上 下
5 / 84
【公女が死ぬまで】

05.オフィーリアとアノエートス

しおりを挟む


「何日も帰らずに、一体どこを遊び歩いておったのだ、この放蕩娘が」

 数日ぶりに帰宅を果たした王都のカストリア公爵家公邸の玄関先で、オフィーリアに投げつけられた言葉がこれである。

「お父様……」

 投げつけたのは、父だった。アノエートス・レ・アンドロス・カストリア。オフィーリアの亡母アレサの婿である。

「本当に貴様は、次期カストリア公爵としての自覚があるのか。何日も帰らずに遊び歩いて、そんなことで栄えあるカストリア公爵家を、私の跡を継げると思っているのか」
「わたくしは遊び歩いてなどおりませんわ。この数日は殿下のご指示でご公務の補佐をしておりましたので、ずっと王宮におりました。そのことは伝令で我が家にも⸺」
「嘘ばかり申し立てるな!」

「……嘘と申されましても」

 オフィーリアは父の後ろに控える家令と執事に目を向ける。ふたりとも、沈痛な顔をして頭を下げるだけだ。
 つまり、父は耳を貸さなかったのだろう。

「だいたい、殿下のご公務書類に貴様の名など一度も載ったことがないでそうではないか!」

 それは事実である。オフィーリアの仕事は全て第二王子ボアネルジェスの名義でなされており、オフィーリアが自分の名を出したことなど一度もない。だってそれがボアネルジェスからの命令だったのだから、オフィーリアには従うしかない。
 そうやって彼は公務の大半をオフィーリアに丸投げした上で、自分のやりたい軍務や社交だけを自分でこなしているのだ。必然的に彼が自分の執務室へ顔を出すことも少なくなり、だから今朝の閲兵式書類のようなトラブルがままある。

 そうした突発的なトラブルに毎回のように振り回されるから、オフィーリアは公邸に戻れずに王宮に与えられた自室で仮眠することも多かった。今日だってあれから各方面への謝罪と予定変更とその調整に追われて、晩食のあと王妃に呼び出され、その後も予定されていた公務を半分ほど片付けて、ようやくこうして帰ってこれたのが夜も更けわたった深夜である。
 それでも、帰ってこれただけマシなのだ。せめて今日くらいは公邸にお戻り下さいと、執務室を追い出してくれた文官たちには感謝しかない。

「全く、貴様のような貴族の風上にも置けんような奴が、なぜ未だに第二王子殿下の婚約者でいられるのか、不思議でならんわ。潔く身を引こうとは思わんのか」

 腕を組み、傲然ごうぜんと胸を張って居丈高いたけだかに叱責してくる父親に、オフィーリアはため息しか出ない。だがもちろん実際に取った行動は、令嬢としての嗜みとして、扇を広げて口許を隠しただけである。

「なんだその態度は」
「わたくしとボアネルジェス殿下との婚約は王家が取り決めたもの。わたくしが辞退することは叶いませぬ」
「陛下も貴様の放蕩ぶりを知ったらお怒りになるだろう。そうなれば貴様は終わりだ」
「いいえ、そうはなりませぬ」

 オフィーリアに公務を手伝わせているのはボアネルジェス本人なのだ。そして与えられた公務を全てこなしている割には執務室に籠もることもなく、日々自由に振る舞いすぎる第二王子の普段の様子は、陛下とて承知されているだろうとオフィーリアは考えている。
 現時点でボアネルジェスが陛下に叱責されていないのは、自分の婚約者を使問題のない状態を維持できているからに過ぎない。おそらくは、ただそれだけのことだ。

「余裕ぶっていられるのも今のうちだ。私が陛下に直接奏上致せば、きっと陛下もお分かりになるだろう」
「おやめ下さいお父様」

 そんな事をしても、カストリア公爵家の名に傷がつくだけだ。本当にオフィーリアが遊び歩いていた場合でも、それがアノエートスの荒唐無稽な妄想でしかなかった場合でも、どちらにしても嘲笑わらわれるのはカストリア公爵家なのだ。
 筆頭公爵家の醜聞スカンダロンなど、政敵であるサロニカ公爵の一派を利することにしかならないというのに、この父はそんな事にも気付かないのか。

「だいたい、貴様のような奴が栄えあるカストリア公爵家を継ぐなど、我がマケダニアの恥にしかならん。そのことも陛下に奏上して、廃嫡の手続きを進めるからそのつもりでおれ」
「それは不可能ですわお父様」

 直系のオフィーリアがいる限り、傍系や血縁のどの家系もカストリア家の名を継ぐことは叶わない。それはイリシャの連邦法典でも明記されていることだ。特定の家系では入婿に家名を継承する権利がなく、正当後継者が襲爵するまでの代理しか任せられないことも、もちろん連邦法典で定められている。
 そしてカストリア家は、その「特定の家系」だ。

がそう決めたのだ!不可能なことがあるものか!」

 つまりアノエートスはこの時点ですでに、連邦法典違反を犯している。追捕ついほ局に突き出されないのはひとえにオフィーリアの温情でしかない。

「何度も申し上げておりますが、お父様が何を仰られてもわたくしが次期公爵です。そしてお父様は『カストリア公爵』ではありません」

 カストリア公爵であったのはオフィーリアの亡母アレサである。アノエートスは家門に連なる伯爵家から迎えた入婿でしかない。彼にはカストリア公爵位を継ぐ資格がないのだ。
 そしてオフィーリアは慣例により、18歳になればカストリア公爵位を継承する。現在の彼女はまだ15歳で成人したばかりであり、建前上はこれから後継教育を始めて3年かけて履修する事になっている。
 まあ後継教育そのものはオフィーリアが12歳の時に亡くなった母が、オフィーリアが10歳の頃から少しずつ計画を組んで教育していたため、実のところもう終わりが見えているが。

 今にして思えば、母にはある種の予感があったのだろう。自分の命が長くないこと、夫が信用ならないこと、そして年若いオフィーリアの立場が脅かされかねないことなど、もろもろと。

「まだ言うか、貴様!」

 アノエートスは右腕を振り上げ、振り下ろした。頬を張られた小柄なオフィーリアが倒れ込み、即座に駆け寄った侍女たちに助け起こされる。

「……お父様」

 次期公爵にして、カストリア公爵家唯一の直系であるオフィーリアに手を上げればどうなるか、この愚かな父はそんな事にも気付かない。だって彼は、疎ましい妻が亡くなったことで、この筆頭公爵家が自分のものになったと思いこんでいるのだから。
 だがそんな愚者でも、オフィーリアにとっては血の繋がった実の父である。できることなら穏便に済ませたかった。
 だから基本的に父に従いつつも、曲げられぬことは曲げられぬと繰り返し伝えてきたはずなのに。

 オフィーリアを助け起こした侍女たちや、周囲に侍る家令や執事、使用人たちの怒りのこもった視線が突き刺さり、さすがに手を上げたのはやり過ぎたと思ったのだろう。アノエートスは咳払いして居心地悪そうに身を揺らす。

「……ふん、まあいい。そうやって私に楯突けるのも今のうちだ。全てを失ってから泣いて詫びても許さんから覚悟しておけ。⸺オフィーリアに食事を供することは許さぬ。自室に軟禁しておけ」

 アノエートスは尊大に執事にそう命じて、ひとり踵を返して玄関ホールから去って行く。その後に従うのは唯一家令のみで、他は誰も追従ついじゅうしようとしない。その家令にしたって、公爵代理をから従っているだけだが。

「さあお嬢様、まずはお部屋にお戻り下さい」
「お嬢様、すぐにお食事をお部屋にお持ち致しますので」
「湯浴みの準備も進めさせておりますから、お食事のあとにでも」
「その前にお顔のお手当てを致しませんと」

 侍女たちが次々と寄ってきて、口々にオフィーリアを労ってくれる。使用人たちはみな母が存命の頃から公爵家に仕えてくれている者たちで、父を始めとしたオフィーリアを疎む者たちから守ってくれている。
 彼ら彼女らが解雇され邸を追い出されないのは、母の死後に父が不当に追い出した使用人のひとりが公的機関に訴え出た結果、と司法院が認めて使用人の復職を許可したからである。以後、父はもちろん義母も使用人を入れ替えられずにいる。

「ありがとう。でもその前に執務室へ行くわ」

 心配して声をかけてくる侍女たちにオフィーリアがそう言うと、彼女たちから声なき悲鳴が上がる。

「いけませんお嬢様、まずはゆっくりお休みになられて下さいませ。領政執務なら明日にでも⸺」
「明日の朝になれば学習院に登院して、昼からはまた王宮へ上がらなくてはならないわ。今夜しか時間がないのよ」
「で、ですが……!」
「……もう、分かったわ。では先に食事を頂こうかしら」
「⸺っ!はい、すぐに準備致します!」
「簡単に食べられるものにしてね。あまり食欲がわかないの」

 そのオフィーリアの言葉に侍女たちはみな悲痛な表情を浮かべたが、力なく微笑む彼女にもう誰も何も言わなかった。


 オフィーリアは自室で軽食をつまみ紅茶を一杯飲んだあと、着替えも湯浴みもせずに公爵の執務室へ向かう。そこで待っていてくれた家令から留守中の報告を受け取り、当主の決裁が必要なもののみ父の名で署名してゆく。
 ここでもオフィーリアは自分の名を一切用いなかった。自分の名で署名してしまえば、父が代理の仕事すら果たしていないことが明るみになってしまうからである。

 オフィーリアはなんとなしに、窓の向こうの暗闇に目を向ける。父は今頃自室に戻って、義母としとねを共にしているのだろう。公爵家の血を持たぬ父が連れ込んで公爵夫人と称している、本来ならば許されざる愛人・・と。
 父は愛人を作っていただけでなく、娘まで産ませていた。そう、はオフィーリアひとりだが、オフィーリアの父には娘がのだ。
 その異母妹は、玄関先へは出てこなかった。深夜ということもあり、すでに自室で眠っているのだろう。あの子は人一倍美容に気を使っているから、睡眠不足は大敵だものね。オフィーリアはそう結論づけて、それ以上は考えなかった。





しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

両親も義両親も婚約者も妹に奪われましたが、評判はわたしのものでした

朝山みどり
恋愛
婚約者のおじいさまの看病をやっている間に妹と婚約者が仲良くなった。子供ができたという妹を両親も義両親も大事にしてわたしを放り出した。 わたしはひとりで家を町を出た。すると彼らの生活は一変した。

ある王国の王室の物語

朝山みどり
恋愛
平和が続くある王国の一室で婚約者破棄を宣言された少女がいた。カップを持ったまま下を向いて無言の彼女を国王夫妻、侯爵夫妻、王太子、異母妹がじっと見つめた。 顔をあげた彼女はカップを皿に置くと、レモンパイに手を伸ばすと皿に取った。 それから 「承知しました」とだけ言った。 ゆっくりレモンパイを食べるとお茶のおかわりを注ぐように侍女に合図をした。 それからバウンドケーキに手を伸ばした。 カクヨムで公開したものに手を入れたものです。

【本編完結】番って便利な言葉ね

朝山みどり
恋愛
番だと言われて異世界に召喚されたわたしは、番との永遠の愛に胸躍らせたが、番は迎えに来なかった。 召喚者が持つ能力もなく。番の家も冷たかった。 しかし、能力があることが分かり、わたしは一人で生きて行こうと思った・・・・ 本編完結しましたが、ときおり番外編をあげます。 ぜひ読んで下さい。 「第17回恋愛小説大賞」 で奨励賞をいただきました。 ありがとうございます 短編から長編へ変更しました。 62話で完結しました。

王妃はわたくしですよ

朝山みどり
恋愛
王太子のやらかしで、正妃を人質に出すことになった。正妃に選ばれたジュディは、迎えの馬車に乗って王城に行き、書類にサインした。それが結婚。 隣国からの迎えの馬車に乗って隣国に向かった。迎えに来た宰相は、ジュディに言った。 「王妃殿下、力をつけて仕返ししたらどうですか?我が帝国は寛大ですから機会をたくさんあげますよ」 『わたしを退屈から救ってくれ!楽しませてくれ』宰相の思惑通りに、ジュディは力をつけて行った。

今更、いやですわ   【本編 完結しました】

朝山みどり
恋愛
執務室で凍え死んだわたしは、婚約解消された日に戻っていた。 悔しく惨めな記憶・・・二度目は利用されない。

今世は好きにできるんだ

朝山みどり
恋愛
誇り高く慈悲深い、公爵令嬢ルイーズ。だが気が付くと粗末な寝台に横たわっているのに気がついた。 鉄の意志で声を押さえ、状況・・・・状況・・・・確か藤棚の下でお茶会・・・・ポットが割れて・・・侍女がその欠片で・・・思わず切られた首を押さえたが・・・・首にさわった手ががさがさ!!!? やがて自分が伯爵家の先妻の娘だと理解した。後妻と義姉にいびられている、いくじなしで魔力なしの役立たずだと・・・・ なるほど・・・今回は遠慮なく敵をいびっていいんですわ。ましてこの境遇やりたい放題って事!! ルイーズは微笑んだ。

理想の女性を見つけた時には、運命の人を愛人にして白い結婚を宣言していました

ぺきぺき
恋愛
王家の次男として生まれたヨーゼフには幼い頃から決められていた婚約者がいた。兄の補佐として育てられ、兄の息子が立太子した後には臣籍降下し大公になるよていだった。 このヨーゼフ、優秀な頭脳を持ち、立派な大公となることが期待されていたが、幼い頃に見た絵本のお姫様を理想の女性として探し続けているという残念なところがあった。 そしてついに貴族学園で絵本のお姫様とそっくりな令嬢に出会う。 ーーーー 若気の至りでやらかしたことに苦しめられる主人公が最後になんとか幸せになる話。 作者別作品『二人のエリーと遅れてあらわれるヒーローたち』のスピンオフになっていますが、単体でも読めます。 完結まで執筆済み。毎日四話更新で4/24に完結予定。 第一章 無計画な婚約破棄 第二章 無計画な白い結婚 第三章 無計画な告白 第四章 無計画なプロポーズ 第五章 無計画な真実の愛 エピローグ

妹がいらないと言った婚約者は最高でした

朝山みどり
恋愛
わたしは、侯爵家の長女。跡取りとして学院にも行かず、執務をやって来た。婿に来る王子殿下も好きなのは妹。両親も気楽に遊んでいる妹が大事だ。 息詰まる毎日だった。そんなある日、思いがけない事が起こった。 わたしはそれを利用した。大事にしたい人も見つけた。わたしは幸せになる為に精一杯の事をする。

処理中です...