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第四章【騒乱のアナトリア】
4-23.悪夢は現実に(1)
しおりを挟む皇后の出てきた奥の扉が開かれて姿を現したのは、レギーナの予測したとおり皇太子アブドゥラである。
「なんじゃ、そんなに余と逢うのが待ち遠しかったのか。愛い奴め」
のほほほほと品のない笑い声とともに目尻を下げ、だらしない笑みを浮かべてテーブルに近寄るアブドゥラ35歳。背は高いがそれ以上に長年甘やかされて弛みきった目立つ腹を揺らしてにじり寄るその姿に、まず挨拶もできないのかという叱咤よりも先に嫌悪が出てしまい、思わずレギーナは座った椅子の上で身をわずかに避けようとしてしまった。
「皆まで言わずとも良い。そなたの望みどおり、余の妃としてやろう」
「嫌よ、お断りだわ」
「そう照れずとも良い。そなたの心の裡はちゃあんとこの皇太子に伝わっておるでのほほほほ」
「何をどう聞いたらそうなるのよ!」
押し問答しつつも皇太子は席に着くでもなくレギーナの側まで歩み寄り、その手を取ろうとする。贅肉のついた青白いその手をレギーナは手に持った扇ではたき落とした。
「ほほほ。正式な婚約まで手も触れぬとは奥ゆかしいの。大丈夫であるぞ、この場には余とそなたしかおらぬでな」
いやそこに皇后陛下がいるじゃない。それに周りに何人侍女がいると思ってるのよ。そう言いたかったが嫌悪に喉が詰まって咄嗟に声が出なかった。代わりにレギーナは席を立って一歩引く。
ちょうどレギーナの座っていた椅子を挟んで睨み合う形となり、それでようやく皇太子の進撃が止まる。
「ほほ、まあ良い。ゆっくり愛を育んでいくのも一興じゃとも」
何を満足したのか、皇太子はそんなことを言いつつ残された最後の椅子に腰を下ろす。素早く寄ってきたサロンの侍女がサッと椅子を引き、皇太子の腰の動きに合わせて絶妙なタイミングで椅子を滑り込ませた。なかなか手慣れた動きである。
「何度も言うけどお断りよ。私はまだ結婚するつもりはないわ」
ようやく気を取り直して、レギーナも元のように席に戻る。椅子はべステがサッと整えてくれた。
「本当に照れ屋で愛いのうそなたは。まあ茶でも飲んで落ち着くと良い」
アブドゥラは鷹揚に笑ってそんな事を言いつつ、サッと侍女が用意したカップの紅茶を一息に飲み干した。
テーブルに肘をついてレギーナに身体を向けて、つまりテーブルに対して半身になっているのもそうだが、出された茶を一口で飲み干すなど有り得ないマナー違反である。この国の教育はどうなっているのか。
「それで、婚約式はいつにするかね?余としては今日これからすぐでも一向に構わんぞ」
「なんでよ!お断りだと言っているでしょう!?」
「いっそ婚約などと言わず婚姻でもよいな」
「冗談じゃないわよ!勝手に決めないで!」
「そうと決まれば準備をさせねばのほほほほ」
「勝手に話を進めるなと言っているのが解らないの!?」
どうにも話が噛み合わない。まるで世の女性は全て自分に懸想しているとでも思い込んでいるかのようだ。
もしかしてこの調子で、無理矢理手篭めにしてもむしろ悦ばれるとでも考えていたのだろうか。だとしたら下衆の極みとしか言いようがないが。
ついうっかり相手のペースに呑まれかけていることに気付いて、レギーナはひとつ咳払いして気を落ち着かせる。
とにかく冷静に、今ここで取り乱すのは得策ではないのだから落ち着かねば。そう自分に言い聞かせつつ、彼女は冷静に事実の指摘にかかる。
「だいたい、皇太子妃ならもうアダレトを立てているでしょう?今になって替えるのは外聞が悪いのではなくて?」
「なに、問題ない。アダレトごときが今まで太子妃だったのは、単に余とそなたが逢うておらなんだからじゃ。あやつなぞそなたの美しさに比べるべくもない。こうして余とそなたが逢うたからには、あれは第二妃で充分じゃ」
そりゃまあ御年36歳で子供も産んでいるアダレトと、その半分ほどの年齢の未婚のレギーナとでは比べるべくもなかろうが、それは単に若さの問題でしかない。アダレトだって今でも充分美しいし、レギーナと同じ19歳のころはもっと輝ける美貌だったはずである。そしてレギーナの方も、今のアダレトと同じ歳になった時にどこまで容姿を保てているものやら。
というかよく考えると、アダレトはレギーナの母にしてエトルリア先代王妃のヴィットーリアとひとつしか違わないのだ。それほど歳の離れた相手に美貌で負けることなど基本的には有り得ない。
だから問題はそこではなくて。
「今さら皇太子妃を替えたりすれば絶対に波風が立つでしょう?殿下は国が荒れてもいいと仰るのかしら?」
皇太子と皇太子妃の確執ではなく、皇后ハリーデと第二妃サブリエとの我が子を代理とした政争と考えれば、どう考えても『これ触らんとこ』案件である。そんなものに巻き込まれたら本当に、東方に旅するどころではなくなってしまう。
「なあに心配は要らぬ。次期皇帝に楯突けばどうなるか、あの女にも第二妃サブリエにも知らしめてやるだけじゃ。それに」
皇太子はそこでわざと言葉を切り、ずいと身を乗り出してくる。
「余とそなたは、真実の愛で結ばれておるのじゃからのほほほほ!」
「うげぇ!」
あまりにも悍ましい一言が飛び出してきて、王女としても勇者としてもやっちゃいけない顔で、出しちゃいけない声を出してしまったレギーナである。
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