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04.拉致
しおりを挟む「オイ、出てくんな隠れてろ」
「いいのです旦那様」
ローグは慌てた。時間さえ稼げれば居留守を使うなり逃がすなりできたものを、フィオーラが心配して玄関に来てしまったのだ。
ひと目でも彼女を見られたら、間違いなく連れ去られる。だからローグはその大きな背中に彼女の華奢な肢体を隠そうとした。
だというのに、フィオーラはその脇をするりと抜けて前に出てしまったのだ。
フィオーラは初めて会った時に纏っていた白いワンピースドレスを着て、あの時と同じように微笑を浮かべていた。どれほど食べさせても全く変わることのない華奢な肢体も、ろくに手入れもできていないはずなのに艷やかな長い黒髪も透き通るような白皙の肌も、全てがあの日のままの姿の彼女は、ローグの顔をチラリと窺ってから騎士たちに向き直った。
そのあまりの美貌に、騎士たちが色めき立つ。ゴクリと喉のなる音がいくつも聞こえた。
「オイ待て、やめろ」
「いいのです旦那様。私と旦那様とがどちらも生き延びるために、今は命令に従いましょう」
「ダメだ、行かせねえぞ」
「ですがこのままでは旦那様が殺されてしまいますわ。わたくし、それだけは耐えられないのです」
そう言われてしまって、ローグは言葉に詰まる。確かにこの場で暴れたところで、騎士たちの剣で斬り伏せられるのがオチだろう。よしんば手下たちをけしかけて目の前の騎士たちを全て倒せたとしても、次はもっと大勢でやって来るだろう。軍勢を送られたらそれこそ終わりだ。
だが彼女さえ出てこなければ、何とか包囲を破って街の外に逃げることも可能だったかも知れないのに。
「お前が、フィオーラ……だな」
「はい、左様でございます」
「大人しく領主様の御前に額づくなら、お前にもそこの男にも慈悲の御沙汰があるだろう。それを乞いたくば、大人しく従うように」
「仰せのままに」
顔を赤らめ喉を鳴らす騎士隊長に、微笑みを浮かべたままフィオーラは淡々と返事する。それを後ろから眺めながら、ローグは何故か一歩も動けない。フィオーラの肩に手をかけて、抱きしめる事さえできなかった。
何故だ、力を示し地位を上げてもう何物も奪われなくなったはずではないのか。なのに何故、また俺は奪われなければならない。
俺は……俺は、女のひとりも守れないのか。
「旦那様」
不意にフィオーラが振り返る。
そして彼女は、そのままローグの胸へと飛び込んで、太い首に細い腕を回してローグの荒れた唇に自ら口付けた。
ローグは反射的に彼女の細い肩を、しなやかな腰を、その太い腕でかき抱いた。
「わたくしなら大丈夫ですわ。必ず無事に旦那様の許へ帰ります。ですから、旦那様はそれまでこの家でお待ちになって」
たっぷりの抱擁と接吻を騎士たちに見せつけたあとやや身を離して、花が綻ぶような満面の笑顔でフィオーラは囁く。
だが彼女のその言葉が気休めの嘘だということくらい、ローグにさえ分かる。領主がわざわざ国家から貸し与えられている、領地を守るための正規の騎士団までも動員した以上、連れ去られる彼女はそのまま二度と戻っては来ない。領主の邸に囲われてその愛人となり、飽きたら殺されるだけだ。
どれほど美しかろうともフィオーラは素性の知れないスラムの女だ。そんな女をどれほど寵愛したところで子供を産ませることもなければ、正式に夫人とすることもない。
「フィオーラ、行くな、フィオーラ」
それまで恐怖と暴力とでスラムを支配していたあのローグともあろう者が、華奢な女ひとりに縋って泣き言を言うしかできない。情けない声を上げて、駄々をこねる子供のように抱きついて離れない。
「信じて下さいませ、旦那様」
だというのに、その一言とともにフィオーラがローグの胸を軽く押しただけで、いともアッサリと振りほどかれた。
「わたくしの愛する夫は、生涯旦那様おひとりだけですわ。他の男になど、指一本触れさせるものですか」
フィオーラは相変わらず穏やかな微笑みで。
蕩けるような愛の言葉を囁いてくれるが、それが通るはずもないと理解っているはずなのに。
「ですから信じてお待ちになって。必ず、必ず戻りますから」
彼女はローグを死なせないために、ただそれだけのために自分を犠牲にしようとしている。
「行かないでくれ、フィオーラ……」
「必ず戻りますから」
その言葉を最後に、男は泣き崩れ、女は馬車に乗せられ去って行った。
そうしてスラムは、今まで通りの淀んだ空気に覆い尽くされた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
フィオーラが連れ去られたその日のうちに、ローグは兵隊を集め始めた。スラムだけでなく下町にも、商人街にも職人街にも声をかけ、領主に不満のある同志を密かに誘って回ったのだ。
全ては愛するフィオーラを取り戻すため。彼女は待っていてくれと言っていたが、待っていて状況が改善するなどという楽観的な希望はローグの中にはない。欲しい物は全て奪い、奪われたら自分の手で取り返す。そうでなくては最後には全て奪われるだけだ。地位も、力も、誇りも、そして愛さえも。
幸い、領主の横暴には多くの人々が苦しめられていたようで、賛同してくれる者は多くいた。いやこの場合は不幸なことにと言ったほうが正しいのだろうか。ともかく領主に何とか一矢報いたいと考える住民は多かった。
だが実際に蜂起に加わってくれる者となると、途端に誰もが言を左右に逃げ出した。確かに領主の暴虐は腹に据えかねるが、それでも命を取られないだけまだましだ。戦争になる事もないし、耐え忍びさえしていれば生活も安定するし結婚して子も育てられる。だから蜂起までは付き合えないと、そう言って。
結局、丸1日費やして手を回したというのに、ローグに従ったのは従来のスラムの手下たちだけだった。だがその彼らにしたって、死ぬと分かっている蜂起に及び腰なのが見て取れた。
ローグ独りで歯向かったところで無残にも犬死するだけだ。だがそれが分かっていても、ローグは諦めきれなかった。
「ああ……フィオーラ、フィオーラよォ……。なんで、なんで行っちまったんだ……!」
呼びかけても返事はない。久しぶりに過ごす独りの夜は、それまで経験したこともないほど静かで、寒く、そして寂しかった。
「俺ァダメだ。お前がいてくれねえともうダメなんだ……!お前さえいてくれりゃァ、他にはなんも要らねえ!たとえ世界の果てまで追われるようなことになっても、俺ァお前とだったら生きていけるんだ……!」
それまで自覚のなかった感情に、ローグは身を焦がす。それが愛だと、人を愛する気持ちだということさえ、ローグは知らなかった。
だってフィオーラと出会うまでローグは誰からも愛されたことがなかったし、ローグが誰かを愛することもなかったのだから。
その夜の陰神は、まるで彼女と初めて会った夜のように真円に輝き、冴え冴えとした銀光を惜しみなく降り注がせてくる。窓から室内にまで入り込むその静かな光が、余計に彼女を思い起こさせる。
その光に充ちる室内で、ローグはベッドから身を起こした。その目に剣呑な光が宿っていることを、銀の光だけが見ていた。
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