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2色:困惑の躑躅色
10.つつじが丘の蝶
しおりを挟む「…………すごい」
ぽつりと零れた言葉が、薄暗い空間にぼんやりと反響する。蘇芳の描いた蝶は、本当に美しかった。でも、それだけじゃない。きっと、あの「色」が最も映える姿だった。色の声に応えるように、蘇芳は躑躅の花に宿っていた魂に、もうひとつの姿を与えた。
「……『躑躅が丘』」
蘇芳は、朱塗りの筆を握った自分の手を見下ろしながら、落ち着いた声でそう呟く。黒い髪が、風に揺れてふわりと靡いた。
「え?」
「泉鏡花の『龍潭譚』に含まれる短編です。『躑躅の中から、羽音高く一匹の虫が飛んで出た』」
「へぇ……そういえば、蘇芳って文学部……だったんだよな」
「そうです。色の描写って、けっこうおもしろいんですよ。彩さんは、さっきの蝶を綺麗だと思いましたか?」
「うん。すごく、綺麗だった」
正直にそう言うと、蘇芳はおれの方を見てふっと微笑んだ。いつもの不敵な笑みとは少し違う表情のように感じたが、その感情の主成分は、薄暗さと目元に掛かる漆黒の髪に覆い隠されて掴み取れない。蘇芳は静かな声で続けた。
「『躑躅が丘』には、こんな言葉もあるんですよ。……『色が綺麗でキラキラしている虫は、毒虫なのよ』……美しい羽虫に翻弄され、帰り道を失うんです」
「……」
「自然の中の美しい色には、全部、意図がありますよね。生きるための」
「……そう、だな」
それは誘惑だったり、擬態だったり、威嚇だったり。色は生きるための知恵であり、術である。意味のない色はない。植物の色について研究してきた経験から、蘇芳の言うことは、なんとなくわかる気がした。
「自己満足のための美しさなんて、ないんです。もっと狡猾で、生々しくて……強かだ」
「……」
「彩さん」
「……なに?」
「彩さんは、おれの描く『絵』から、逃げませんか?」
そう言って、蘇芳は手に持った朱塗りの筆をおれに差し出す。視線を落とすと、艶やかな朱色に、見慣れない紅が上塗りされているのが見えた。繊細な金箔の模様が、ところどころ赤で掠れて染まっている。
「……蘇芳、おまえ、手……」
蘇芳がこの筆を手にした瞬間、弾かれるような音がしていた。でも、蘇芳は手を離さなかった。おれの目に映る蘇芳の掌には、無数の小さな切り傷が刻まれ、そこからじわりと真紅の血が滲んでいた。
「答えてください」
蘇芳は、いつもどおりの涼し気な声で問う。でも、その瞳はいつもよりももっと、深い漆黒に染まって、何かを見極めようとするようにじっとおれの目を見返した。
「…………逃げないよ」
美しいだけじゃない何かを描こうとする、蘇芳の絵から。
おれはきっと逃げない。
簡潔に答えると、蘇芳はしばらくじっとおれを眺め、それから満足げににやりと口角を上げた。朱塗りの筆をおれの白衣のポケットに差し、ブラックジーンズで掌をぐっと拭った。それから、足元に転がっていた愛用の黒いリュックを背負い直して、たしかな足取りで講義棟に向かって歩き出す。
その黒々しい後ろ姿を見送りながら、おれは自分の言葉を何度も頭の中で反芻した。
おれは、蘇芳の絵から逃げない。
……蘇芳が、おれから逃げない限りは。
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