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1色:はじまりの青
6.新緑の相棒
しおりを挟む人は、記憶を思考だけではなくさまざまな感覚とリンクさせる。嗅覚、聴覚、触覚、味覚……そして、視覚。たとえばいつも見ている風景と、ある色彩が強く結びついていたとしたら。突然失われた「色」は、そこにつながる記憶の断片もどこかに連れ去ってしまうかもしれない。
とはいえ、ある色が突然この世から姿を消すなんてことは、普通ならあり得ないことだ。だから、季節の移り変わりや、環境や体調の変化で生じる緩やかな視覚の変化には、人はちゃんと対応できる。そう、人の記憶ごと掻っ攫っていくほど唐突な「色」の喪失なんて、本当は起こるはずがないのだ、普通なら。
いつも植物の採取に訪れる、研究棟の裏の茂み。全速力で走ったのは随分と久しぶりで、大した距離でもないのにしっかりと息が切れた。不格好な呼吸の合間に、どくんどくんと波打つ心臓の音が聞こえる。
いつかこんな日が来るだろうとは思っていた。いや、こんな日が来ることがわかっていたからこそ、おれはここにいるのだ。それなのに、往生際悪く波打つ心臓と、揺らぎそうな足元が情けない。
「……思ったより、早かったな」
呟いて、膝に当てていた掌をぐっと握って背筋を伸ばした。この現象が起こって、最初に失われたのが、よりにもよって恭介の、よりにもよって自分に関する記憶だということが、皮肉とはいえ幸運だと思うしかなかった。これではもう、逃げ出すわけにはいかない。
あたりに人気がないことを確認し、頭上の樹々を見上げる。生協の近くにもある、トウカエデの木。個体によって紅葉にも個性が出るという、表情豊かな木だ。光沢のある可愛らしい形の葉が、擦れ合って揺れている。小さく揺れるたびに、だんだんと鮮やかな緑が剥ぎ取られるように、黒い影に染められていくのが見えた。
「『色喰い』……。本当にいたんだな」
いまいち現実感から遠いような心地で、目の前の異様な光景を眺めてしまう。自然のエネルギーを、その「色彩」とともに喰うという、実態なき妖怪。色を奪い、その色と共に在る自然物の魂の力を取り込み、強大化していくという。こうして目にするまではそんなものが本当に存在するのか半信半疑だったおれも、さすがに今、目の前で美しい新緑の色が失われようとしてるのをこのまま見守っているわけにはいかない。
足元に目をやると、弾力のある芝生は変わらず青々と茂っていた。芽吹いたばかりの若々しい新緑の色とは少し違う、寒さも乾きも知り尽くした確固たる緑だ。この国の「色」には、数えきれないほどの繊細な違いがある。この怪奇現象と闘わなければいけない因縁を背負った身としては、それは非常にありがたいことだった。
「ちょっと、力を借りるな」
しゃがんで掌で足元の芝生を撫でると、ざわっという音と共に、一面の緑が波打った。
『……明誉の名のもとに命ず』
その名を口にすると、周囲の空気の感触が変わる。この地に生きた、古代の画僧の名。世に溢れる自然物の色を見極め、すべての色を愛し、色を介して絵に魂を込めた。その強くひたむきな僧侶の力を、おれはこの身に受け継いでいる。
『汝の魂の色、大地に根づく確固たる息吹、健気な強き萌黄を現せ』
唱えると、おれの足元に広がる芝生の絨毯から、鮮やかな緑が滲み出る。それはチューブから絞り出した絵の具のように滑らかに流線を描きながら宙に浮かび、おれを誘うように眼前に揺蕩う。「自分を使って、早く描け」と駆り立てるように。おれは覚悟を決めて、白衣のポケットに忍ばせている、朱塗りに金で箔を押した小さく美しい筆を取り出す。待ちかねていたように、宙に浮かんでいた鮮やかな新緑そのものの色が、その筆の穂先に吸い込まれていった。
「よし……。描くぞ、描けるはず」
言い聞かせるように呟き、微かに震えそうな掌を筆ごとぐっと握りしめる。頭の中でイメージを思い浮かべ、目の前の空間に向かってそろそろと筆を動かす。最後の一筆を繋ぎ終えると、目の前に不思議な生き物が現れた。
「ぐるぅ」
「…………」
緑色の、滑らかな身体と長い尻尾……。意外とつぶらな目で、その生き物はおれを見つめて不思議な鳴き声を上げた。
「……巨大、とかげ」
おれが思い描いた姿とはだいぶ違う。おれが描こうとしたのは、緑の鱗に身体中を覆われ、長い尾を揺らして天を駆ける……「龍」だったはずなのだが。
ぱしっ、ぱしっと、巨大な爬虫類似の生命体は太い尻尾を揺らしながら地面を打つ。「早く指示をしろ」と言われているような気がするのだが……。おれは半ば途方に暮れて、足元から見上げるその姿と、頭上の樹々の葉を見比べた。
こうしている今も、じわじわと着実に新緑の色は失われていこうとしている。「色喰い」が巣食っているのはおそらくあの樹上、葉の陰りの中だと思うのだが、こいつにあの場所まで辿り着けというのは少し無理がありそうだ。
思案に暮れるおれを見上げ、しばらく大人しくしていた生き物は、なぜか自信ありげにひと声鳴くと、目の前の、妖の気配がする大木に向かってのっしのっしと歩き出した。それからじっとその樹上を眺めたかと思ったら、人間の太腿くらいはありそうな太さの尻尾を振りかぶり、木の幹に思いきり叩きつけた。
地響きのような音と、メリッと何かが軋むような音がして、色を失った葉の間から黒い靄のような塊が落ちてきた。どうやらあの真っ黒いアメーバのような塊が、「色喰い」なるものの一時的な姿らしい。
捕食対象である「色」から引き剥がされた「色喰い」は、行き場を失ってしばし蠢き、次の瞬間こちらに向かって弾け飛んできた。
咄嗟に躱すと、おれの動きを読んでいたかのように巨大とかげが俊敏な動きで地を蹴り、色喰いの向かった方向に回り込む。再び振り上げたこん棒のような緑の尾が、力強く振り下ろされ、柔らかな土の大地に黒い靄を叩きつけた。
じゅわ、と焼けこげるような音が響き、色喰いの姿は土に溶け込むように消えていく。同時に、地面から溶け出すように流れ出た若い新緑の色が、芝生の力強い深緑に見守られるようにして、樹上の葉に吸い込まれていった。
「……おまえは、強いんだな」
おれの足元で、どこか得意げに緑の巨体を揺らしながら、つぶらな瞳でこちらを見上げるとかげ(もどき)の喉元を撫でてやると、そいつは満足げに「ぐるぅ」と鳴いた。愛でられ、讃えられるわけではなくても、こうしていつも足元を確かな色で染めている。
「ありがとな」
そう呟いて触れていた手を離すと、その姿はふわりと風に吹かれて輪郭をぼやけさせ、次の瞬間には芝生の絨毯の中に吸い込まれるようにして消えていった。足元と、樹上に戻った二色の緑。ふぅと小さく息を吐き、ポケットに朱塗りの筆を押し込んで、なんとなくふわふわとした足元を押さえつけるようにして歩き出した。
背後で、がさりと葉の擦れる音がする。
なんだかうまくいかないときというものは、連鎖反応的にひとつひとつの判断が機能しない。耳には届いたはずのその音は、意識の表層を撫でるにとどまり、おれは立ち止まることなく歩き続けた。
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