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10.貴族社会は欺瞞と虚飾でできている
しおりを挟むクラシーク侯爵位に復位したアロガントの父スタバーンは、その2年後、息子の元妻であるフォーニーと再婚するに至った。それまでも養子にした“アロガントの子供たち”に母親が必要だからと、王都の公邸に彼女を住まわせたままにしていたのだが、どうもその日々の中で互いに愛を育んでいたらしい。
50歳の新郎と22歳の新婦は、歳の差をものともせずに幸せそうに微笑んでおり、婚姻披露宴に参列した招待客たちからも好意的に迎えられた。特に新婦は初婚の夫に3年間ほぼずっと放置されていたことがすでに知れ渡っており、彼女が幸せになること、それが元夫の父の手によることなども含めて、ある種の美談として持て囃されてもいる。
ふたりの左手首には、今、それぞれ真新しい誓印が輝いている。
「クラシーク侯の元嫡男、奥様を3年も放置していたくせに時々帰ってきては身勝手に欲望のはけ口にしていたそうよ」
「まあ!なんて酷い!」
「それをお知りになった現侯閣下が奥様を不憫に思われて、暇を見つけてマメに領からお戻りになってはお話し相手をされていたのですって」
「まあ!ではその頃から……?」
「さあ、わたくしは知らないわ。今のお話も噂で聞いただけだもの」
「そうなのね。でも、いろいろ想像しちゃうわねえ」
招待客の御婦人がたの噂話は嫌でも耳に入って来るが、困ったことにおおむね事実なのでフォーニーはいたたまれない。
「堂々としていなさい」
「はい……ですが、旦那さま……」
「なに、真相に辿り着かせなどするものか」
息子の新婚初夜に、その新妻が新郎の父に抱かれに来て本当に抱かれてしまったなどと、仮にそのまま話しても誰が信じるというのか。あまつさえそのまま3年も関係を続けた挙げ句に3人も産ませたなどと。
そして今、何食わぬ顔をしてその不貞の妻を本当の妻にしようとしているのだ。息子アロガントの醜聞と併せて、もしも露見すればクラシーク侯爵家の長い歴史に幕が降ろされることにもなりかねない。
「本当に、大丈夫でしょうか」
「貴族など、欺瞞と虚飾で生きているようなものだよ。皆もそれを分かっているのだから、心配は要らない」
あの夜の大胆不敵な小娘と、今の不安に怯える花嫁が、とても同一人物とは思えない。だがそこがまた愛おしくて、スタバーンは彼女を抱き寄せ唇を奪った。その瞬間を目撃した一部の御婦人がたから、黄色い悲鳴が上がったのだった。
なお、フォーニーの実家の子爵家は彼女を嫁に出したことで領地経営が行き詰まり、1年も経たずに侯爵家に金の無心を始めた。それをスタバーンが問題視し、フォーニーに対する婚約金と婚姻準備金以上の金銭支援は誓紙で取り決めていないことを理由に突っぱねて、それ以降は絶縁状態だ。
その後は公的機関の査察が入り、放漫経営とまだ子供だった当時のフォーニーに領政実務をやらせていた事実が発覚し、子爵家は取り潰された。彼女が双子の男児を産んだ翌年のことである。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「アロガントさまぁ、もっとぉ」
「も……もう勘弁してくれグロリオーサ」
「あら、まだまだ夜はこれからですわよ」
「きっ、君は子を産んだばかりじゃないか」
「だからこそ、ですわ!わたくしに新たな子種をお恵み下さいまし!」
半ば無理矢理に婚姻させられ早2年弱。毎夜のごとく獣のように求めてくる妻に、アロガントはすでに辟易としていた。
だが離婚は叶わない。義父であり領主であるシュペルブス公爵が決して認めないのはもちろん、ふたりの愛の巣である離れから一定距離以上離れられない[制約]を婚姻誓紙に組み込まれてしまっているため、彼は物理的にも逃げられない。
それに何より、妻であるグロリオーサが決して逃がそうとはしないのだ。
着衣を整え、ベッドからソファに移動して、一服ついでにワインを開けて、グラスに注いだ真紅の液体を一気に呷る。飲まなくてはやってられない。
そんなアロガントの隣に、やはり着衣を整えたグロリオーサもやって来た。ついさっきまで睦み合っていたのに、もうしなだれかかってくる。
「わたくしを愛してくださる限り、アロガントさまには何ひとつ不自由な思いなどさせませんわ」
「…………。」
そう言われても、事実上の監禁状態で離れの庭にすら出させてもらえない現状こそが、不自由以外の何物でもない。せめてどこかの夜会に出席する時くらいは外出、まあそれもグロリオーサ同伴でではあるが外出できると思っていたのに、彼女は夜会も茶会も自身の主催で、この離れで開くものにしか出席しなかった。
まあそれでも、離れには執事や料理人、庭師や下人たちまで含めて使用人は年若い女性しかいないから、アロガントも目の保養だけは可能だ。だが少しでも使用人たちに微笑みを向けようものなら、すぐさまグロリオーサに察知されて入れ替えられてしまう。離れの中はどこでも彼女の目が光っていて、気の抜ける場所もない。
「ご安心を、旦那様。わたくしの周りには父や兄を含めて殿方は一切近寄らせませんから、わたくしが旦那様以外の男に目を向けることなど有り得ませんわ」
グロリオーサの浮気なんて全く微塵も心配していない。なにせこの女は心に決めた相手に向ける愛が重すぎる。
こんなに束縛が強い女だと知っていれば、手を出そうなど思わなかったのに。隣国の第二皇子はこの女と10年近くも、よく夫婦生活を続けていられたものだと感心するほかはない。
いや、もしかすると束縛のストレスで早世した可能性すらある。
「でも旦那様?今日もまた旦那様付きの侍女と親しげに談笑されておりましたね?」
「いや、それは……」
アロガント付きの側仕えも女性しかいないものだから、必要な会話どころか最低限の意思疎通まで全て女性との会話になる。そして彼は29歳になった今もなお見目だけは麗しいので、アロガント付きの侍女たちはみな微笑み頬を染め、主人に尽くすべく声をかけ世話を焼こうとする。
それは侍女たちの仕事上どうしても必要なことであり、アロガントの方も使用人たちと良好な関係でいたいから微笑みくらいは当然返すのだが、それをグロリオーサが知れば即座に配置換えしてしまうのだ。
会話をし、微笑み合って親密になり、関係を深めたその先に恋や愛、浮気や不倫というものが存在する。そこに至るまでのプロセスが楽しいのに、せめてその程度のやり取りくらい楽しみたいのに、アロガントはそこまで到達できない。ほんの少しでも親しげにしようものなら、たちどころにグロリオーサに気付かれてしまうから。
どう考えても心配し過ぎだ。そんなに気になるのなら、自分付きだけでも男性の侍従をつけてもらえないものか。
「まあ、なんてこと!旦那様はわたくしの側に男を侍らせようとお考えですの!?」
「そんな事は言っていないだろう!」
「仰ったも同然ですわ!この邸に男を踏み入れさせるなど、わたくしを襲わせてそれを理由に離縁なさるおつもりなのね!」
「違うから!断じてそんな事考えていないから!」
話を聞かないグロリオーサは、隣に座るアロガントの肩をいきなり突き飛ばした。まさか手が出てくるとは思っていなかったアロガントは、不意を突かれてソファに倒れ込む。
サッと立ち上がったグロリオーサが、くるぶしまであるスカートをふわりとたくし上げて、倒れ込んだアロガントの腰に器用にまたがった。
その彼女の手にはいつの間にか鋭利なナイフが握られていて、アロガントは「ヒッ」と情けない悲鳴を小さく漏らした。
まるで水に濡れたように銀色に光るナイフの刃先が、真っ直ぐにアロガントの喉元に向けられる。
「あなたも、結局はあの男と同じなのね……」
「あ……あの男、とは……?」
「あの男も、わたくしの侍女と親密になり、わたくしの目を盗んで不貞を働こうとしましたの」
「いやだから誰の話だ!?」
声を荒げつつも解ってしまった。
9年もの間彼女の夫であった、隣国の第二皇子のことだ。
「よその泥棒猫に再び盗られるくらいなら、永遠にわたくしのものにしなければ」
「まっ、待て!待ってくれ!私には君だけだグロリオーサ!」
アロガントは必死に叫んだ。病死だと聞いている隣国の第二皇子の死因。たがその真実を、今や彼は骨の髄から理解していた。
自分から気持ちが離れたと、この女に思われたから彼は死んだ⸺否、殺されたのだ。
おそらくは隣国も我が国もその事実を隠蔽し、国際的な醜聞を避けて彼女を実家に戻し、無かったことにしたのに違いない。
そう言えば、と今さらながらアロガントは思い出す。「グロリオーサ」とは致死性の猛毒を持つ美しい花の名であったことを。
この花の毒の大きな特徴として、「ゆっくりと、苦しみながら死に至る」という点が挙げられる。服用すれば半日以内に口腔や咽頭の灼熱感を覚え、その後すぐに発熱、嘔吐、下痢などの症状が発現し、最終的に呼吸不全により死に至る。死ぬまでに数日から十数日かかるがその間意識の混濁を起こすことなく、死ぬまでずっと意識がある状態が続くという恐ろしい毒である。
解毒剤は存在せず、服毒後に時間が経てば経つほど完全除去が難しくなってゆく。毒の除去には高位の法術師つまり聖職者による[解癒]の魔術、もしくは神の奇跡を乞う[請願]しか手立てがない。
その危険なまでの美貌に相応しい、刺激的な名だとしか思っていなかった。まさか名実ともに致死の毒花だったとは。
そんな名を持つ女に、アロガントは何も知らずにノコノコと、自分から餌食になりに行ってしまったのだ。
「…………本当ですの?」
「もちろん!君だけを見て、君だけに愛を囁いて、夜毎君だけを愛すると誓う!今までだって君の求めを拒否したことなどなかっただろう!?」
「……信じますわよ?」
「当然信じてくれ!私は君の夫だぞ!一生涯君だけを愛すると婚姻式で誓ったじゃないか!」
グロリオーサの手からナイフがポロリと床に落ちて、絨毯の上で跳ねた。
刃先が触れた絨毯がジュワリと音を立てて溶け、見る間にどす黒く変色してゆくが、アロガントの位置からはそれは見えなかった。
「嬉しい!わたくしも愛しているわ!」
ガバリと上体を倒して抱きついてくるグロリオーサを、アロガントは震える腕で抱き留めるしかない。顔を掴まれ押し当てられてくる唇を、彼は舌でこじ開けて自ら深い接吻へと変えてゆく。
向けられる愛がどれほど理不尽で重かろうとも、もはや受け入れるしか道はない。むしろ積極的に愛し返す態度を常に見せておかねば、彼女を不安にさせただけでも身の破滅に直結する。
(公爵閣下も、三席補佐官も、さてはこのことを知っていたな……)
ハメられたと思ったがもう遅い。学生時代からの知己であり憧れの存在だった彼女の今をきちんと調べることもせず、憧れを手に入れることだけ考えて行動してしまった自分が、全て悪いのだ。
これが世にいう『後悔は、した時にはもう遅い』というやつか。
嬉々としてベルトのバックルを外しにかかるグロリオーサの色の浮いた緋色の瞳を見つめながら、アロガントは遅すぎる後悔に身を委ねた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
久々の休暇で公爵領の領都本邸に戻ってきた嫡男は、ワイングラスを片手に窓辺へ近付き外を見る。
夜闇の向こうに、小さく窓明かりが見える。妹とその夫が暮らす、離れの二階の窓の明かりだ。
「他人事ながら、気の毒と言うほかはないな」
嫡男は独りごちつつ、窓明かりから目を離すことはない。
不意にその窓に、赤い飛沫が飛び散った。
「なっ……!?」
驚いて窓を開け目を凝らしたが、そこには先程と変わらぬ淡い光をこぼす窓明かりが見えるだけ。
「なんだ……幻視か」
安心したら、どっと全身の力が抜けた。
「頼むから、数年程度で死んでくれるなよ……」
実のところ、それが一番の不安点である。心配でいても立ってもいられないから、休暇のたびに領に戻って、妹とその夫の様子を確認せねば落ち着かないのだ。
さすがにこの先10年も経てば、妹の重すぎる愛欲も多少は落ち着き危機は脱するだろうと見られているものの、それまでは決して予断を許さない。当然外になど出せないし、最悪の場合、妹をこの手で始末せねばならなくなるおそれもあった。
「せいぜい頑張れよ、アロガント」
だが彼が果たして耐えられるのか。それは神のみぞ知ることであり、だからこそ嫡男は、ひたすら祈るしかできないのだった。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー
一応ここまでで完結です。
お読み頂きありがとうございました!
なお明日の19時にネーミングのネタばらしを投下します。興味ある人は覗いてみて下さいね!
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