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【王女アナスタシア】
01.彼女は目覚めた
しおりを挟む王女アナスタシア・ル・ギュナイコス・アーギスは、かつて西方世界の大半を支配していた古代ロマヌム帝国の直接の末裔を称する“八裔国”の一角たるイリシャ連邦王国の、本国王家であるアカエイア王国アーギス家に生まれた姫である。
父の名はアカエイア国王ニケフォロス、祖父はイリシャ連邦王たるアリストデーモスという。ニケフォロスには一男三女がおり、アナスタシアはその末の姫だ。
末っ子という事もあり、両親と兄姉から溺愛されて、アナスタシアは元気いっぱいワガママ放題に育った。いや正確には両親も兄姉も溺愛はすれど甘やかしすぎることはなかったのだが、なぜか兄妹の中でアナスタシアだけがワガママに育ってしまったのだ。
両親や側仕えたちが過度の贅沢を許したわけではなく、情操教育を怠ったわけでもない。とはいえアナスタシアはまだ5歳だから、教育よりも甘やかす方がまだ比重が大きい可能性もある。それでも兄姉たちの5歳時に比べればアナスタシアは明らかにワガママだ。
どれほどかと言えば、それまで手放さなかったお気に入りの玩具をある日突然見向きもしなくなったり、それまで特に問題なく仕えていた侍女に対して、ある時急に怒り出して解雇すると喚いたり、ある朝なんの前触れもなく「今日は起きない」と言い出して、昼過ぎまでベッドから出ようとしなかったり。
子供の可愛らしい気まぐれと言えばそれで済んでしまうのかも知れなかったが、それでもワガママには違いない。両親も兄姉も周りの大人たちもどうしたものかと頭を悩ませていた。
だって今のうちならまだ可愛いものだが、このまま育ってしまえば色々とアウトである。アカエイアの王家としても、イリシャの連邦王家としても、今のうちに矯正して立派な淑女に育ってもらわねばならない。
そう。今何とかしなければ、幼い彼女の将来が悲惨なことにもなりかねないのだ。
だがそんな周囲の心配をよそに、アナスタシアは今日も元気いっぱいワガママ放題である。今朝もそれまでよく食べていた人参を「わたくしそれキライよ。二度と料理に入れないでちょうだい」などと言い出して給仕のメイドや料理人を困らせている。
そしてそんな彼女を、たしなめるべき父ニケフォロスが目尻を下げて嬉しそうに見ているから始末に負えない。
「あなた。デレデレしてばかりいないで、アナのこときちんと叱ってやって下さいませ」
王妃のオイノエーにそう言われても、
「分かっているとも。でもまだあと1年くらい良いだろう?」
とか言ってヘラヘラデレデレしている始末。これでもすでに王位を継いだ32歳、いい年こいた立派な大人のはずなのだが、王の威厳などどこへやら。
まあここは王家の家族専用朝食室なので、信頼できる使用人たち以外に見られる心配はないのだが。
そんなある日、事件は起こった。
侍女たちを引き連れて昼下がりの庭園を散歩していたアナスタシアが、いきなり走り出したのだ。
「姫様!?」
「突然どうなさったのですか!?」
「そんなに走っては危のうございます!」
慌てて侍女たちが追いかけるも、5歳児とは思えぬスピードでアナスタシアは駆けてゆく。駆けるというか、ほとんど逃げたと言った方が正しそうな勢いである。
そして5歳児なものだからアナスタシアは渾身の全力疾走であり、普段から走り慣れない貴族子女出身の侍女たちがなかなか追いつかない。しかも全力疾走する彼女は、まだ5歳児らしく周囲の状況も確認できていなかった。
「あっ!」
足元の草に靴を滑らせて、アナスタシアが体勢を崩した。それだけなら良かったのだが。
バッシャーーーン!
ちょうど庭園に作られた池のそばまで来ていたアナスタシアは、その中に真っ逆さまに落ちてしまったのだ。
「きゃあああ!」
「姫様っ!」
「誰か、誰か来て!」
慌てて悲鳴を上げる侍女たち。だが誰も飛び込もうとはしない。なにしろ貴族出身なので誰も泳いだ事などないのだ。
そしてアナスタシアも当然それは同じであり、そもそも5歳児が泳げるわけもない。もっと幼い時分、例えば歩くことも出来ないような乳児であれば案外余計な力が入らず水に浮かんでいられたりもするのだが、しっかり自我も育って手足も自由に動かせる5歳のアナスタシアは、水に驚いて思いっきり暴れた。
そうするとどうなるか。
着ていたお気に入りの普段着が水を吸ってまとわりつき、一気に重くなった衣服は5歳児の身体の自由を奪ってゆく。そうしてアナスタシアは完全に水中に没した。
5歳児だからやむを得ないことだが、アナスタシアの身長では水底に足がつかなかった。大人であれば立ち上がれば溺れることはなかっただろうが、彼女にはそれができなかったのだ。
身体が自由に動かず、足をついて水面に顔を出せない彼女は、酸素を求めて水中で呼吸した。そのせいで大量に水を吸い込むことになった。
騒ぎを聞きつけて近くにいた近衛騎士が駆けつけてきて、水中に飛び込んでアナスタシアを引き上げた。だがその時には、もう彼女の呼吸は止まってしまっていたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ぼんやりと視界が開く。
ベッドの天蓋が目に入った。
自分の大好きな空色の天蓋…………待って、わたくし、ピンクが好きなのだけれど?
パチリと目を開く。
どうやら寝かされていたようだ。ふかふかの上掛けに、陽神の匂いが鼻孔をくすぐる。
ああ、そうね。普段からわたくし、寝具をよく陽射しに当てておくように指示していたものね。
………………え、普段からほとんどベッドに入らないのに、なぜわたくしはそんな指示を?
「姫様!」
「お気付きになられたわ!」
「誰か、御典医をお呼びして!」
目を開いたことで、周囲が一気に騒がしくなる。今の声はディーアとエリッサと、イオレイアかしら。
…………待って?わたくしの侍女にそんな名前の子たちいたかしら?
頭がぼうっとするのは、わたくしが寝ていることと関係があるのかしら。
あっ、もしかしてわたくし、公務の途中で倒れたのでは!?
と思って慌てて起き出そうとしたのに、侍女たちに押さえられて寝かされ、再び上掛けを被せられてしまった。お陽さまの匂い、気持ちいいわ。
しばらくしてやってきた典医は、知ってるけど知らない人だった。名前、何だったかしら?
「姫。私のことがお分かりになりますかな」
「…………ごめんなさい、名前は覚えていないわ」
典医の後ろで侍女たちが息を呑んでいる。なぜ?
「ご自身のお名前は、覚えておられますかな」
「わたくしは…………オフィーリア?」
あっ、イオレイアが倒れたわ。
「……姫様。姫様の御名はそんな名前ではございませんぞ」
「あっ、そうだったわね。わたくしはアナスタシアだったわ」
ねえ、ディーアもエリッサもどうして涙を流して喜んでいるの?
「姫は目を覚まされたばかりで、まだ混乱しておられます。処置は完璧に済んでおるので、しばらくはゆっくり静養なさると良いでしょう」
典医はわたくしの腕を取って脈を見て、目や口の中を覗き込んで何やら確かめて、それからそう言って一礼して下がったわ。
ゆっくり静養だなんて、そんなわけにはいかないのに。後でその旨しっかり言い含めておかなくては。
…………なぜ言い含める必要が?
「アナ!」
「アナスタシア!」
「気がついたって!?」
「ちょっと!大丈夫なの!?」
あっ、今度はお母さまとお父さま、それにお兄さまとお姉さままでいらしたわ。
……あら?わたくしには兄弟姉妹は居ないはず、では?
えっでも、確かにニケフォロスお父さまとオイノエーお母さま、それにヒュアキントスお兄さまとディミトラお姉さまよね。一番上のクレウーサお姉さまはいらっしゃらないのかしら。
待って?わたくしの母はアレサお母さまでは?父親は…………名前を思い出すのも嫌だわ。汚らわしい。
「…………アナ。どうしてそんな目で父を見るんだい?」
あっ、ニケフォロスお父さまがこの世の終わりみたいなお顔をなさっているわ。もしかして、顔に出てしまったのかしら?
と思う間もなく、ディミトラお姉さまに抱きつかれてしまったわ。
「アナ!もう、心配したのよ!」
涙を流して喜んで下さるディミトラお姉さま。オイノエーお母さまにも抱きしめられて喜ばれて、それから池に落ちたことをたっぷり叱られてしまったわ。
叱られたことなんてもういつ以来になるのか思い出せないほどだったけれど、不思議と嫌な思いはしなかったわ。わたくしのことを本当に心の底から心配して下さっているのが分かって、怖いどころかちょっと嬉しかった。
そうしてしばらく叱られ心配され無事を喜ばれて、今日のところはしっかり静養するよう言いつけられて、お母さまたちは寝室を出て行かれたわ。
わたくしは自分で思っていたより疲れていたのか、その後すぐに眠ってしまったの。
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