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序章【運命の出会い】
0-9.街に流れるとある噂
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それから数日は、特に何事もなく過ぎていった。
ただひとつだけ、“大地の顎”のメンバーがひとりも姿を見せなくなった以外は、〈黄金の杯〉亭にとっては至って穏やかな日々だった。
ただ少しだけ、街の方にはざわつきがあった。
なんでも、どこぞのお姫様がやってくるらしい、というのが住民の間で密やかな話題になっていたのだ。
何度も繰り返すがラグは自由都市である。
そしてラグのあるスラヴィア地域自体が中立自治州として事実上独立している。
だから、スラヴィアにおいてはいずれの国家の王族も貴族も公権力を発揮し得ない。ただひとりの人間としてしか、その価値を認められない。権威や権力はスラヴィアには持ち込めないのだ。
唯一の例外が各都市を治める辺境伯たちである。彼らは領主であり領地と領民に責任と義務を負うから公権力を保持するのは当然であった。だがそれを除く、つまり「余所者」には大人しくしていてもらわなくてはならない。
これも、周辺諸国が盟約で決めたことだ。スラヴィア地域内部に有力者を送り込み他国の目を盗んで裏工作をすることがないよう、あらかじめ予防線を張ってあったのだ。
そしてこれの効力は周辺諸国だけに留まらない。西方十王国の諸国も、北のブロイス帝国や帝政ルーシといった軍事大国も、その他の小国も都市国家も、西方世界の全ての国家に適用されるものであった。
もっとも、例えばブロイスあたりが軍を南下させて力づくで破りにかかったりすれば話は別だったが。国際的な盟約で取り決めたとはいえ、明確に強制力があるわけではないのだ。
万一そのような事態になれば周辺諸国は協同して防衛戦力を拠出するように盟約は定めていたが、それでも大兵力と軍備で押し切られる懸念は常に消えなかった。
まあそれはそれとして、公権力無効の取り決めは意外な副作用を生んでいた。
つまり、他国の貴族や王族の亡命先に使われるようになったのだ。何しろいかなる国の公権力も無効なのである。亡命者を捕縛に来た警察権力や国軍も当然そうだし、逃げた娘を捕えに来た貴族の親さえ無力になる。
だから平民と駆け落ちして逃げてくる姫とか、政争に敗れて安全地帯を求める貴族とか、そういう者たちが時折逃れてくるようになってしまったのだ。
それだけではない。例えば一国の貴族が他国に亡命すればその二国間で軋轢が生じるのは避けられないが、逃げた先がスラヴィアならそういった心配もなくなるのだ。だからその意味でもスラヴィアへの亡命は増える一方だった。
そんなわけでラグの住人をはじめスラヴィア各都市の人々には、そうした亡命貴族が来たとしても誰も相手をしないよう、暗黙の了解ができていた。
もちろん人間としては普通に接しなければならないが、王侯貴族としての扱いはしない。だがその一方で、そうした貴族にもしも万が一の事でもあれば国際問題にもなりかねないし、最悪の場合、盟約を破られて攻め入られる恐れもなくはない。
だから住人たちはノータッチを決め込みつつもそれら亡命貴族に危険が及ばないよう、各人が連携してそれとなくその身の安全を確保しなければならないのだ。
あくまでも表向きは何も知らない建前で、けれど裏では全て解った上でそれをおくびにも出さない。それがラグをはじめとする、スラヴィアの住人たちの大きな特徴だった。
で、今噂されているのは、「エトルリア方面から姫様とその御一行がラグに向かっているらしい」というものである。情報があくまでも伝聞なのは、誰も姫様御一行とやらに直接問い質していないからである。つまり予測であり推測であり、それは即ち憶測であった。
そもそもエトルリア方面ってどこなのか。最低でも竜脚半島の付け根に当たるエトルリア連邦と、竜脚半島の過半を領有するマグナ・グラエキナ、それに竜骨回廊の先にある西方十王国の諸国まではほぼ確定で含まれるはずで、周辺の小国や都市国家まで含めればそれこそ結構な数になる。それらの国々で亡命した貴族はいないか、貴族の子女はいないか、調べるには時間が足りない。
どこの誰がどういう目的でやって来るのか、それをあらかじめ調べた上で何も知らないふりをする。そうでなければ亡命貴族の身の安全など守れないというのに、これでは先行きに不安しかない。そういう裏取りをしてそれとなく周知するはずの辺境伯直属の情報部は何をやっているのか。
そんな街のざわめきをよそに、〈黄金の杯〉亭では今日もいつもどおりのギルド運営が行われる。何しろその姫とやらはまだ到着していないのだから、今のうちからジタバタしても始まらない。
「じゃあ、行ってくるよ」
受け取った依頼書の控えを片手に、アルベルトはアヴリーに手を振って踵を返す。
「ほんとにホントに、本っ当に!気を付けてね!」
先日の一件から彼女はずっとこの調子である。
「そーんなに心配なら、アタシもそっちに行こうか?」
それを横で聞いていたファーナという冒険者の娘が、ニヤニヤしながら茶々を入れる。
毛先だけを緩く纏めた光沢のある真っ白な腰まである長髪に緋色の瞳が印象的な美人だが、体格は小柄で薄い貫頭衣を着て薄い褲子を履いただけの軽装だ。手甲と脛当てこそ付けてはいるが、他に武器になるような物さえ持っていない。
それもそのはずで、彼女は拳ひとつで戦う「拳闘士」という冒険者としては珍しい職業である。去年ラグにやって来て以来、〈黄金の杯〉亭に逗留している。
まだ18歳と若いが、それまで東方世界を含めて各地で相当な修練を積んできたらしく、この若さでもう腕利きに上がっていて、将来的には凄腕も夢ではないと噂されていた。おそらく今の〈黄金の杯〉亭の冒険者のうち、個人の実力としては上位クラスのうちの1人だろう。
「いや、ただの薬草採取なんだから心配いらないよ」
「でもラグ山でも黒狼が出たっていうじゃない?」
「そ、そうよ!ファーナがいてくれたら安心だから!」
「いやいや、俺だって黒狼や樹蛇ぐらいなら倒せるからね?」
苦笑しつつアルベルトは断りを入れる。珍しくきっぱり断るのは、ファーナにはむしろアヴリーの身辺に気を使って欲しいからである。
それに黒狼や樹蛇なら倒せるというのもあながち誇張や見栄ではない。アルベルトだってそれなりに経験を積んできているのだ。
じゃないとキャリア20年が泣く。
まあ、さすがに灰熊が出たら逃げるけど。
ちなみに樹蛇というのは主に森の中の樹上で暮らす中型の蛇のこと。木の下を歩く人間を頭上から襲ってくるので注意が必要だ。毒はないが締め付ける力が強く、人間の子供であれば絞め殺される事もあるので、ギルドにも時折討伐依頼が出される。
「だって…ホントに心配で…」
「大丈夫だから。本当に心配いらないからね」
涙さえ浮かべそうなアヴリーを何とかなだめつつ、アルベルトはそそくさと依頼カウンターを離れていった。あのままあれ以上話していても押し問答にしかならなそうだったし、それではいつまで経っても仕事に出られない。
ファーナが少しだけこちらを気にしていたようだったが、それは敢えて気づかないフリをした。
ただひとつだけ、“大地の顎”のメンバーがひとりも姿を見せなくなった以外は、〈黄金の杯〉亭にとっては至って穏やかな日々だった。
ただ少しだけ、街の方にはざわつきがあった。
なんでも、どこぞのお姫様がやってくるらしい、というのが住民の間で密やかな話題になっていたのだ。
何度も繰り返すがラグは自由都市である。
そしてラグのあるスラヴィア地域自体が中立自治州として事実上独立している。
だから、スラヴィアにおいてはいずれの国家の王族も貴族も公権力を発揮し得ない。ただひとりの人間としてしか、その価値を認められない。権威や権力はスラヴィアには持ち込めないのだ。
唯一の例外が各都市を治める辺境伯たちである。彼らは領主であり領地と領民に責任と義務を負うから公権力を保持するのは当然であった。だがそれを除く、つまり「余所者」には大人しくしていてもらわなくてはならない。
これも、周辺諸国が盟約で決めたことだ。スラヴィア地域内部に有力者を送り込み他国の目を盗んで裏工作をすることがないよう、あらかじめ予防線を張ってあったのだ。
そしてこれの効力は周辺諸国だけに留まらない。西方十王国の諸国も、北のブロイス帝国や帝政ルーシといった軍事大国も、その他の小国も都市国家も、西方世界の全ての国家に適用されるものであった。
もっとも、例えばブロイスあたりが軍を南下させて力づくで破りにかかったりすれば話は別だったが。国際的な盟約で取り決めたとはいえ、明確に強制力があるわけではないのだ。
万一そのような事態になれば周辺諸国は協同して防衛戦力を拠出するように盟約は定めていたが、それでも大兵力と軍備で押し切られる懸念は常に消えなかった。
まあそれはそれとして、公権力無効の取り決めは意外な副作用を生んでいた。
つまり、他国の貴族や王族の亡命先に使われるようになったのだ。何しろいかなる国の公権力も無効なのである。亡命者を捕縛に来た警察権力や国軍も当然そうだし、逃げた娘を捕えに来た貴族の親さえ無力になる。
だから平民と駆け落ちして逃げてくる姫とか、政争に敗れて安全地帯を求める貴族とか、そういう者たちが時折逃れてくるようになってしまったのだ。
それだけではない。例えば一国の貴族が他国に亡命すればその二国間で軋轢が生じるのは避けられないが、逃げた先がスラヴィアならそういった心配もなくなるのだ。だからその意味でもスラヴィアへの亡命は増える一方だった。
そんなわけでラグの住人をはじめスラヴィア各都市の人々には、そうした亡命貴族が来たとしても誰も相手をしないよう、暗黙の了解ができていた。
もちろん人間としては普通に接しなければならないが、王侯貴族としての扱いはしない。だがその一方で、そうした貴族にもしも万が一の事でもあれば国際問題にもなりかねないし、最悪の場合、盟約を破られて攻め入られる恐れもなくはない。
だから住人たちはノータッチを決め込みつつもそれら亡命貴族に危険が及ばないよう、各人が連携してそれとなくその身の安全を確保しなければならないのだ。
あくまでも表向きは何も知らない建前で、けれど裏では全て解った上でそれをおくびにも出さない。それがラグをはじめとする、スラヴィアの住人たちの大きな特徴だった。
で、今噂されているのは、「エトルリア方面から姫様とその御一行がラグに向かっているらしい」というものである。情報があくまでも伝聞なのは、誰も姫様御一行とやらに直接問い質していないからである。つまり予測であり推測であり、それは即ち憶測であった。
そもそもエトルリア方面ってどこなのか。最低でも竜脚半島の付け根に当たるエトルリア連邦と、竜脚半島の過半を領有するマグナ・グラエキナ、それに竜骨回廊の先にある西方十王国の諸国まではほぼ確定で含まれるはずで、周辺の小国や都市国家まで含めればそれこそ結構な数になる。それらの国々で亡命した貴族はいないか、貴族の子女はいないか、調べるには時間が足りない。
どこの誰がどういう目的でやって来るのか、それをあらかじめ調べた上で何も知らないふりをする。そうでなければ亡命貴族の身の安全など守れないというのに、これでは先行きに不安しかない。そういう裏取りをしてそれとなく周知するはずの辺境伯直属の情報部は何をやっているのか。
そんな街のざわめきをよそに、〈黄金の杯〉亭では今日もいつもどおりのギルド運営が行われる。何しろその姫とやらはまだ到着していないのだから、今のうちからジタバタしても始まらない。
「じゃあ、行ってくるよ」
受け取った依頼書の控えを片手に、アルベルトはアヴリーに手を振って踵を返す。
「ほんとにホントに、本っ当に!気を付けてね!」
先日の一件から彼女はずっとこの調子である。
「そーんなに心配なら、アタシもそっちに行こうか?」
それを横で聞いていたファーナという冒険者の娘が、ニヤニヤしながら茶々を入れる。
毛先だけを緩く纏めた光沢のある真っ白な腰まである長髪に緋色の瞳が印象的な美人だが、体格は小柄で薄い貫頭衣を着て薄い褲子を履いただけの軽装だ。手甲と脛当てこそ付けてはいるが、他に武器になるような物さえ持っていない。
それもそのはずで、彼女は拳ひとつで戦う「拳闘士」という冒険者としては珍しい職業である。去年ラグにやって来て以来、〈黄金の杯〉亭に逗留している。
まだ18歳と若いが、それまで東方世界を含めて各地で相当な修練を積んできたらしく、この若さでもう腕利きに上がっていて、将来的には凄腕も夢ではないと噂されていた。おそらく今の〈黄金の杯〉亭の冒険者のうち、個人の実力としては上位クラスのうちの1人だろう。
「いや、ただの薬草採取なんだから心配いらないよ」
「でもラグ山でも黒狼が出たっていうじゃない?」
「そ、そうよ!ファーナがいてくれたら安心だから!」
「いやいや、俺だって黒狼や樹蛇ぐらいなら倒せるからね?」
苦笑しつつアルベルトは断りを入れる。珍しくきっぱり断るのは、ファーナにはむしろアヴリーの身辺に気を使って欲しいからである。
それに黒狼や樹蛇なら倒せるというのもあながち誇張や見栄ではない。アルベルトだってそれなりに経験を積んできているのだ。
じゃないとキャリア20年が泣く。
まあ、さすがに灰熊が出たら逃げるけど。
ちなみに樹蛇というのは主に森の中の樹上で暮らす中型の蛇のこと。木の下を歩く人間を頭上から襲ってくるので注意が必要だ。毒はないが締め付ける力が強く、人間の子供であれば絞め殺される事もあるので、ギルドにも時折討伐依頼が出される。
「だって…ホントに心配で…」
「大丈夫だから。本当に心配いらないからね」
涙さえ浮かべそうなアヴリーを何とかなだめつつ、アルベルトはそそくさと依頼カウンターを離れていった。あのままあれ以上話していても押し問答にしかならなそうだったし、それではいつまで経っても仕事に出られない。
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