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【公女が死ぬまで】
02.オフィーリアと王宮の人々(1)
しおりを挟む「カストリア公女、今朝になってそのようなことを仰せられましても困りますぞ」
「本当に申し訳ありません。わたくしが至らぬばかりにご迷惑をおかけすることとなってしまいまして」
申し訳なさそうに謝罪する小柄なオフィーリアに対して、はるか頭上から冷ややかな目を向けるのは、王国の宰相を務めるヴェロイア侯爵。現在のバシレイオス王の先代の時代から国に仕えている、廷臣たちのなかでも長老格の人物である。長年出仕してきたことによる政治手腕と調整能力を買われて、宰相の地位を任されてもう10年になる。
誰からも一目置かれる切れ者というわけではなく、他を圧するカリスマ性があるわけでもなく。長身であること以外にさして目立たぬ、敵の少ないだけの穏健派だとしか見られていなかったヴェロイア侯爵だったが、そんな彼が長く宰相の地位を占めるとは誰も予想しなかったことだろう。抜群の調整能力と、巧みに失点を回避する手腕はまさに老獪というべきであり、宮中の誰よりも長身痩躯で、老いてなお全く曲がることのないその背とも相まって、今では陰で密かに“怪物”などと徒名されている。
だが、そんな彼とて神ならぬ人の身であり、できる事があればできない事も当然ある。朝になって宮廷の宰相執務室に顔を出すなり面会を求められ、昼から予定されていた重装戦士団の閲兵式を延期したいなどと言われても、できるわけがない。
「もう各部署とも準備を万端に整えて、あとは本日の閲兵式に臨むだけだったというのに。まだ予算も組めておらぬとは一体どういうことでございますかな」
各種公務の予算は、各部署から提出された概算要求を元にあらかじめ確保しておかねばならないものだ。終了後に正確に計算された最終決算報告の提出を待って、その確保予算から迅速に交付しなければならないからである。
各部署とも準備段階で予算を消化しているのだから、すでに支出は確定なのだ。だがその予算確保も出来ていないとなれば、決算報告が上がってきても支出できない。できなければ各部署の資金が目減りしてその後の様々な公務の遂行に支障が出かねないし、ひとつの案件が終わらなければ、いつまでも文官の手を取られる事になる。
「それは……その」
まさかボアネルジェスが提出された計画書の存在に気付いていなかった、などとオフィーリアの口から言えるわけもない。だから彼女も咄嗟には上手く言い逃れることができない。
結局、彼女はいつもの言い訳を使うしかなかった。
「わたくしが見落としていたのです。お詫びのしようもございません」
筆頭公爵家のご令嬢、それも立太子が濃厚な第二王子の婚約者に深く頭を下げられて、宰相は天を仰ぐ。本来なら宰相よりもずっと地位の高い相手なのだ。まだ学生で令嬢の身とはいえ、筆頭公爵家の次期公爵にして第二王子の婚約者、ゆくゆくは王妃となる予定の人物にそこまでされては、それ以上責めることもできそうにない。
しかも元より長身で老境に差し掛かってなお腰も曲がらず、そのせいで普段から人を見下していると陰口を叩かれる自分に対して、成人したばかりで同世代の子女の中でもひときわ小柄なオフィーリアが頭を下げているのだ。第三者から見ればどうしたって、老宰相が幼気な公女を虐めているようにしか見えないだろう。
「…………本日の閲兵式は中止と致すほかありますまいな」
だから宰相は諦めるしかなかった。だがその代わり、彼は聞こえるようにわざとため息をつく。その程度の意趣返しくらいは容認せよとでも言わんばかりに。
「本当に、申し訳ありません」
「ですが、このような事が何度も続くのはやつがれとしてもご容赦願いたいものですな」
「…………はい。返す言葉もございません」
オフィーリアは縮こまるしかない。
だって今に始まったことではないのだ。
ボアネルジェスはこれまでにも度々、書類の確認を怠って現場に迷惑をかけてきているのだ。ほとんどはオフィーリアか、ボアネルジェスの最側近であるヨルゴスのどちらかが事前に気付いてボアネルジェスにそれとなく気付かせ、決定的なミスになるのを防いでいるのだが、それでもこうしてどうにもならない事態に陥って、現場に迷惑をかけたことが何度もあったのだ。
さすがに当日の朝にまで発覚が遅れた事例はこれまでなかったのだが、今の調子では今後もないとは限らない。というかボアネルジェスが調子に乗って引き受ける公務を増やせば増やすほど、今後こうしたトラブルは増えるに違いない。
だからこそオフィーリアは、『今後は二度とないようにする』という約束の一言が言えない。言ってもし二度目をやらかしたら。それを想像するだけで心胆が冷える。
「…………二度と起こさぬよう努力する、その一言さえ言えぬのですかな」
「……!」
まだ下げたままのオフィーリアの頭上に、宰相の冷めきった声が降り、思わず息を呑んだ。
言われて当然の一言だが、実際に失望の声音を浴びせられるのはやはり辛いものがある。
「聞くところによると、公女が自ら望まれて第二王子殿下のご公務の補佐を買って出ておられるとか。⸺ですが、これではのう」
そう。オフィーリアがボアネルジェスの公務に関連して宮廷内を常に駆けずり回っているのは、廷臣たちの誰もが知っていることだ。
そしてそれが、次期王妃として積極的に公務に関わりたいオフィーリアが、志願してボアネルジェスの公務を手伝っているからだということも、廷臣たち皆が承知しているのだ。
ただしオフィーリア自身がそう公言した事は一度もない。ボアネルジェスがそう吹聴しているのだ。『いくら婚約関係にあるとはいえ、ご公務を手伝わせるのはいかがなものか』と宰相ヴェロイア侯爵が呈した苦言に咄嗟にそう返してから、ボアネルジェスはずっとそう言い続けていて、オフィーリアはそれを否定しなかった。否定すればボアネルジェスが虚偽を述べたことになり、彼の評価が落ちるからである。
そうして自ら望んで関わっている第二王子の公務で、表向きはオフィーリアの失態が繰り返されているわけで、宰相に限らず宮廷内での彼女の評価は下がるばかりだ。
「各部署への連絡と謝罪も、当然やって頂けるのでしょうな」
「⸺は、はい。それはもちろん」
「結構。では次こそ、しっかりお頼み申しますぞ」
本来ならばオフィーリアには他にも手をつけなければならない第二王子の公務が山とある。だが宰相の言葉を断れるわけもない。頭も上げられぬままオフィーリアはさらに深く低頭して、宰相が踵を返して執務机に向かう気配を追うしかなかった。
ちなみに宰相は宰相で、中止するしかない閲兵式の無駄になった予算策定をはじめ、予定になかった仕事をこれからこなさねばならない。オフィーリアに全て負わせて嫌味を言って終わりではないのだ。
なお延期は不可である。魔獣被害に喘ぐ辺境に「閲兵式の日程を組み直すので派遣が遅れる」などと言えるわけがないので、重装戦士団は今日のうちに出発しなければならない。
予定外の公務を増やされたことに頭や胃を痛めつつ、宰相はため息とともにそれらを飲み込むしかなかった。
新たに組み上げるしかない予算計画書は、全て準備を整えて決裁の署名を賜るだけの状態にせねば。もはやオフィーリアを信用していない宰相は、そう心に決めて執務室を退出する彼女を見送った。
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