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09.『たったひとつ』の別れ道

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「さあ、急いで着替えませんと」
「ちょっと待って。せっかくマインが贈ってくれたドレスなんだから、破いちゃやだよ」
「追われている身だと本当に自覚なさっておいでですか!?」
「分かってるけどさあ、」

 バルコニーから地上へ逃れたはずのアンジェリーナは、オーロラと一緒に三階の自室に何故か戻ってきていた。
 というよりそもそも逃げていないのだ。何故なら、最初にここに来た時の旅装に着替えるためである。

 婚約破棄を宣言して派手に騒ぎを起こして、嘲笑うかのように逃げ出したアンジェリーナは、決して彼のことが嫌いだからそうしたわけではなかった。彼のもとで暮らすと自分の心にまた蓋をすることになる、だから彼女はだけ。
 裡に秘めた恋心と、自らに誓った想いとを天秤バランスにかけて、重かった方を選び取っただけなのだ。

 だから彼への気持ちは、彼からの気持ちは寸毫たりともおろそかにしたくはなかった。たとえそれで逃亡が困難になったとしても、彼女は微塵も諦めるつもりはない。
 なぜならばそれもまた、彼女の心が望んだことだったのだから。

「全くもう。甘々しさに反吐が出る勢いでしたわお嬢様」
「ちょ、言い方酷くない!?」
「あんな手酷いイチャイチャを延々と見させられるこちらの身にもなって下さい」

 傍目にはどう見ても真剣で本気の喧嘩にしか見えなかったはずなのだが、どうもオーロラにはイチャついているようにしか思えなかったらしい。

 階下からは騎士団や兵士たちが慌ただしく追手を組織する気配が漂ってくる。気配というか怒号が聞こえてきて、マインラートの怒り狂った姿が目に浮かぶようだ。
 そのことがアンジェリーナの心に悲しみを催させる。愛する人をあんな風に貶めるのは、決して彼女の本意ではなかった。

 だが、やれるだけのことはやったと胸を張れる。今夜のことは全てアンジェリーナの我儘が引き起こしたことであり、マインラートは婚約者から手酷い裏切りを食らった可哀想な男として、それ以上の瑕疵はつかないだろう。であれば、彼にはこれからまた良い出会いがあるはずだ。
 一方でアンジェリーナの方は身勝手に一方的に婚約を破棄した我儘令嬢として名が広まることだろう。この先結婚など望むべくもなかろうが、それはそれで自分の心が招いたことなのだから、従容と受け入れるしかない。
 彼が幸せになれるのなら、自分の不幸など些細なことだ。だってそれが、それこそが私の望んだことなのだから。
 それこそが、私の、望んだ………

「…………お嬢様?」

 オーロラが怪訝そうに顔を覗き込んでくる。

「ううん、何でもない」

 アンジェリーナは努めて明るい声を出した。


 しばらく悪戦苦闘して、ようやく彼女はドレスを脱ぎ終えた。本来は侍女数人がかりで着脱を手伝う正式なドレスだ。それをオーロラひとりでやらせたのだから、ふたりともよく頑張ったと胸を張っていいだろう。
 そうして休む間もなくアンジェリーナは旅装を着込み、片手剣ショートソードを手に取った。あの時マインが買って渡してくれた、これも大事な思い出の一品だ。
 そして仕上げに、ドレスを綺麗に畳んでベッドの上にそっと置いた。これは持ち去るよりも、彼の手元に残しておきたい。

 人目がないことを確認しながら夜闇の城内を駆ける。城門には当然近寄れないから、なるべく門から離れた城壁の、見張り塔の死角になる位置を選んで素早く駆け寄った。およそ3ニフ4.8m程もある高い城壁を、よじ登って越えようというのだ。
 だが今の彼女には造作もないことである。大広間で発動させたサーヤ謹製のアンジェリーナオリジナル魔術は術式名を[全身強化フルドーピング]という。全身の筋肉、骨格、神経、腱を圧倒的に強化し、のみならず五感や脳の処理能力さえも超強化してしまえる、いわば反則チートの術式だ。これをもってすれば、この程度の城壁など笑いながら駆け上ることだって不可能ではない。
 そしてそんな魔術を用いていないオーロラにもそれは造作もないことである。彼女は元々東方に古くから伝わる“シノビ”の一族の出身で、それこそ物心つく前から命の危険を伴うような厳しい訓練を積んできている。単純な身体能力だけで言えば勇者すら凌駕して、人類最高レベルに手が届くところまで到達していても不思議はない。
 まあそんな彼女は、ある時任務中にうっかり失敗して頭部に大怪我を負い、記憶を失くして数年彷徨った挙げ句に奴隷として西方世界まで売られてきたのだが。そしてそれを去年とある偶然からアンジェリーナに発見され買い取られ、これまた試行錯誤の偶然から記憶を取り戻すことに成功し、それで今に至っている。

 そんなことはさておいて、難なく城壁を乗り越えたふたりは一路南を目指す。きっと追手は彼女たちが船を奪って北岸から外洋に逃れると踏んでいるだろうし、南へ向かうことは追手の裏をかくだけでなく、本来の予定目的地だったエトルリアやスラヴィアに向かうことにもなる。

「あ、でも路銀どうしよう」

 なにしろ追手はブロイスの皇弟である。その気になればブロイス国内の金融ギルドの口座凍結くらいはやりかねない。

「そんなこともあろうかと、ここに」

 オーロラが懐から重たそうな小袋を取り出した。今の彼女はどこから調達したのか普通に武器と鎧を装備した冒険者の身なりである。その胸当てブレストの隙間から彼女は小袋を取り出したのだ。
 あっこのくそう、人よりちょっと谷間が深いからってこれみよがしにそんなとこにしまい込みやがって!チキショウ!羨ましくなんかないやい!

 ともあれこれで当面の懸念は解消された。あとは手配が回りきる前に速やかにブロイス国境を越えればそれで終わりである。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


「うわああああああん」

 深い森の中、オーロラにおぶわれたアンジェリーナが人目も憚らず大泣きしている。
 とはいえ、人の気配などない森の中だから誰に見られる心配もないが。

「いい加減泣きやんで下さいお嬢様」
「む~り~!もうやだぁおうちかえる~!わああん」
「…………ああもう。だから[全身強化]は厄介なんですよ………」

 どんな魔術にも持続時間というものがある。それを過ぎれば術式の効果は消え去り元に戻ってしまう。術式によっては元の状態よりも酷くなることもしばしばだ。
 そして、術式の効果が高ければ高いほどそれは顕著になるもので、ややもすれば手酷いデメリットを伴うことさえある。リスクを負わねば高い効果など得られるべくもないのだから当然だ。

 というわけで[全身強化]の場合、術式の効果時間が終了すると、その瞬間から効果時間と同じ時間分だけする。つまり全身も五感も脳も全てが著しく弱体化するわけだ。元よりこの術式は全身の全ての機能を無理やり数倍にまで引き上げる強烈な術式である。当然、その反動も並みの術式の比ではなかった。
 だから今のアンジェリーナは実質5歳児に等しい。知らない土地が怖くて、全身が痛くて、頼れる大好きなとうさまもかあさまもにいさまも誰もいなくて、それで辛くて心細くて泣いている。

 [全身強化]のデメリットをオーロラは、背中で泣き続ける彼女をあやしながらため息をつく。せめて彼女が復活するまで、追手に見つかりませんように。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


「ようやく見つけましたよ」

 そう言って微笑むオスカーは、騎士鎧に騎士剣を佩いて泰然自若に佇んでいる。

「まさか追いつかれるとは思わなかったわ」

 対するアンジェリーナもまた、自然に力を抜いて立っている。
 互いに程よく脱力し、いつでもどうにでも動ける態勢を崩していない。

「そちらこそ、まさか南へ逃げるとは思いませんでした」
「だって私、エトルリアに行くつもりだったのだもの。わざわざ海から遠回りするくらいなら最短距離を選ぶでしょう?」
「なるほど、確かにそうですね」

 ブロイス南部の平原地帯、神罰の降った地ヴィルシーマと呼ばれる土地の街道から離れた丘の上で、彼らは対峙していた。
 ここはかつて、天から神罰の光が降ったとされ、長らく生物の棲めない荒野だった場所だ。だがそんな土地にも人類は住処を求め、何世代も苦心しながら入植を進めて、今ではそれなりに人の住む街が出来上がっていた。
 ここからさらに南へ進めばブロイスの南部国境、そしてアウストリー公国とエトルリア連邦との国境地帯へと至ることができる。
 つまり、アンジェリーナとオーロラはあと少しで逃げ切れるというところで追いつかれてしまったわけだ。

 とはいえアンジェリーナは、ちょっとだけ喜んでいる自分を自覚していた。だって目の前には。

「今一度問うぞ。大人しく戻ってくるつもりはないんだな?」

 オスカーの隣に立っているマインラートが低い声で問うた。
 彼の目には未だに怒りが宿っていて、だがあれからやや日数が経っているせいか、それなりに理性を取り戻しているようだ。

「今さら戻ったら、あの日のあれは何だったんだと悪い噂が立つでしょうね」

 ていうかあの時あれだけハッキリと突きつけてやったのに、まだ私のこと縛り付けるつもりなのねこの人は。

「何度だって言うけど、私は誰にも縛られるつもりはないの」

 もうこうなれば、全てを明かしてしまおうか。
 アンジェリーナの脳裏にそんな自暴自棄とも思える気持ちがよぎる。前世で他人に縛られた挙げ句に心を病んで自殺したのだと聞かせれば、彼も少しは躊躇ってくれるかも知れない。
 だが、それを信じてもらえるかは分からない。この世界で“前世の記憶”を話す者が稀にいることは知られてはいるが、そういう人たちが語る内容はただのひとつも真実だと確かめられたものがない。つまり、「信じるか信じないかは、あなた次第」というわけだ。

「私の一体どこが、お前を縛り付けるというのだ」
「だって『何もせず傍にいろ』って言ったじゃないの」
「それの何がおかしい?」
「分かんないの?自由にのびのび好きなように行動したい人間に『じっとしていろ、動くな』と言ったも同然よ?そんなの我慢できる訳ないでしょう?」

 例えて言うなら、猫に首輪と紐をつけて庭に繋ぐのと同じことだ。それが犬ならば何ともないだろうが、猫にはそれは拷問に等しいストレスになるのだ。
 つまり愛し方も繋ぎ止める方法も、最良ベストなやり方は人それぞれ違うのに、この男は自分が思うやり方を押し付けてそれで満足しろと強要しているに等しいのだ。
 それだけはアンジェリーナには我慢がならない。他の全てが満点でも、そのたった一点のみが受け入れられないから彼女は彼のもとから逃げたのだ。

「俺を愛していると言ったのは嘘なのか」

 マインラートの表情が不意に歪んだ。

「あ、それは本当」
「ならばその程度、何故我慢できぬのだ!」
「どれだけ好きでも、耐えられないことってあるのよ」

 マインラートは答えない。
 きっと彼の中では、手の内に包んで身動きも取れないほど束縛するのが『愛している』ということなのだろう。
 でも、それではアンジェリーナは満足できない。
 それだけは受け入れられない。

「愛しているわ、マインラート」

 満面の笑みで、彼女はそう言った。

「たとえこの先、私たちが殺し合うことになったとしても、あなたが私を愛して、私があなたを愛した事実は変わらないわ。それだけは『真実』だもの」

「そんなもの、何になる!手に入れられない『真実の愛』など…!」
「手に入れられなかったものほど、強く美しく輝かしくなるのよ」

 それはあたかも前世であれほど渇望した独善エゴのように。
 あたかも今世で熱望する自由のように。

「…………ハッ。それが真実の愛とやらの『真実』か」

「んー、それはどうか私にもちょっと分かんないけど」
「お嬢様、そこは嘘でも肯定すべきと思いますが」

 頬に指を当てて小首を傾げたアンジェリーナに、それまで後方に控えて黙っていたオーロラのツッコミがすかさず入った。

「いいのよそんなの。知ったかぶりしたって始まんないし」
「お嬢様はもう少し上手に嘘をつくことを覚えるべきですね」

 そうすればここでこんな不毛な問答をせずとも逃げ切れただろうし、そもそも彼に拉致されることもなかっただろうに。そう溜め息をつくオーロラであった。
 でもまあ、そんなのはもはやお嬢様ではない気もしますけれど。

「と、いうわけで」

 アンジェリーナが両手をパン、と叩いた。

「改めて私たちは逃げるから。お見送りありがとうね!」
「何を………逃がすわけがないだろう!」

 てっきり彼女が踵を返して逃げ去ると思ったマインラートは、自身の最速の反応をもって足を踏み出した。
 否、踏み出そうとした。

 だがその動きは、不意に胸の中に飛び込んできた質量を持った何かに物理的に止められてたたらを踏む。何かが胴に巻き付きギュッと締め上げられるその感覚に驚いて見下ろすと、そこには自分の胸に顔を埋めたアンジェリーナの姿があった。

「お、おい…」
「愛してるわ、マインラート」
「何を言って……」
「本当よ、大好き」
「だから、何を………!」
「愛してるって言って?」

 上目遣いに懇願され彼は鼻白む。

「それとも、もう愛してない?」

 琥珀色の瞳が悲しみを帯びる。
 それが彼の心をギュッと絞り上げ、言い表しようのない苦しさを味あわせた。

「愛してないわけが、そんなわけがないだろう!」
「ホント?」
「当たり前だ!でなければわざわざこんなところまで追ってきたりするものか!」

「じゃ、一緒に逃げて」

「……………………何だと?」

「一緒に逃げればいいじゃない。
私は何よりも自由が欲しい。あなたは何よりも私との愛が欲しい。ならそのふたつを両立させるために、あなたも私と一緒に逃げればいいのよ」
「……………。」
「地位も権力も富貴も名声も、責任も義務も将来も、何もかも捨てて愛だけ選べばいいのよ。
そうしてふたりで冒険者を続けながら、世界中を旅するの。きっと楽しくて幸せな時間になるわ。あなたもそう思わない?」

 抱きついたまま、胸元から真剣な目で見上げてそんなことを言う彼女に対して、マインラートは応えることが出来なかった。
 そうしたい気持ちは無いでもない。だが彼には背負うものがあまりにも多すぎた。

「…………無理だ」
「でしょうね」

 お互いに、たったひと言。
 だがそれだけで、何故彼女が自分の元から逃げたのか、それを理解するに余りある説得力を備えていた。
 そう、彼女には分かっていたのだ。彼が差し出されたその手を取れないことを。

 全てを捨ててでも『たったひとつ』を選べる彼女と。
 全てを捨てられずに『たったひとつ』が選べない彼。
 そんなふたりが一緒になれるはずなど、そもそも最初からなかったのだ。

「無理、なのか」
「無理ね」

 彼女がスッと身を離す。
 彼の腕は、それを引き止めることができなかった。

 不意に、彼女が腕を回して彼の首に抱きついた。
 彼の唇に、優しく柔らかいものがそっと触れ、そして離れていった。


 そして、彼女は彼の前から姿を消した。
 『さよなら、愛しい人』とひと言だけを残して。
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