拝啓、259200秒後の君へ

野々峠ぽん

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そもそもの話の章

(6)

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「鞄あったから、もう来てるなあと思ててん」
「ハイ」

 光は、小さくなって頷いた。先ほどの失態が尾を引いているせいで、ペンケースから鉛筆を取り出すことでさえ、ノロノロと遅い。森住は、その間もこちらに広い背中を向けたまま、熱心にスケッチブックに鉛筆を走らせていた。

(ああ~~、バカバカ! よりによって、森住先輩のお絵描きタイムに騒音をっっ!)

 光は、後悔に身もだえした。
 三年の森住北斗は、光の憧れの先輩なのだ。というより光こそ、件の絵の作者である彼を慕い、この藤空木高校に進学を決めた女であるというべきか。
 半年前、藤空木高校の高校説明会に来た時、中学生を迎えるように展示されていた美術部の作品たち。その中に、忘れもしない森住北斗の絵を発見した瞬間、光の進路は決められてしまったのだ。
 念願かなって入学したとはいえ、一年の光と三年の森住では、部活の時間以外に接点を持てることはなく、それもたった一年という短い期間だけである。であるからこそ、光は森住と仲良くなるための機会を逃すまいと、気合十分で部活に臨んでいた。
 そう、一分一秒が大切なのだ。些細な失敗にくよくよしている場合ではないのだが……。

「藤間さん、どしたん? 描きいや」

 ふいに、森住が振り返る。それから、おもむろに右腕を伸ばすと、背後の机から椅子を引っこ抜いて、自分の隣にゴトンと置いた。肩で軽く促されて、光は慌ててスケッチブックと鉛筆を抱えて、駆け寄った。

「先輩、ありがとうございますっ」
「いやいや、瓶とか出してくれたん、自分やろ?」

 光は、椅子に滑りこむように座ると、森住に笑顔を向けた。
 森住先輩の隣でスケッチ。そう思うと、光は現金なもので落ち込んでいたのが嘘のように、自然と満面の笑顔になっていた。早速、スケッチブックをばさばさとめくり始める。そんな光の様子を横目で見て、安心したように鉛筆を握りなおした森住が、「あ」と声を上げる。

「椅子、好きに動かしてや。たまたまやから。ここで描けっ、て言うん違うからな」
「いえ、ここが! ここがよいので!」
「そ、そうか……」

 森住の気遣いを、光はきっぱりと退けた。
 その声の勢いに、一瞬目を丸くした森住は、次いでほんのすこし唇を綻ばせたが、それを隠すようにぱっと俯いた。そんな一連のしぐさに、光は胸を高鳴らせる。

(はう~~先輩カワイイ……!)

 小さく咳払いしてから、また画題に真剣な瞳を向け始めた森住の横顔に、光は見とれた。
 瓶よりも、森住の顔を見ている方が何億倍も絵の勉強になる。
 凛々しく上がった眉の下の、長い睫毛に縁取られた切れ長の目や、高く鼻筋の通った鼻、薄く形の良い唇。それらのパーツが、細面の小顔に、完璧に配置されている。きっとこれが黄金比だ、と光はガリリと鉛筆をかじった。
 光は、せっせとデッサンを取る森住の隣で、美しい横顔をうっとりと見つめる。
 絵を描く時以外は、伸ばしっぱなしの黒髪が覆ってしまう森住の顔は、実はとても秀麗なものであると、この学校の幾人が知っているだろうか。

(ホント綺麗……。他の人の顔だったら、絶対みせびらかしちゃうな)

 しかし光は、森住のことは誰も知らなくてよいと感じていた。彼の絵であっても、そうだ。ここに、こんな素晴らしいものがあるのだと、全世界に知ってほしいと思う。それと同じくらい、自分だけが知っているんだぞと、大事に胸に抱えていたい気もする。どう考えても、矛盾している。だが、正直な気持ちだった。


***


 ふいに、ガタンと物音がし、光ははっとする。同時に、スケッチブックから目を上げた森住と、視線がかち合った。真黒い目を真正面から見て、光の心臓が大きく跳ねる。

「なんの音やろ?」
「えっ! なんでしょうね」

 しどろもどろに答える光に、森住は不思議そうな顔をした。そのまま、彼女の手元に視線を落として、眉根を寄せる。

「藤間さん、進んでへんやんか」
「へぁっ?!」

 光のスケッチブックが、ほぼ白紙であることに気がついたらしい。ずっと森住の顔しか見ていなかったので、当然である。光は返答に窮し、あちこちに視線をさまよわせた。

「いつも、ガッ、バッて行くのに珍しいな。瓶、きらいか?」
「いやぁ、そのお~……瓶っていうか、それはどっちでも」

 瓶が苦手というわけではない。かといって好きでもないが、問題はそこではなく、森住ほど観てて嬉しいモチーフではないというだけだ。
 答えないでいるうちに、森住は何か納得した様子で話を進めている。

「まあ、普通に瓶やしなあ。かくいうおれも、デッサンの練習するより、好きなもん自由に描きたい方やし」
「えっ、そうなんですか」
「そうそう。そこにあるもん、同じように描いて何がおもろいねん、て思ってるし、言うとったしな」
「先輩が?!」

 意外だった。森住は、いつも熱心にデッサンの練習をしている。教室の後ろのロッカーには、都度持って帰っても間に合わないほど、森住のスケッチブックやクロッキー帳が立てられていた。思わず、まじまじと顔をみた光に、森住は照れくさそうに鼻をかいた。

「そしたら、フユさんにえらい笑われてな。『お前そんな考えじゃ、ボールが西瓜でも気づかねーままサッカーするぞ』やて」
「ど、どういう意味ですかね?」

 光は、ここにいないもう一人の先輩の顔を思い浮かべた。飄々としたあの人の言うことは、絵を描き始めて日の浅い光からすると、あまりピンとこないことが多い。森住は、考えを咀嚼するように口を動かしてから、自分のスケッチブックを光に見せてくれた。そこには、二人の目の前にある瓶が、写実的に大きく描かれている。

「見てみ。ぱっと見似てるけど、実際と全然違うやろ。胴体歪んでるし、瓶ふたつの重なり方も、ほんまはこんなんちゃう。まあ、下手くそなんは腕前のせいもあるけど、それだけとちごうて。ちゃんと見てへんせいなんや」
「見てない、ですか?」
「そう。おれの場合、こうやって描いて、並べてギャップ感じて、ようやっと「違う」てわかんねん。多分、おれの見えてる景色と、頭のなかの景色がずれとるんやな。そんで誤解して、おかしなったもんが手から出てきてまう。ちゃんと見えてへんから、ちゃんと思った通り描けへん。「正しく見る」技術は、めっちゃ大事なんや。と、思う」

 森住は、光のために一生懸命話してくれていたが、やはりよくわからなかった。
 だって、やっぱりそれは腕前の問題ではないのだろうか? ただ、あまり話して伝えるのが得意でないという彼が、真剣に話してくれるのが嬉しくて、光も真剣に相槌を打っていたのだった。

「ほんでまあ、冬さんの言いたいのは……自由に好きな絵をちゃんと描くために、ちゃんと見る訓練せろちゅうことやと思うわ」
「なるほど! だからデッサンを頑張ろうってことですねっ」

 光が大きく頷いたことで、森住はホッとした顔を見せた。ふと、見れば、思ったより近い位置にお互いの顔がある。話しているうちに、距離が近くなっていたことに気づき、慌てて二人は体を離した。
 真面目な話をしていたはずが、なんとなく気恥ずかしい雰囲気にとってかわられる。光は、どぎまぎしながら胸の前で鉛筆を握りしめた。森住も、少し気恥ずかしそうな様子で、そっぽを向いている。

(もしかして――チャンス?)

 Googleの検索結果のような言葉が脳裏によぎった。
 しかしこの――放課後に、二人きりの、美術室。なにか、甘酸っぱい期待に満ちた空気。
 常日頃、森住との距離を縮めたいと狙っている光からすると、おいしすぎる状況ではないか。ドキドキを通り越してばくばくする胸をおさえて、光は森住の様子を上目に窺った。
 そのとき、同時にこちらを向いた森住と、視線がかちあう。彼も、もの言いたげな様子を見せており、そのことにも背を押される。

(これは! もう! 先輩のプライベートに突っ込むチャンスでは?! 休みの日はどうとか、よければ遊びに行きたいとか! いやいやせめて、SNSのアカウントを――!)

 意を決し、声を上げようとした瞬間だった。

「ようっお前ら~~! なんか青春してるじゃねえか~~!?」
「ぐえっ」
「うっ」

 背後から、すさまじい勢いのタックルをくらったのは。

 首に鋼鉄の縄でぶたれたような衝撃を受け、光は潰れた悲鳴を上げた。同じ目にあった森住も、隣で苦しげな声を上げていた。苦しい――その上この、鼻と喉にくる独特の刺激臭――油絵の具の匂いときたら! 光は、顔面にぎゅうと押し付けられた、ソフトバレーボールの様な物体から顔を背けると、大きく息を吸い込んだ。

「ちょっと、なにすんですか!? 冬ちゃん先輩!!」

 きっと睨み上げると、顔面をにやにや笑いで一杯にした女生徒――冬島日香里フジマヒカリが、愉しそうな笑い声をあげた。

「あっはっは! オレの目の前で、絵に描いたみてーに愉しい空気になってるお前らが悪い! まったく、絵は紙に描けってよ、いや布でもいいけど!」

 愉しそうな日香里の拘束から逃れた森住が、げっそりしながら息を吐いた。

「冬さん、おったんか……」
「おうよ居たのさ、そこの美術準備室にな」

 びしっと、日香里が親指で指示した先の美術準備室は、いつのまにか半分ほど戸が開いていた。
 光は、そういえば、ちょっと前になにか物音がしたっけ、と逃避気味の脳の片隅で、思った。



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