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2色:困惑の躑躅色
6.風に散る赤紫
しおりを挟む生協に向かって歩きながら、数日前の「しりとり対決」を思い出す。ちょうど昼の時間帯だったのか、構内はカラフルな装いの新入生たちの人波が賑やかに流れていく。それでも、あのとき蘇芳が描いたモノクロの絵の欠片が、何よりも鮮やかに瞼の裏に焼き付いているような心地がした。
「……魔性だな」
あの、不愛想で失礼極まりない後輩が描く絵は、中毒性のある薬品のように、気づけば思考を侵食している。目の前にちらつくと、冷静な判断を失う。その結果、おれはそこそこ厄介な立場に立たされることになっている。
あの日以来、蘇芳の姿は見ていない。とは言ってもほんの数日のことだし、おれはコーヒーを飲みに生協に現れる以外はほとんど研究室から出ていないから、それ自体は別に変ったことじゃない。そして、おれの周辺にも、別段変わったことは起こっていない。
蘇芳はあのとき、おれの「能力」を確信したに違いない。そもそもがそれを確かめるために、自分の「絵」を餌にあんな勝負を持ちかけたのだろうから。それでも、蘇芳がそうやって「確かめたこと」をどうするつもりなのか、今のところまったく見当がつかないというのが、なんとも不可解というか落ち着かないというか……はっきりと言ってしまえば不気味だった。
とりあえず、あの男がこんな非現実的なネタを吹聴して回ることはないだろうし(自分が変に思われるだけだろうから)、かと言ってこのままそっと陰から見守ってくれるなんていうこともないだろう(っていうかそれはそれで怖い)。
顔を合わせればあいつの目論見の断片くらいは掴めるのかもしれないが、なんだか掴んだものの数倍の情報を搾取されそうな気もする。……というわけで、おれはキャンパス内の春色に紛れる「黒」が姿を現さないか、びくびくと周囲を窺いながら歩いていた。
カフェテリアやコミュニティエリアを通り過ぎると、人通りは目に見えて少なくなる。それでも、いつもはほとんど人気のない生協のエリアに、ぽつぽつと学生たちの姿が見えた。おそらく1年の内で最も講義の出席率の高いこの時期、昼時にはすぐに席が埋まるカフェテリアゾーンから、やむなく押し出されてきた新入生だろう。まだなんとなくぎこちないような笑顔を互いに交わしながら、それでも新しい環境に少しずつ溶け込もうとする彼らの姿は初々しくて微笑ましい。きっとこれが、本来の正しい「後輩の姿」なんだろうなと、思わず遠い眼になったそのとき、突如視界に映り込んできた黒色におれは息を飲んだ。
「相変わらず締まりのない表情をして、何を眺めてるんですか」
「………ひっ!」
思わず零れた声が裏返った。いつの間にか、背後に相変わらず隙のない、不愛想な後輩が立っていた。「新しい環境」なんて意にも介さないという表情で、周囲をひたすらに呑み込んで染め変えるような存在感とともに、見慣れた黒色を身に纏って。
「……おはよう、蘇芳」
久しぶりだな、なんていうほどの親しい間柄でもない。引きつりそうな表情筋をなるべく抑え込むようにしてへらりと笑うと、蘇芳は可笑しそうに目を細めた。
「そんな警戒しなくても、取って食ったりしませんよ。昼メシですか」
「いや……ちょっと、躑躅の様子を見に……」
「躑躅……? あぁ、このへんの植え込みの。たしかに、いい色してますよね」
おれの研究内容をなんとなく知っている蘇芳は、すぐに「実験用」の採取だと気づいたらしく、生協の周囲を彩る鮮やかな赤紫色を眺めてそう言った。それから、小さく首を傾げる。
「それにしても、ずいぶん花が散っていますね。まだ咲いたばかりみたいなのに」
蘇芳の黒い瞳が、おれの背後にある、躑躅の植え込みを探るようにじっと見る。たしかに、おれの足元にもまだ綺麗すぎる花がたくさん落ちていた。昨日は風が強かったから、それで落ちてしまったのかと思っていたが、植え込みの花は外的な刺激にもけっこう強いはず。これほど一気に、花が落ちてしまったことはたしかに少し不思議だ。
「……うん。風のせいかなと思ったけど、ちょっと多いよな。なんにせよまだ綺麗な花もあるし、せめて何かに使えないかなと思って」
そう言ってしゃがみ込み、足元に散らばった花をひとつ拾い上げる。昼時の陽の光に照らされて、ひときわ鮮やかな赤紫。くんと反り返った花弁が、風に吹かれて微かに揺れた。
「彩さんらしいですね。手伝いましょうか?」
「…………え?」
頭上から降ってきた、目の前の人間がおよそ発しなさそうな言葉。一瞬意味がわからず、呆気に取られた拍子に、手に持った躑躅の花をぽろりと落としてしまった。顔を上げると、蘇芳はまったくいつもどおりの表情で、地面に転がる石ころを見下ろすのとさほど変わらないような温度の視線でおれを眺めている。
「そんな袋持ってるってことは、けっこうな量を拾うつもりなんでしょう。よければ、手伝いますけど」
おれの白衣のポケットから覗く、大きめのレジ袋を指さした蘇芳がそう言う。おれは慌てた。
「い、いや……。手伝ってもらうほどのことじゃないし、大丈夫。ぼちぼちやるから」
「そうですか。じゃあ、おれはこれで」
初めてくらいの親切な申し出を咄嗟に断ってしまうが、蘇芳は特に気を悪くした様子もなく、いつもどおりの涼し気な表情でそう言うと、生協の食堂エリアに向かって歩いて行った。黒いカーディガンの裾がふわりと風に揺れて遠ざかっていくのを、おれはなんとなく消化不良のような感覚で見送った。
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