない。眠るときに乳母も兼任しているイオレイアが本を読み聞かせてくれるけれどそれは子供向けの寓話の絵本だし、それさえも今までのアナスタシアは興味を示さずに嫌がっていた。
 そんなわたくしが新聞を読みたいだなんて言ったら、たちまちまた家族を呼ばれて心配されるに決まっているじゃない!ディーアとエリッサで失敗したのに、また同じことを繰り返すところだったわ!

「……そういえば」
「はい、いかがなさいましたか姫様」
「あなたの妹って、たしかマケダニアにいるんだったかしら」

「まあ!姫様、わたくしが以前お話したことを憶えておいででしたのね!」

 ああっ、そんなに嬉しそうに喜ばないで!今のはオフィーリアの記憶から引っ張り出してきたの!アナスタシアは全っ然憶えてなかったのよごめんなさい!

「そ、それで、ええと……妹はどんなしごとをしているの?」

 だから聞かなくても知っているのだけれどね。聞き出したていにしないと絶対怪しまれるものね!

「我が妹へスペレイアも、マケダニアあちらの王宮で侍女を務めておりますの。今も変わらずカリトン陛下のお付きとしてお仕えしているはずですわ」
「いつからお仕えしているの?」
「そうですね、もうかれこれ20年ほどになりますでしょうか。時の経つのは早いものですわ」

 わたくしもすっかり歳を取りまして、とか何とかイオレイアが言っているけれど、それはひとまずどうでもいいわね。っていうか貴女だってまだ30代なのだから、充分若くてよ?
 そしてわざわざ妹の話なんて持ち出したのは、あなたの歳の話をするためではないの。

「ねえ、むかしばなしが聞きたいわ」
「昔話ですか?では“五色の竜”のお話など⸺」
「そっちじゃなくて。マケダニアのカリトンへいかがごそくいなさる前から、あなたの妹ってマケダニア王宮に仕えていたのでしょう?」

「…………姫様」

「……え、なあに?」
「どうかなさったのですか?姫様は今までお菓子とか玩具とか、気に入られたもの以外は一切興味をお示しにならなかったのに。なぜ唐突にマケダニア王宮のことなどに興味をお持ちになられたのですか?」

 ああっ今までのアナスタシアわたくしのバカぁ!前世の記憶を取り戻す前で無意識だったとはいえ、魔女に唆されるままに欲望丸出しでやりたい放題やってきたツケが、イオレイアの怪訝そうな視線にモロに出てるじゃないの!

「えっ、ええと、そのう……」
「姫様は、本当にあの日からお人が変わられたようですわ」

 ギックゥ!?

「すっかりワガママも仰らなくなられましたし、じっとしていずに暴れることも無くなりましたし。喜怒哀楽もあまり見せずにお可愛らしいお澄まし顔を見せて下さるのは嬉しいのですが、わたくしと致しましては今までの元気いっぱいのアナスタシア姫様が懐かしゅうございます」

 えっバレてない?
 前世の記憶思い出したのバレてないのね良かったぁ!
 ていうかイオレイアあなたはあんなにワガママ放題だったアナスタシアわたくしの方がいいっていうの!?

「ねえ姫様」
「えっ……なに?」
「姫様はまだ5歳なのですから、まだまだ子供らしくお振る舞いになってもよろしいのですよ?」
「えっ、でも、もうすぐきょうい……おべんきょうが始まるって聞いたわ」
「お勉強はお勉強で頑張らなくてはいけませんが、お勉強以外では普段通りで構いませんとも。さあ、この乳母が抱っこして差し上げましょうね」

 ちょっとイオレイア!?わたくしを寝かしつけようとしないでちょうだい!
 ちょ、離して!下ろしなさい!優しく背中トントンしないで!そんなのすぐ眠く、なっちゃう……からぁ…………

 しかし必死の抵抗も虚しく、寝付きのよすぎる5歳児は、睡魔にあっさりと敗北を喫してしまったのであった。





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