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第四章【騒乱のアナトリア】

4-68.虎人族の娘(1)

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 アナトリア皇城地下の奥深く、隔離され厳重に警戒を施された薄暗い地下牢。城の地下にいくつか存在するうちのひとつのエリアの、長い通路に厳重に封じられた小部屋が並ぶその最奥の一室に、彼女は捕らえられていた。
 両手首と両足首、それに首にまで[封魔]の術式が施された特別製の鋼の枷が嵌められ、その上で手足をそれぞれ人の腕ほどもある太い鉄鎖で石壁に固定されている。鉄鎖は立ち座りができる程度には余裕が持たせてあるが、横になることまではできそうにない。そして座るための椅子は用意されてはいるものの座面の真ん中に穴が空いていて、つまりそれは尿瓶しびんである。

 地下にあるがゆえに窓などない。そして光源になりうるものも室内にはない。まるで暗闇に閉じ込めること自体が収容される罪人に対する罰であるかのようだ。


 その牢の重い鉄扉が、軋みながら開かれる。開くと同時に通路から差し込んでくるまばゆい光にしばらくぶりに身を晒されて、彼女は眩しそうに目を眇めて顔を上げた。

『気分はどうだい?⸺まあ、こんな場所で拘束されて気分がいいはずもないだろうけど』

 入ってきたのはいかにも冴えない男だった。の体格の良し悪しなど分からないが、大した手練でもないのはひと目見て分かる。だがこの男はを受けてなお、一撃で事切れなかった。それを考えると、見た目で侮るのは危険だろう。
 それに何より、この男は母の名を口にした。そのことについて、是非とも聞き出さねばならない。

『君も聞きたいことがあるだろうし、こちらも聞かなくちゃいけないことがあるんだ。どうだろう、情報の交換といかないか?』

 だがこちらが何か言う前に、その男は人好きのする笑みを浮かべながら、でそう言ったのだった。
 その提案に乗るのはやぶさかではない。だが残念ながら、それに応じられない事情がこちらにある。

 黙したまま応えずにいると、男は困ったような顔をして頭を掻いた。

『じゃあ質問を変えようか。君はね?』

 肯定なら首を縦に1回、否定なら横に2回振れと言われたので、肯定してやる。情報を貰わねばならんのだから、このくらいは教えてやってもいいだろう。
 そう。忌まわしきはこの身に施されただ。われ抗魔こうまがなんの役にも立たなかった程には強力で、そして強制力も高い。これさえなければ、あのような卑劣な奇襲などこの吾が成すはずもなかったというのに。

『華国語を解するはそなただけか?この城はずいぶんと大きいようだが、他に誰もらぬのか?』

 発言自体を封じられているわけではないと示すために、敢えて当たり障りのないことを言ってみる。実際、言葉が通じないことは不便この上ない。唯一理解していそうなこの男も、おそらくは平易な言い回ししか解さぬであろう。

『居らぬなら居らぬで、[翻言ほんごん]の使い手ぐらいように』
『あー、[翻言]は、こっちの世界ではあまり必要ないんだ。各国で通用する世界共通語があるからね』

 翻言とは、理解できぬ言語を解析して術者に理解できる言語に自動通訳する術式である。大半の地域で現代ロマーノ語が通用する西方世界ではほとんど使われないが、民族も国家の数も多く言語的統一性のない東方世界では重宝される魔術だ。

『ほう。西の国々はかつてひとつの国だったという、その名残か』
『よく知ってるね。その通りだよ』

 ならばやむを得まい。河東とは事情が違うということだ。

『時にそなた、驪国りこく語はどうだ』
『リ・カルンの言葉は覚えてないんだ。現代ロマーノ語で通用したし、華国語は気功を理解するのに必要だったから覚えただけで』
『そうか。ではその華国語と気功は誰に習った?』

 吾がもっとも知りたいのはそこだ。
 もしこやつが、母の教えを受けたと言うのなら。

『残念だけど、そこから先はとの交換になるんだ』

 チッ。上手く言いくるめられなんだか。

「ってことで、そろそろ何か分かったかい、ミカエラさん?」

 と、男が不意に後ろを振り返って誰かに何事か声をかけた。
 すると開いたままの入口の陰から、ひとりの女が姿を現した。青い縁取りと金糸の刺繍の施された白い法衣に青い羽織ケープを纏った、紅い髪の娘。
 この娘はあの時も勇者とやらの側にいたな。ではこの男ともども勇者の取り巻きということか。

 娘は憎々しげな目を向けてきていたが、しばらくするとため息とともにその目が逸らされた。

「[解析]は済んどる。⸺[隷属]に[制約]、ようある奴隷契約ばってん、組成が既知の術式とは全然ちごうて仕組みのよう分からんね」
「そんなに強い術が?」
「そこまで強力な術式やなかけど、どうも西方世界の術式やないごたるみたい。ばってんまあ、ひとまずそれはどうでもよか」
「そうだね。どうでも良くはないけど、レギーナさんを襲わせたのが誰なのかさえ分かれば」
「そういうこったいな」

 法衣の娘は、そこで嫌そうに顔をしかめた。
 何を話しているのか分からんが、あの顔は自分の意に沿わぬ事を言わねばならぬという顔だ。

「術式が難解やけんが、解除するより命令権ば上書きする方が楽ったいね」
「そうなのかい?」
「そやけんくさ、⸺おいちゃん、この奴隷ば引き取っちゃらん?」

「…………は?」

 今度は男の方が唖然とした顔になった。
 どうやら、何か思いもよらぬ方向へ話が進んでいる気がするのだが?





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