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【公女が死ぬまで】
05.オフィーリアとアノエートス
しおりを挟む「何日も帰らずに、一体どこを遊び歩いておったのだ、この放蕩娘が」
数日ぶりに帰宅を果たした王都のカストリア公爵家公邸の玄関先で、オフィーリアに投げつけられた言葉がこれである。
「お父様……」
投げつけたのは、父だった。アノエートス・レ・アンドロス・カストリア。オフィーリアの亡母アレサの婿である。
「本当に貴様は、次期カストリア公爵としての自覚があるのか。何日も帰らずに遊び歩いて、そんなことで栄えあるカストリア公爵家を、私の跡を継げると思っているのか」
「わたくしは遊び歩いてなどおりませんわ。この数日は殿下のご指示でご公務の補佐をしておりましたので、ずっと王宮におりました。そのことは伝令で我が家にも⸺」
「嘘ばかり申し立てるな!」
「……嘘と申されましても」
オフィーリアは父の後ろに控える家令と執事に目を向ける。ふたりとも、沈痛な顔をして頭を下げるだけだ。
つまり、父はまた耳を貸さなかったのだろう。
「だいたい、殿下のご公務書類に貴様の名など一度も載ったことがないでそうではないか!」
それは事実である。オフィーリアの仕事は全て第二王子ボアネルジェスの名義でなされており、オフィーリアが自分の名を出したことなど一度もない。だってそれがボアネルジェスからの命令だったのだから、オフィーリアには従うしかない。
そうやって彼は公務の大半をオフィーリアに丸投げした上で、自分のやりたい軍務や社交だけを自分でこなしているのだ。必然的に彼が自分の執務室へ顔を出すことも少なくなり、だから今朝の閲兵式書類のようなトラブルがままある。
そうした突発的なトラブルに毎回のように振り回されるから、オフィーリアは公邸に戻れずに王宮に与えられた自室で仮眠することも多かった。今日だってあれから各方面への謝罪と予定変更とその調整に追われて、晩食のあと王妃に呼び出され、その後も予定されていた公務を半分ほど片付けて、ようやくこうして帰ってこれたのが夜も更けわたった深夜である。
それでも、帰ってこれただけマシなのだ。せめて今日くらいは公邸にお戻り下さいと、執務室を追い出してくれた文官たちには感謝しかない。
「全く、貴様のような貴族の風上にも置けんような奴が、なぜ未だに第二王子殿下の婚約者でいられるのか、不思議でならんわ。潔く身を引こうとは思わんのか」
腕を組み、傲然と胸を張って居丈高に叱責してくる父親に、オフィーリアはため息しか出ない。だがもちろん実際に取った行動は、令嬢としての嗜みとして、扇を広げて口許を隠しただけである。
「なんだその態度は」
「わたくしとボアネルジェス殿下との婚約は王家が取り決めたもの。わたくしが辞退することは叶いませぬ」
「陛下も貴様の放蕩ぶりを知ったらお怒りになるだろう。そうなれば貴様は終わりだ」
「いいえ、そうはなりませぬ」
オフィーリアに公務を手伝わせているのはボアネルジェス本人なのだ。そして与えられた公務を全てこなしている割には執務室に籠もることもなく、日々自由に振る舞いすぎる第二王子の普段の様子は、陛下とて承知されているだろうとオフィーリアは考えている。
現時点でボアネルジェスが陛下に叱責されていないのは、自分の婚約者を上手く使って問題のない状態を維持できているからに過ぎない。おそらくは、ただそれだけのことだ。
「余裕ぶっていられるのも今のうちだ。私が陛下に直接奏上致せば、きっと陛下もお分かりになるだろう」
「おやめ下さいお父様」
そんな事をしても、カストリア公爵家の名に傷がつくだけだ。本当にオフィーリアが遊び歩いていた場合でも、それがアノエートスの荒唐無稽な妄想でしかなかった場合でも、どちらにしても嘲笑われるのはカストリア公爵家なのだ。
筆頭公爵家の醜聞など、政敵であるサロニカ公爵の一派を利することにしかならないというのに、この父はそんな事にも気付かないのか。
「だいたい、貴様のような奴が栄えあるカストリア公爵家を継ぐなど、我がマケダニアの恥にしかならん。そのことも陛下に奏上して、廃嫡の手続きを進めるからそのつもりでおれ」
「それは不可能ですわお父様」
直系のオフィーリアがいる限り、傍系や血縁のどの家系もカストリア家の名を継ぐことは叶わない。それはイリシャの連邦法典でも明記されていることだ。特定の家系では入婿に家名を継承する権利がなく、正当後継者が襲爵するまでの代理しか任せられないことも、もちろん連邦法典で定められている。
そしてカストリア家は、その「特定の家系」だ。
「カストリア公爵たるこの私がそう決めたのだ!不可能なことがあるものか!」
つまりアノエートスはこの時点ですでに、連邦法典違反を犯している。追捕局に突き出されないのはひとえにオフィーリアの温情でしかない。
「何度も申し上げておりますが、お父様が何を仰られてもわたくしが次期公爵です。そしてお父様は『カストリア公爵』ではありません」
カストリア公爵であったのはオフィーリアの亡母アレサである。アノエートスは家門に連なる伯爵家から迎えた入婿でしかない。彼にはカストリア公爵位を継ぐ資格がないのだ。
そしてオフィーリアは慣例により、18歳になればカストリア公爵位を継承する。現在の彼女はまだ15歳で成人したばかりであり、建前上はこれから後継教育を始めて3年かけて履修する事になっている。
まあ後継教育そのものはオフィーリアが12歳の時に亡くなった母が、オフィーリアが10歳の頃から少しずつ計画を組んで教育していたため、実のところもう終わりが見えているが。
今にして思えば、母にはある種の予感があったのだろう。自分の命が長くないこと、夫が信用ならないこと、そして年若いオフィーリアの立場が脅かされかねないことなど、もろもろと。
「まだ言うか、貴様!」
アノエートスは右腕を振り上げ、振り下ろした。頬を張られた小柄なオフィーリアが倒れ込み、即座に駆け寄った侍女たちに助け起こされる。
「……お父様」
次期公爵にして、カストリア公爵家唯一の直系であるオフィーリアに手を上げればどうなるか、この愚かな父はそんな事にも気付かない。だって彼は、幸運にも疎ましい妻が亡くなったことで、この筆頭公爵家が自分のものになったと思いこんでいるのだから。
だがそんな愚者でも、オフィーリアにとっては血の繋がった実の父である。できることなら穏便に済ませたかった。
だから基本的に父に従いつつも、曲げられぬことは曲げられぬと繰り返し伝えてきたはずなのに。
オフィーリアを助け起こした侍女たちや、周囲に侍る家令や執事、使用人たちの怒りのこもった視線が突き刺さり、さすがに手を上げたのはやり過ぎたと思ったのだろう。アノエートスは咳払いして居心地悪そうに身を揺らす。
「……ふん、まあいい。そうやって私に楯突けるのも今のうちだ。全てを失ってから泣いて詫びても許さんから覚悟しておけ。⸺オフィーリアに食事を供することは許さぬ。自室に軟禁しておけ」
アノエートスは尊大に執事にそう命じて、ひとり踵を返して玄関ホールから去って行く。その後に従うのは唯一家令のみで、他は誰も追従しようとしない。その家令にしたって、公爵代理を野放しにできないから従っているだけだが。
「さあお嬢様、まずはお部屋にお戻り下さい」
「お嬢様、すぐにお食事をお部屋にお持ち致しますので」
「湯浴みの準備も進めさせておりますから、お食事のあとにでも」
「その前にお顔のお手当てを致しませんと」
侍女たちが次々と寄ってきて、口々にオフィーリアを労ってくれる。使用人たちはみな母が存命の頃から公爵家に仕えてくれている者たちで、父を始めとしたオフィーリアを疎む者たちから守ってくれている。
彼ら彼女らが解雇され邸を追い出されないのは、母の死後に父が不当に追い出した使用人のひとりが公的機関に訴え出た結果、代理公爵に人事権なしと司法院が認めて使用人の復職を許可したからである。以後、父はもちろん義母も使用人を入れ替えられずにいる。
「ありがとう。でもその前に執務室へ行くわ」
心配して声をかけてくる侍女たちにオフィーリアがそう言うと、彼女たちから声なき悲鳴が上がる。
「いけませんお嬢様、まずはゆっくりお休みになられて下さいませ。領政執務なら明日にでも⸺」
「明日の朝になれば学習院に登院して、昼からはまた王宮へ上がらなくてはならないわ。今夜しか時間がないのよ」
「で、ですが……!」
「……もう、分かったわ。では先に食事を頂こうかしら」
「⸺っ!はい、すぐに準備致します!」
「簡単に食べられるものにしてね。あまり食欲がわかないの」
そのオフィーリアの言葉に侍女たちはみな悲痛な表情を浮かべたが、力なく微笑む彼女にもう誰も何も言わなかった。
オフィーリアは自室で軽食をつまみ紅茶を一杯飲んだあと、着替えも湯浴みもせずに公爵の執務室へ向かう。そこで待っていてくれた家令から留守中の報告を受け取り、当主の決裁が必要なもののみ父の名で署名してゆく。
ここでもオフィーリアは自分の名を一切用いなかった。自分の名で署名してしまえば、父が代理の仕事すら果たしていないことが明るみになってしまうからである。
オフィーリアはなんとなしに、窓の向こうの暗闇に目を向ける。父は今頃自室に戻って、義母と褥を共にしているのだろう。公爵家の血を持たぬ父が連れ込んで公爵夫人と称している、本来ならば許されざる愛人と。
父は愛人を作っていただけでなく、娘まで産ませていた。そう、公爵家の娘はオフィーリアひとりだが、オフィーリアの父には娘がふたりいるのだ。
その異母妹は、玄関先へは出てこなかった。深夜ということもあり、すでに自室で眠っているのだろう。あの子は人一倍美容に気を使っているから、睡眠不足は大敵だものね。オフィーリアはそう結論づけて、それ以上は考えなかった。
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