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1色:はじまりの青
5.奪われる色
しおりを挟むなんだかうまくいかないことというものは、連鎖反応的に湧き出てくる。そういう時には、大体にして対処の判断も「うまくいってない」ことがほとんどだから、ちっちゃなボタンの掛け違いが、より厄介な出来事を引きつれてきたりもする。この世界の、ありがたくない方程式のひとつだ。
「彩人、ちょっと頼まれてくれない?」
名前を呼ばれ、実験記録をまとめていた手を止める。おれの名を正しく読んでくれる人は貴重だ。同じ研究室の同級生、花村 都を見上げると、彼女は薄茶色の真っすぐな髪を耳に掛け、おれの手元を覗き込んできた。
「なんだ、けっこう進んでるじゃない。そんなこの世の終末見たような顔しなさんな」
そう言って、綺麗な指でおれの背中をぱんと叩く。姉御肌と言うのか、面倒見が良くさばさばとした性格の彼女は、思い切りも良く切り替えも上手だ。きっと、研究者に向いている。
「そんな顔してた? 別に大丈夫だけど、ちょっと眠くて」
誤魔化すように笑って見せると、花村はじっとおれの表情を眺めて、にっと笑った。
「じゃあ、眠気覚ましの材料あげる。はい、これ。小柴の研究室まで届けてあげて」
がちゃん、という微かな音とともに差し出されたのは、新品のビーカーと、数種類の試薬。
「あそこの3年、また発注忘れてたらしいのよ。昨日たまたま会ったときに、小柴が今日の実験がやばいって嘆いてたから、貸してあげて」
「へぇ。恭介が発注忘れに気づかないなんて珍しいね」
そう言いながら、段ボールの箱を受け取る。独特の紙の匂いがふわりと鼻を掠めた。花村はおれを見て、小さく首を傾げる。
「ん? なに?」
「……いや。小柴にも、ビーカー試薬よりも気になるもんがあったんでしょ、きっと」
「?」
訳知り顔でうんうんと頷く花村に見送られ、おれは研究室を出た。
眠気覚ましにもならない徒歩30秒の廊下を進んだ先に、恭介の所属する研究室はある。微生物化学の研究に取り組んでいて、体質改善が期待される健康食品への応用とか、新たな機能を持った微生物の発見とか、そんなことを幅広くやっている。入学当初から優秀な恭介は、研究室でも一目置かれる存在だ。
「お届けものです」
扉を叩いてそう告げると、すぐに中からドアが開いた。恭介の後輩が、申し訳なさそうに顔を出す。
「あ、御影先輩。すみません。またうっかりしちゃってて」
たぶん、彼が「発注を忘れていた」3年生だろう。研究室に所属したての3年生は、主に4年生の研究のサポートにつきながら、研究室の維持管理なども請け負っている。そうしながら、自分の研究に必要な知識や技術を学び、研究の方向性を固めていくのだ。
「気にしないで。っていうか、うっかりならおれの方が数段上だから。花村がいなかったら、うちの研究室は完全に路頭に迷ってる」
そう言って笑って見せると、目の前の後輩はほっとしたように表情を緩めた。実際、この手の管理能力が潔く欠如しているおれは、有能な秘書さながらの管理能力を備えた花村におんぶに抱っこで3年の一年間を越えていた。嫌な顔一つせずに、「彩人、その試薬もう切れそうだったから発注かけといたよ」とさらりと言ってのける花村が、何度女神に思えたことか。
「花村先輩は、めっちゃ『デキる』ってイメージです」
「それ本人に言ってやって。褒められると、意外と可愛い反応するんだ」
本人に聞かれたら「余計なことを言うな」とはたかれそうな情報提供をしながら、そう言えばその花村と対をなす、この研究室の守護神が顔を見せていないことに気づいた。
「で、君の『デキる先輩』はどこに?」
後輩はおれの手から丁寧に段ボールの箱を受け取り、一瞬だけちらりと研究室の奥に目をやった。
「恭介先輩、今日はまだ顔出してないんですよ。こんなことほとんどないんですけど……。やっぱ、おれがミスったの怒ってるのかな」
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そう言って白衣の肩をぽんぽんと叩いてやると、後輩は安心したように微笑んだ。
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「恭介」
おれの特等席に座ってぼんやりとしている友人を見つけ出すのに、それほど時間は掛からなかった。今日は白衣も着ておらず、シンプルなシャツとブラックジーンズ姿の恭介は、柔らかそうな髪を風に揺らしながらゆっくりとこちらを向いた。
「……彩」
「どうかしたのか? 調子でも悪い?」
なんだかいつもとは逆の問答だ。ここでぼんやりとしているおれに声を掛けてくれる恭介の気持ちが、少しわかったような気がした。なんとなくピントの覚束ない視線でおれの輪郭をたどるようにゆっくりと視線を動かした恭介は、はっとしたような表情になった。
「……え、あ、いや。大丈夫。なんか、ぼんやりしてて」
「……? 珍しいな。さっき研究室行ったらいなかったから、どうかしたのかと思った」
そう言うと、恭介はいつもの表情でふわりと微笑んだ。
「彩を探してたはずだったんだけどな。なんでおれ、こんなとこに来たんだろ」
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「別に、不思議がるようなことじゃないだろ。おれを探す順序として、ちゃんと正しい」
「……そう、なのか? 彩って、ここによく来るんだったか」
どこか戸惑ったようにそう言った恭介の様子に、漠然とした違和感がはっきりとした輪郭線を帯びる。
「……恭介」
「ん?」
いつもの声、いつもの表情。優秀で人のいい友人の綺麗な髪色を透かして、おれは恭介の背後に揺れる樹々の若葉を見返した。
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「葉? 葉に色なんてないだろ。変な彩」
「…………」
おれの目にはまだ微かに見えている、瑞々しい新緑の色。狡猾に散りばめられた影が、水を足しすぎた造り損ないの絵の具のようにじわりと滲み、少しずつ、その美しい緑を侵食していくのを、はっきりと感じた。
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