エスタシオン

野々峠ぽん

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一章

9,少し前

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 大庭園にタイロスが現れる少し前のことだった――。

「ほほほ、この度は兄君がお目出度いことでした。ハオシェン殿下も、そろそろ奥方を迎えられることを考えられませんと」
「ほんにほんに。なにせ、殿下は次期ルフス公であらせられるもの。きっと兄君様よりたくさんの妻を迎えられましょうね」
「ははは、滅相もない!」

 笑顔全開で答えつつ、ハオシェンの心中は荒れ狂っていた。

(ええい、さっきから下らん話ばかり振ってきやがって! 兄上に急ぎお伝えしたいことがあると言うのに!)

 庭園の片隅で怪しい人影を見たハオシェンだが、思わぬところで足止めを食っていた。
 異変を今すぐにでも伝えに行きたいのに、諸侯を蔑ろに扱うわけにもいかない。ハオシェンは歯噛みした。

(第一、何がルフス公だ、何がたくさんの嫁だ! 僕はルフスの貴公子だぞ。兄よりも弟が前に出るような、はしたない真似するものかっ)

 ルフスでは、「年少者は年長者を立てなければならない」という考え方が一般的である。貴族達の”おだて”はハオシェンにとって、兄も自分も侮辱されたと感じるものだった。
 もともと聞かん坊のハオシェンは、今にも爆発寸前である。

「ご歓談中失礼いたします、殿下」

 ふいに、貴族たちのお喋りに穏やかな声が割って入った。その場にいた全員が声の主を振り返ると、亜麻色の髪の婦人が一人、声の通り穏やかな笑みを浮かべて立っていた。

「これは、クラティエル伯夫人」

 好き勝手話していた貴族たちが、婦人の登場に改まった態度になる。それもそのはずで、婦人――エドマ・クラティエル伯夫人は現アテル公子の妹であり、王太子タイロスの叔母であった。
 夫人には、ハオシェンも姿勢をきりっと正した。

「クラティエル伯夫人。僕になにか?」
「ええ、殿下。さきほど、義姉君さまたちが殿下のお姿が見えないと心配して、私のところにいらしたのです」
「あっ、義姉上……!」

 ハオシェンはしまったと思った。感情のままに撒いてきてしまったが、義姉たちは心配しているに違いない。

「申し訳ない皆さま、義姉のもとに参りますので……!」

 ハオシェンは慌てて貴族たちに断ると、伯夫人と連れ立って囲みを抜けた。
 しばらく歩いたころ、隣で夫人が笑った気配がした。不思議に思い見上げると、悪戯っぽく目くばせをされる。

「ハオシェン様も、大変ですわね。うちの子も、年頃になってからは辟易としてますの」
「あっ」

 困っているのに気づいて、助け舟を出してくれたのだと気付く。

「ありがとうございます。もしや、義姉上たちのことは、あの場を逃れるために?」
「いえいえ。それに、義姉君さまのことは本当のことですわ。血相を変えていらして……あまりご心配をおかけしてはお可哀そうよ」
「は、はい。気をつけます」

 穏やかに諫められ、ハオシェンはしゅんと肩を落とした。伯夫人はそんな少年に、扇子越しに微笑ましそうな眼差しを向けた。
 夫人は夫を亡くした後、早逝した姉に代わり王宮で王太子の後見をつとめている。ハオシェンとも昔から見知った仲で、こうして世話を焼かれることは少なくなかった。

「ふふ、殿下は素直でいらっしゃる」

 夫人は扇子越しに控えめな笑い声をたてた。巨人族の血を引くアテルの貴族において、夫人は珍しくかなり小柄だった。どこか少女めいた容貌をしており、笑うとその気配が一層強くなる。

(夫人はいつも感じがいいなあ。僕の母上なんか怒ってばっかで、もう鬼だからな。タイロス兄上が羨ましい……あ、そうだ。聞いてみようかな、王太子がどうしているか)

 そうすれば、嫌な予感が払える気がする。

「あの、伯夫人――」
「あら、殿下。あちらに義姉君さまが」

 しかし、尋ねようと口を開いた瞬間、夫人に遮られる。
 夫人が指を差した方には、兄嫁の一人――ヨウリンがいた。きょろきょろと辺りを見回して、誰かを探している様子である。

「義姉上!」

 ハオシェンが声をかけると、ヨウリンはぴょんとその場に飛び上がり、勢いよく振り返った。ハオシェンの姿を認めた瞬間、大きな目を真ん丸に見開く。

「ああん、よかったぁハオシェン様あ~~~!」

 長い衣装の裾をひらめかし、びゅんと駆け寄ってきた。飛びつくように両手を握られ、うるると潤んだ瞳で恨めし気に見つめられる。

「えーん、どこにいらしたんですかあ! あたくしもランレイ姐さんも気が気じゃなかったんですよう!」
「ご、ごめんなさい。義姉上」
「反省してくださぁい! もうっ」

 同じ兄嫁でも、落ち着いているランレイと違いヨウリンは賑やかで言動も子供っぽい。外見も美人のランレイと比べ、ヨウリンはまだ美少女といった風情である。

(これで兄上より年上なんだものな……女ってわからん)

 ハオシェンがわんわん泣く義姉におろおろしていると、こほんと咳払いが聞こえた。夫人が苦笑しつつ、礼をとる。

「殿下、私はこれにて」
「あ、伯夫人。お世話になりました」

 ハオシェンもヨウリンも慌てて礼を取る。ここまで、伯夫人がついて来てくれたおかげで、誰にも絡まれずに済んだのだ。
 優雅に去っていく背を見送って、ハオシェンははっとした。

「そうだ、義姉上っ。兄上はどこにおられますか? 急いでお伝えしなければならぬことが!」
「えっ、旦那様なら前方にいらっしゃると思いますけど……」

 怪訝そうな顔で涙を拭うヨウリンを置いて、ハオシェンはさっさと歩き出した。

「待ってくださいまし、ハオシェン様!」
「いえ、僕は兄にお伝えしたいことがありますので」
「行かせませんよっ!」
「なっ!?」

 正面に回り込んだヨウリンが、ハオシェンの行く手を阻んだ。額にペタッと札を張られ、ハオシェンはへなへなとその場にへたり込む。

「何を、義姉上!」
「油断しましたねっ。実は、義母上様にハオシェン様は見つけ次第退出させるよう、申し付けられていたのですっ」
「そんな?!」

 得意げな笑みを浮かべた義姉は、紅色の紐でハオシェンを拘束するとずるずる引っ張り出した。なすすべもなく引きずられ、ハオシェンは顔を真っ赤にして叫ぶ。

「やめてくださいっ!」
「いいえ、ききません!」

 道行く貴族に好奇の目で見られているが、ヨウリンは容赦がなく歩いていく。振りほどきたいが、術士である義姉の札が効いていて、力が出ない。

(なぜこんなことに……!)

 ハオシェンは悔しさに目を潤ませた。
 そんな義弟の様子をちらりと見て、ヨウリンは呟いた。

「大人しくしてね、ハオシェン様。だって、なんだか面倒なことがおこりそうなんですもの」

 庭園の木々が異様にざわめくのを感じ、ヨウリンは紐を握る手に力を込めた。

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