色色彩彩ーイロイロトリドリー

えい

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2色:困惑の躑躅色

1.油断ならない黒

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 昔々、信心厚く、心優しい画僧がいた。自然物と心を通わせ、その「色」と対話し、魂を愛した。自然に宿る精霊たちは、その心に敬意を表し、彼に力を与えた。「色」を介し、自然が持つ魂の力を引き出せる力を。しかしその画僧は、その力を争いに使うことはなかった。いつまでも、この色とりどりの美しい風景が生き続けることを願い、この世界の「色」を脅かす存在が現れたときに、その力を使って立ち向かうことができるように、美しい筆にその力を預け、のちの世に託したのだった。

そしてその筆、実はおれが持っています。

……なんていう、途方もないお伽噺を「へー、そうなんだ」と信じる輩が、この現代社会にそうそういるとは思えない。そんなのがいるとしたら、きっとよっぽどの変わり者か、否応なしにその「現場」を見てしまった者くらいのもんだろう。

それなのに、よりにもよって一番理解の得られなさそうな人物に、その二つの条件をコンプリートされてしまったような気がする。数日前、大学の中で「力」を使った。立ち去るときに、背後で感じた微かな気配と物音。なんとなくぼんやりとしていたおれは、重大な事実を頭によぎらせることをしなかった。

あの場所に、しょっちゅう現れるのが、おれだけではないということを。





「…………とかげ」

「へぁっ!?」

背後でぼそりと呟かれ、危うく白衣にぶちまけそうになったブレンドコーヒーのカップを慌てて両手で握りしめる。恐る恐る振り向くと、いつもどおりに隙のない黒を纏った男がいた。

「どうしたんですか、彩さん。奇妙な声出して」

蘇芳は、「にっこり」とわざとらしい擬態語が貼りついたような笑みを浮かべた。おれたちの傍を通る女の子たちが、ちらちらと蘇芳の方を見て目をキラキラとさせるのは、別におかしいことじゃない。こいつはもともと綺麗な顔をしているし、それがこうやって微笑んでいれば、通りすがりの人間の目を釘付けにするくらいは容易いことだ。

問題は、その笑顔を向けられているはずのおれ自身が、こいつがおれに対して親しみのこもった笑顔なんぞ向けてくるようなキャラじゃないことを一番知っているということ。だから希少なはずの蘇芳の笑顔は、もはやネズミを見つけてどういたぶって遊ぼうかと舌なめずりをする猫のそれにしか見えない。……今すぐ、ここから逃げ出したい。

「……い、いや。ちょっと手元が狂っただけで……蘇芳、今何か言ったか?」

「いえ、別に」

「……あ、そう。じゃあ、おれはこれで……」

「そういえば、彩さんの名字って、と……みかげ、でしたよね」

「み、かげ、な。なんだよ突然」

「いや、たまには呼び方を変えてみようかなと思いまして。彩さんって呼ぶと嫌がるでしょ」

「い、いいよ、『彩』で。今さらだろ」

不自然に上擦りまくる声をなんとか抑えようとするのだが、全然うまくいかない。手に持ったコーヒーのカップが揺れ、中身がちゃぷちゃぷと音を立てるのを、蘇芳は確信的な視線で見下ろした。

「ねぇ、彩さん。一コマ分、おれにつき合ってくれませんか?」

「……つき合う……? 一コマって、おまえ授業は……?」

いよいよ不吉な申し出に、引きつった顔で聞き返すと、蘇芳は不敵に口角を上げた。

「休講になりました」

「…………」

ほんとかよ、とか、おまえが教授に一服盛ったんじゃないのか、とか。言いたいことはあるのだが、どうもうまく声が出ない。実験で忙しいとか都合のいい言い訳で逃げてしまいたいのはやまやまだが、ほとんど朝から晩まで教養授業のある一回生の蘇芳と違って、おれはもうほとんど単位を取りつくした気ままな四回生。普段のおれの行動パターンを見ていれば、今このときに一コマ分の空きも取れないなんてことはまぁ不自然だとわかるはず。そんなことも、この男はちゃんと織り込み済みだ。

「……おまえの授業に支障がないなら、別にいいけど」

深く深くため息をついたあとそう言うと、蘇芳は小馬鹿にしたように鋭い目を細めた。「そんなこと気にできる立場じゃないだろうが」と、言われている気がする。いつの間に、こんなに蘇芳の考えていることが読めるようになったんだか。まったく心躍らない発見に項垂れながら、おれはガラガラに空いた生協のテーブルにコーヒーのカップを置き、椅子に座った。

「じゃあ、遊びましょう。そうですね……『絵しりとり』で」

「…………はぁ?」

「絵しりとり、知らないんですか」

「……知ってるけど、なんでそんなこと……」

「そういう気分です。いいでしょ、たまには童心に返ったって」

「おまえが童心とか言うと、シュールだな……」

そりゃあこんな蘇芳にも、健気でいたいけな子ども時代はあったはずだ。おれが微塵もイメージできないだけで、たぶんあったのだろう。蘇芳はおれの余計な一言をきちんと聞き取ったらしく、じとりとこちらを眺めた。

「どういう意味ですか」

「いや、別に……。けど、遊びたいんなら他のゲームにしないか? えーと、研究室にトランプとかあった気がする……」

「彩さんとトランプ勝負なんて張り合いの欠片もなさそうですね。顔面に手札貼り付けてるようなもんでしょ。人並みのポーカーフェイスくらいできるようになってから言ってください」

「……うぅ。トランプに誘っただけでそこまで言うか……」

「ほら、ペンくらい持ってるでしょ。さっさと出して」

蘇芳はそう言いながら、黒いリュックの中を探り、綺麗な青色のバインダーを取り出すと、挟んでいたルーズリーフを一枚外しておれの前に置いた。同じような色合いのペンケースから芯の柔らかそうな鉛筆を出し、長い指に挟んで持つ。

「…………」

こいつの前で、絵なんか描きたくない。蘇芳がおれの「力」を目にして、それを確かめるためにこんなことを持ちかけているのなら猶更だ。それくらいはさすがにわかっているはずなのに、おれは目の前の光景に一瞬息を飲んだ。蘇芳が流れるような動作で手にしたのが、ボールペンでもシャープペンシルでもなく、デッサン用の鉛筆だったから。

「……蘇芳も、描くのか」

そう呟くと、蘇芳は心底呆れたような顔でおれを眺めた。

「当たり前でしょ。おれ、『しりとり』って言いましたよね。彩さんはひとりでしりとりするんですか? まぁそれはそれで笑えますけど、そんな彩さんと同じ空間にいるのは遠慮したいですね」

「……ちょっと確認しただけだろうが」

「いくらなんでも確認の内容がアホすぎる、って言ってるんです。スタートは彩さんからでいいですよ。口で言葉を言って、同時に絵を描く」

「言葉で言うんなら、絵で描く意味ないんじゃないか?」

白衣の胸ポケットに刺さっているボールペンを取り出し、その頼りない細さをきゅっと握る。おれは描きたくない。……けど、蘇芳の描く絵が見られるとしたら。たとえそれが、うらぶれた生協のテーブルの上で、愛想のない罫線が入ったルーズリーフの上にえがかれるものであったとしても……それでも見たいと思ってしまう、おれは本当に往生際が悪い。

「じゃあ、絵だけでいいですか? その場合、絵を描けなかったら即負けになりますけど」

「ちなみに負けたらどうなんの、これ」

「何も得るものも失うものもなく、大の男がしりとり勝負ってのもあんまりでしょう。負けたら、何かひとつ相手の質問に答えるってのは、どうですか?」

「…………」

「嘘、なしで」

蘇芳の黒い瞳が、すっと細めらる。おれの呼吸、心拍、心の内まで見透かすように。これほど「童心」からかけ離れた遊びがあってたまるか。おれの葛藤のふり幅は完全に掴まれている。おそらくこの男は、勝ち目のない勝負はしない。

描きたくない、蘇芳が描くのは見たい。
答えたくない、蘇芳には答えてほしい。

――どうして絵をやめたのか、おれはこいつに答えてほしい。

おれが、目を伏せて、深呼吸をして、ぐっと掌を握ってから出す答えを、こいつは最初から知っている。

「……いいよ。始めよう」

ほとんど人気のない空間に響いた消え入るようなおれの声に、蘇芳はさっきまでとは少し違う表情で、ふっと笑って頷いた。

こうして、おれ達の謎のしりとり対決がスタートした。
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