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春宵一刻 暁桜 (後)
しおりを挟む花開く直前の蕾のような、透き通った華の水昌。
蕾の種には神が眠り、目覚めの時を待つ。
神待つ幼き僕は許しを乞い、贖罪に身を滅ぼす。
滅びの時は来たり。祝福の時は来たり――。
――彼女の唄と共に、流れ込んだ遠い遠い過去の真実の一部。
世界には淡く光り続ける水晶の中に囚われ目を閉ざしたままの黒髪の女性がいて、それを無感動な瞳で見つめ続ける幼い黒髪の少女だけが居た。
少女の周りの世界はとうに堕落に呑まれ、全ての生命はもはや息絶えた。
いまやたった二人きりの世界。
滅びゆく世界に残った最後の光――淡く光る水晶に触れた少女は初めて口元に笑みを浮かべ、やがて一滴の雫を流して世界は――。
カチ、カチ、カチ、カチ、――。
「ああぁあぁぁあぁああぁああ゛ッッ!!」
抜けていく……奪われていく……命が、記憶が、魂が。
カチ、カチ、カチ、カチ、――。
針の音なんかじゃない、これは私の全てが削られていく音だった。
カチ、カチ、カチ、カチ、――。
「あぁあぁあぁ――ッ」
大切なものが……大事なものが全て、跡形もなく……ッ!
カチ、カチ、カチ、カチ、――。
『――そろそろ貴方からは、お暇させて頂きます』
「ぎぎ、ぃぃぁぁぁあああアアッッ」
カチ、カチ、カチ、カチ、――。
ミチミチミチミチミチミチ――。
凄まじい絶叫を上げ、地に這い蹲って痙攣し、背中を破こうと内側から溢れそうになるナニかへ必死に抗う。
こうなることは最初から分かっていた。ディアスキアを一時しか封印出来ないと、ディアスキアの知識が教えてくれたあの時に。
けれど――解けるのがあまりにも速すぎる……!
「ぁぁああああ゛あ゛――ッ!!」
本来であれば、もう少しだけ時間があったはずだった。
だから私は彼女と――。
『もう封が解けてしまうことが不思議ですか? ――無理もありません。貴方が垣間見れた私の叡智はある前提が無ければ、という注釈に基づいただけに過ぎない表面的なものでしたから』
「ぐぅ、がぁ、」
『ミルの封印は完璧でしたよ。覚醒もままならない今の私であればひとたまりも無かったことでしょう――器の法則を知って、貴方が特殊な存在であることを知っていれば』
「あが、ぁ……」
『罠に気付かず完璧に引っかかってしまったが故に、封は中途半端に強力となり、ミルたちの勘違いを更に助長させた。……おかげで、今頃罠に気付いても反動を受けて瀕死になっている頃合いでしょうか。可哀想に』
淡々と、何でもないことのようにディアスキアが作業のついでに抑揚もなく語る。
このままただの抜け殻になるまいと、必死で抗う意思さえもディアスキアによって簡単に抜き取られ、削られ、持っていかれていく。
だめ……このままでは……消えてしまう……世界が――。
『ヴァニタス』
『――――ッ』
「ぁ……ぅ……」
――突如として。灼けつくような閃光が脳天を貫き、痛みも一瞬忘れるほど眼球の裏まで視界が驚くほど真っ白に染まった。
次第にチカチカと明滅するように戻って来た視界に真っ先に写ったのは、痛みで暴れ続けていた私へ無垢な笑みを向ける、どこまでも白一色に染まった美しい神秘だった。
『――ここは邪魔者が多いようですね』
「その子、もう要らないのなら私が貰ってもいいでしょう? ――それともこの大事な時に、今ここであなたと争わないといけませんか」
突然現れたのは、舞踏会で少しだけ会話した盲目の少女のようだった。
いつの間にかディアスキアは作業を止めて、突然現れた少女の意図を探っているようだった。
『……いいでしょう』
「ごぁえああああっ!?」
ぬるり、腹の中から這うように何かが迫り上がり、喉を通って口から出て行った。
――出て来た姿は、まるで蛇そのものだった。
どこに収まっていたのか、と驚くほどの巨体が口の中からとめどなく溢れて出ていき、禍々しい姿を外に現した。
そして一度とぐろを巻き、少女を一瞥したかと思えば、私の中から完全に出てしまったその蛇は振り返ることもなく、そのままあっさりと闇に消えていってしまった――。
「――どうにか間に合ったようですね」
「あ、ぁ……」
闇に消えた蛇を見送った後で掛けられた言葉に、ろくな反応が返せなかった。
ディアスキアが私の中から去ったからといって、私の痛みの全てが消えたわけではなかったからだ。
今まで痛みに反応して暴れ回っていたのは生存本能の反射であったようで、身体はもう半ば死んだように疲れ切ってぴくりとも動かない。
部屋に残されたのは、虫食いのようにボロボロに喰われ今にも頓死寸前の私と未だ笑みを向ける少女だけ。
「本当はあなたを助けるつもりはありませんでした」
「…………」
反応する気力もない私に笑顔を向けながら、少女が言葉を続ける。
「――彼との取引がなければ」
「…………」
「良かったですね。少しの間だけでも命拾いが出来て」
彼……。一番に思いついたのは、先程まで楽しい時間を過ごしていた彼のことだった。
「残された時間、これからどう過ごすおつもりで? 少しならお手伝いしましょう。契約ですので」
残された時間……。
真っ先に浮かんだのは、僅かに残された彼女の記憶。
「ど、めなぎゃ……」
「……まさか、あの子を追う気で? 無意味だと思いますけれど」
血反吐とともに出した言葉に、少女が場違いにクスクス笑いながら私の意思を否定した。
少女がどういう立場で私を助け、誰とどんな関係があって、どういう存在として私の意思を笑って否定するのか、気にしていられなかった。
ただただそれでも、となけなしの力で這うように地べたを進むだけ。
「……決意は固そうですね」
どうにか人一人分進めただろうか、というところで少女が這う私の真横に膝をついて、屈むようにして初めて瞳を合わせて来た。
――その瞳の中は美しい夜空と流れる光の波を映していて、黒耀の瞳の中で色とりどりの光が揺蕩う光景はまるで神秘的な幻想を閉じ込めているようだった。
「――面白そうなので、特別に救いをあげましょう」
◇◆◇◆◇
カツカツカツ、と靴音を鳴らして王宮の廊下を走り抜ける。
はしたないと見咎める者は、不自然なほどに存在していなかった。
「はぁ、は――」
荒い息のまま休まず歩みを進める続けるのは止めなければ、という強い意思によるものだった。
人気が無く、静まり返った廊下にただただ焦りが募っていく。
「――何者だ」
彷徨うように、けれどただただひたすらに前に進まんと歩み続けた先に、見知らぬ茶髪の男性が立っていた。
王宮の異様な状況に気付いているのかいないのか、その手には大きな盾が構えられていた。
「待て、名乗れ」
誰何する様子はまるで王宮の兵士のようであったが、煌びやかな服装から招待された貴族であることは一目で分かった。
……貴族がここにいるなら、会場はすぐそこに。
「君、その髪色は……」
今は時間が無いと、誰何を無視して通り過ぎようとして腕を強く掴まれてしまった。
身体は未だボロボロで治ったわけではなかった。本当に少しの間、動けるようになっているだけ。
もう時間が無いのに……!
「……君と同じ年頃の娘を探しているんだ。見掛けてないだろうか」
「いいえ……」
こんな時ではあったものの、自分のこともさることながら王宮の状況が不穏に包まれていることが分かってしまうだけに、男性の言葉を軽く流すことはどうにも出来なかった。
……男性の話を聞けば、もしかしたら今の状況がどうなっているのかが少しだけでも分かるかもしれない。
仕方なく、焦る気持ちを抑えて応えることにした。
「ここまで、誰も見かけていません」
「そうか。……私は親戚のお茶目のせいで、娘を探す為にまだここを離れられそうにない。どうか娘を見掛けたらレオンが大広間で探していたと伝えてくれないだろうか」
「どうして、私に……」
「なんとなくだ。……君は娘と縁がありそうな気がするからな」
闇夜に浮かんだ珍しい金色の瞳に乞われ、何故だか無碍には出来なくて反射的に頷いてしまった。
……さっさと了承したほうが早く話を終わらせられるから、と無意識に思ったのかもしれない。
「……分かりました。もしお見掛けしたら必ずお伝え致します」
「ああ、ありがとう。娘は美しい紫の瞳をしているからすぐに分かるだろう」
「え……」
もしや、シオン様……?
「では頼んだ。――姪っ子よ」
「……姪っ子?」
謎の言葉を残し、男性は足早に去って行ってしまった。
――ゴォォォオオオオオ!!
「――ッ!?」
――突然、足元が消えてしまったかのような巨大な揺れに襲われる。
おかげで男性の残した謎の言葉は思考から消し飛んで、すぐさま思考は切り替わった。
――あっちにいる!
重い身体を引きずって、私は震源へと歩みを進めた。
◇◆◇◆◇
キーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
耳を突き抜けていく不快な金属音は、その水晶から漏れる音だった。
地面から突き出すように伸びた蕾のような水晶の中には、眠るように目を閉ざしたシオン様が居た。
――見つけた!
『……大人しく己が運命を受け入れればいいだけなのに、次から次へと諦めが悪いですね』
私に気付いたのか否か、言葉を溢したのはおそらくディアスキアだろうと思われる艶やかで黒い髪を靡かせた、綺麗な紫碧の瞳の女性だった。
「――運命という言葉は嫌いだ」
「右に同じく!」
先程の轟音と振動はディアスキアと彼らの闘いによるものだったのか、彼と、そして何故か以前学園で一度見掛けた珍しい瞳の少年がそこに居て共闘していた。
軽い口調で会話しているが、目で追えないほどの凄まじい攻防が繰り広げられているのは微かに見えていた。
……共闘している、ということは味方で良いのだろうか?
「貴様と一緒にするな。失せろ、永遠に」
「辛辣だね! でも味方! 貴重な味方だから!」
味方だ、と彼に叫んだ少年は確かに彼を助けるような大立ち回りで縦横無尽に動き回っていた。
その動きは彼と遜色ないほどだ。
「そもそも誰だ貴様は……」
「ええっ!? さっきからずっと誰が補助してやってると……!」
この場で少年が味方がどうかの真偽を定かにするのは難しい――しかし。
実際助けてくれているのだし、ひとまず味方だと思ったほうが良いのだろうか。
「関係ない。邪魔だ、失せろ」
いや、ここまで彼が鬱陶し気にするということは味方ではない……?
「万が一攻撃の余波がシオンに当たったら……っててて! なんでこっちに攻撃!?」
「ノヴァの名前を勝手に呼ぶな……」
何故かディアスキアのみならず偶に少年を狙って攻撃し続ける彼のせいで、少年が味方かどうか判断に困る。
この後のことに邪魔にならなければいいけど……。
『仲が良さそうですね。仮にも義兄弟だからでしょうか』
義兄弟? 彼らが……? ならやっぱり味方……?
何を考えてか、突然彼らの関係性について言及したディアスキアに対し、彼らは怒涛の攻撃を一旦止め、まるで時が止まったかのように暫しお互いに足を止めた。
突然の静寂に風が吹き抜けて、「貴様が――」と小さく彼が溢した底知れないほど深い声が微かに私の元へと届いた、気がした。
そしてそのまま彼が振り返りざまに少年を狙って攻撃した、ように見えた。
「――死ね!」
「ちょ、まっ! お兄様、敵あっち! あっちだから!」
……今までが小手調べの児戯だったかのように、あまりに彼の攻撃が早過ぎてよく見えなかった。
なのに、なんとか少年が彼の攻撃を紙一重で躱したことだけは声の反応から分かった。
……それはきっと、彼のあの攻撃を避けていなければ少年が声を出すことは出来なかったはずだと、私の立場に自然と置き換えて予測してしまったからだった。
そうしてディアスキアの隙を遠くから窺いながらも聞こえてくるなんとも気が抜ける会話に呆気にとられていると、今まで追い払わんと牽制するだけだった彼の攻撃が少年へと完全に矛先が向いたのが分かった。
「誰が貴様の兄だ……死ね!」
「おおおい! 今それどころじゃないって!」
ザン、ザンザンザン――。
美しい庭園がみるみる更地へと変わっていく。
……どうやら、今までは庭園に配慮して闘っていたらしかった。
『それで。あなたはここへ何をしに来たのですか』
「――ッ!」
『せっかく死に損ない程度で解放してやったというのに、わざわざ残り少ない時間を苦痛に染めに来たのですか』
やっぱり、気付かれていたっ?
バレていると悟って、隠れていた生け垣の後ろから姿を現した。そこで自身の周囲だけ庭園が戦闘の余波から無事であることに気付いた。
……彼らにも最初から気付かれていたみたい。
「……あなたを止めにきました」
戦闘の間も何一つとして変わらない表情でいたディアスキアが、少しだけ眉を動かし、瞳孔を開いたのが分かった。
その顔を見ただけで、私の言葉にとても驚いたというのが伝わった。……というよりも予想していなかった、という表情だろうか。
『……あなたが。私を? 何故?』
「あなたのやり方は間違っています」
ずっと思っていたことを告げる。彼女の記憶を垣間見た時からずっと。
一方的で独り善がり、けれどその心だけはどこまでも純粋で――。
……一度はその想いに同情し、自らの死でさえ運命として受け入れようとした。
けれど――。
「こんなやり方、……『鈴蘭』ちゃんは望んでません」
『――――』
私の言葉にディアスキアは真顔のまま瞬きもせず、時が止まったように微動だにしなかった。
食らい尽くされて残った僅かな彼女の――鈴蘭ちゃんの記憶と心。
――それが私がここまで来た理由。
『――なるほど』
つと、久方に時が動き出したかのようにディアスキアが首を少し傾いだかと思えば、睫毛の微かな震えと共に見下すように細めた目で淡々と言葉を溢し、――。
「避けろ!」
「――ッ?」
いつの間に近くにきていたのか、気付けば彼の腕の中で右往左往と凄まじい移動の衝撃を受けていた。
いや、移動だけではなく何かの攻撃の余波も受けているようだった。
『なるほど。なるほどなるほどなるほどなるほどなるほど……』
急に壊れたように静かに同じ言葉を繰り返すだけになったディアスキアに、ボロボロなままの魂を再び揺さぶられ逆撫でされたような薄ら寒い恐怖を感じた。
――触れてはならないものに触れてしまったことが直感で分かった。
『私を止める、止められるなどとなんて傲慢で場違いなことを……などと思ってしまい大変失礼いたしました、サクラ・クローバー……』
雰囲気が一瞬にして豹変したディアスキアを中心にして空間が歪に、大きく不気味に揺れていた。
――大地が震え、空が震え、数多の生命さえも芯から震えているのが分かった。
『――いいえ。正しくは、サクラ・ベス・ラン=アイオーンと呼んだほうが良いでしょうか』
アイオーン……? それは帝国皇族の……。
『……そういえば、あなたも同じ真名を持っていましたか。――なるほど、なるほど、迂闊でした。まさか今更になってたかが人形などと共鳴するとは』
ぞわり、得体の知れない恐怖にガタガタと身体が震え、身と魂を削られた痛みを反射的に思い出していた。
一度味わった苦痛も恐怖も、未だ記憶に新しい。
『――その子は返して頂きます』
「ひっ……!」
完全に光を失った、虚ろな目と目が合って短い悲鳴が上がった。
捕える為に伸ばされた手から目が離せなくなって、――呼吸が止まった。
『鬱陶しい……』
「――しっかり掴まってろ!」
怖ろしい手が遠ざかって頭上から声が聞こえた。私はそこで彼の腕の中に居ることを思い出した――のに、ただただ震えて怯えるだけしか出来ない。
粘着質に纏わりつくように次々と周囲で歪んでいく空間に、私を片手に抱えながらも彼が次々と斬り捨てていく異次元の闘いなど気にする余裕は無かった。
「ちょちょちょ! これどうなってんの!?」
「知らん。……だが、どうやらサクラを狙ってるようだ」
「見たら分かる説明ありがとう! お兄様!」
「誰が貴様の兄だ……後で覚えておけ」
「……もしや、それほど余裕無さそうな感じ?」
「黙って助力しろ」
「わーお。委細承知、了解しましたー!」
こんな時でも日常会話のように暢気に交わされる彼らの会話に、けれど私の震えが止むことはない。
今の私に見えているのは、何度も何度も何度も――それこそ何度も捕えようと幾度もギリギリまで迫りくるディアスキアの手の残像だけだった。
『――その子を渡せば、あなたの妹を解放しましょう』
痺れを切らしたのか、ディアスキアがいかにもな取引の提案を持ちかけた。
思わずびくり、と身体を揺らす。
「断る」
『――――』
「貴様の言葉は格別に信用ならん」
「ひゅー、お兄様かっこいいー」
茶化すように少年が声を上げた。
「黙れ。貴様もアレと同程度に信用ならん」
「うわ、ひど……今のが一番グサッと来た。こんなに助力してるのに……」
にべもなく彼はディアスキアの提案を断り、ついでに少年の心も抉った。
……取引に応じるかもと、疑う間も無い即答であった。
『……そうですか。それでは仕方がありません。出来ればまだ、この手は使いたくはありませんでしたが――』
――唐突に。発生した攻撃の間隙に、一瞬の無音に囚われた。
『――滅して滅して滅ぼして、絶滅こそ我が役目』
「だめっ……!」
遠い遠い彼女の記憶で一度だけ聞いた恐ろしい文言に、恐怖に閉ざしていた口が反射的に開いて静止の声を上げた。
――が、間に合わなかった。
『――須らく堕落せよ、夢幻の生命のものどもよ』
キーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
逆撫でするような不快な金属音が水晶から一際強く響き、世界に木霊した。
……心なしか、シオン様の顔色が悪くなったように見えた。
「ぐ、……貴様、何をした」
『少々小細工を施したまで。――あなたには分かるようですね』
「ぁ、あ……ぁあ……ッ!」
止められなかった……!
『――その子を返して頂けるなら、すぐさま解くと真名に誓いましょう』
「――ッ」
罠だ……。
彼女が私に教えてくれた。
「何を言って――く、ぁ」
ふらり、と今までしっかりとしてブレることのなかった彼の体幹が揺らいだ。
……こんなに早く効果が出るなんてッ!
『――どうしますか? ……一度でも完全に堕ちればどうなるのか、あの子が親切に教えてくれてるのでしょう?』
「わ、私は――」
ごくり、と脳裏に過ぎる数々の末路に生唾を呑み込んだ。
このままでは全てが終わってしまう……それだけは……!
「わ、分かりまし」
「――オイオイ陛下。そりゃ意地悪が過ぎるってェもんだぜ」
あ、……と驚愕に目を見開いた。桃色髪を二つに結んだ隻眼の少女が、いつの間にか私たちの背後に気配もなく立っていた。
ディアスキアが不穏なことを言って、それから今の今まで実際に音沙汰が全く無かったものだからてっきり、……と浅はかに考えていた。
「み、みるさま……?」
「――おう、オレ様だぜ。遅れて悪ィな!」
いつも通りで、……しかし、どこかいつもの力強さや迫力が欠如したような違和感を纏ったミル様がそこにいた。
『……散らばっていた己の偽象の残骸を搔き集めたのですか。しかし、所詮は神の猿真似。その程度の身体を今更継ぎ接ぎに象ったところで、あなたの司源が瀕死であることに変わりはありません。常のように大人しく巣籠りしていれば良かったものを……枯渇寸前のあなたに何が出来るとここまで来たのか、非常に気になりますね』
「――ぺらぺらぺらぺらぺらぺらと、随分焦ってるみてェだなァ陛下! 珍しく余計な口数が多いじゃねェーか!」
まるで動揺することなく、ディアスキアが無表情でミル様を少し見てから淡々と言葉を交わした。
そして全ての感情が抜け落ちたような表情のディアスキアに、何を思ったのかミル様が何故か挑発して煽るように嘲笑したのを聞いて背筋がわけもなく凍った。
『……大陸がひとつ、消失しました』
「げっ、オイ……マジギレじゃねェか……誰だよ怒らせたやつ……」
ディアスキアが何を言っているのかすぐさま理解出来たのはミル様だけのようで、直前の嘲る表情とは打って変わって最も顔を青褪めさせていた。
『――いかがしますか、サクラ。あなたの判断が遅くなればなるほど、加速度的に効果は増します。ですが、こちらへあの子を返して頂ければすぐさまコレを解きましょう』
「オレ様ガン無視じゃねェーか、悲しいぜ」
既にミル様に興味はない、と言いたげにディアスキアが私を見た。
大陸がひとつ消えた……。笑えない脅しだ。
しかし、それがただの脅しではなくれっきとした事実なのだということは再び彼女が教えてくれた。
……これ以上、好き勝手にやらせるわけにはいかない。けれど、今ここで彼女を渡せば本末転倒。
彼女のアレを実行する為にはディアスキアの隙が見当たらない、一体どうすれば――。
気付けば震えは既に止まっていて、頭にあるのはいかに彼女の意思を果たせるかで――。
「陛下よォ。――寝惚けてオレ様の本来の勤め、忘れてねェか」
再び、ミル様がディアスキアの気を逸らすように言葉を発した。
『……いいえ。ですが、それがどうしたというのですか』
「なら取引だぜ!」
無駄に時間を浪費して悩む私を後目に、ミル様が何かの手札をもってしてディアスキアに取引を持ち掛けた。
よほど自信のある手札のようで、ディアスキアが再びミル様に注目した。
「本来のオレ様の役割は門番。そろそろ故郷が恋しい頃合いじゃねェか、と思ってなァ? わざわざ巣から出て来てやったんだぜ、陛下」
『……なるほど。確かに、それなら納得ですね』
異様な緊迫感に、誰も動かない。
『……いいでしょう。あなたの取引を受け入れます。――リヴァーレ』
す……、といつの間にか掛かっていた負荷が身体から取り除かれた感覚を得た。
……本当に止めてしまうなんて、ミル様は一体何を取引材料に……?
「ちっちっち、シオンも解放してくれなきゃ、わざわざオレ様が出て来た割に合わねェぜ?」
えっ。
『……それもいいでしょう。エラディミトス』
えっ。
『これで満足ですか。――ならば取引の代価を払ってください』
「……仕方ねェ。魔女同士の取引だ。オレ様に二言はねェ」
ミル様の言葉の後に、ディアスキアの後ろに巨大な黒玉が突如として出現した。
それを確認したディアスキアは今までに何事も無かったかのようにあっさり踵を返すと、黒玉に入る去り際に私へ一言だけ告げて消えた。
――神の国でまた会いましょう。
……その言葉はまるで、私が果たそうとする彼女の意思を見透かしているようで、――改めて容易な覚悟では成し遂げられないのだと認識した。
ディアスキアが去ってすぐ、黒玉が消え失せると共にミル様がどろどろに溶けた。
「クソ……」
「ミル様!?」
「仕様だ……気にすんな」
雨に濡れた泥の山のような姿に変わり果てたミル様に、驚いて言葉に詰まった。
どこから声を発しているのか、どこを見て会話すればいいのかが分からなくて困惑する。
「――そんなこたァより、陛下がクソほど怒り心頭だった理由を不本意ながら遅れて来ちまったオレ様に教えやがれ」
「……怒ってるようには見えなかったが」
「アホか。テメェの目は節穴かよ。明らかにマジギレだったじゃねェか!」
ミル様に答える声が頭上からして、そういえば未だに彼の腕の中であったことに気付いて妙に焦って固まった。
……ディアスキアが居た状態では、意識は完全にディアスキアにのみ集中していて、彼のことは全く気にならかったのに……。
「……途中までは俺とそこので相手していたが、隙を作るために一時離脱した際に何故か急にサクラに狙いを移したようだった」
「そこのって……扱い酷くない?」
「そういや、言っちゃなんだが……よく見りゃ陛下がしっかり抜けてやがんのに、嬢ちゃんよく無事だったなァ……?」
「えっ、無視?」
「ある方に助けられたんです……それで、ありがとうございました」
「……なんのことだ?」
「いいえ。惚けなくていいです。本当にありがとうございました。おかげで命拾いしましたから……」
「…………」
改めてお礼を彼に述べる。何のことか、と心底不思議そうに首を傾げた彼に、記憶に残っていないほど些細な助けであったのだと理解して心からの感謝を告げた。
……倒れる直前の状況を思えば、私を助けたのは彼しかいないのだから。
「それより、どうーすっかなァ……陛下をみすみす行かせちまったぜ」
心なしかどろどろを平面にどろどろ伸ばしながらミル様が愚痴る。
……もしかして、寝転がってる?
「あの……気になっていたのですが、どうしてあれほどあっさりと引いたのでしょう?」
「……ああ、そりゃオレ様が創る『精霊の道』が特別製だからだな」
「せしゅぴゅ……その、特別製というのは」
「――自然に出る『精霊の道』は世界各地に極々稀にしか出現しねェし同じ場所に滅多に二度も出現しねェ。更に言やぁ精霊じゃねェ魔女があちらへ渡る為には『精霊の道』のような道が必要だが、精霊とは相反する力を持つせいでただ見つけようってだけでも至難の業だ」
「あれか」
「……まァ、稀に自力で見つけやがるとんでもねェほど運の良い奴もいるが」
あの黒玉がそんな風な代物だったなんて……知らなかった。
……学園に入る前、今や何も聞こえなくなった声たちに案内されて辿り着いて見たのが初めてだった記憶も今では懐かしい。
「ま、とにかくそんな『精霊の道』のみならず、珍しい扉をオレ様は好きに出現させられるってェわけだぜ! ……残念ながらこの姿になっちまいやがったら次に『精霊の道』を出現させるのに要らねェ時間が掛かかっちまって陛下をすぐには追えねェが」
「そうなのですね……ですが、それだけでは何故あれほどあっさり引いてくれたかの理由にはならない気がします」
「――――」
確かに、ミル様が姿を崩すほどに力を使うのを分かっていて、更にすぐに追われることはないと分かっていたからあっさり引いたのだ……と言われれば一瞬納得してしまう、けれど……。
……こんな時でも出来ればはぐらかそう、というミル様の強い意思を感じたために、今度は流されずに確固たる意思で言葉を紡いだ。
――私もあの先に行くのだから、知っておかなければならない。
「……オレ様の創る『精霊の道』の先には必ず神が居る」
「神……」
「……大方、久々に顔でも拝みたくなっちまったんだろうぜ!」
明らかにそれだけではなさそうな言葉の雰囲気に、刺すような視線でどろどろと化したミル様を見つめ続けた。
そんな姿だから誤魔化せると思ったのなら大間違いである。
「……つまり、なんだ。前回の大戦時、オレ様が陛下にあげてた扉を問答無用で勝手に壊しちまったから今まで陛下は安らげる神の御許に戻れなかった。いつまでも神の御許に戻って回復出来ねェもんだから、……年月に比例して徐々に身を削るしかなかった」
「それは……」
「――だから陛下が神の御許に辿り着きゃァ、今まで陛下の力を削りまくった苦労が全て水の泡ってェことで。いずれ完全回復した陛下と再会! ……になるってェわけだ」
「――――」
私のみならず、隣で黙って話を聞いていた彼と少年も沈黙した。
ただでさえ互角とも言えなかったというのに、今まで以上になるなど絶望的な情報でしかなかった。
「目的は……」
「陛下ほど分かりやすいのはいねェと思うぜ。……なんかそれっぽいこと言ってなかったか?」
「…………」
――滅して滅して滅ぼして、絶滅こそ我が役目。
「絶滅……」
「お、しっかり聞いてんじゃねェか」
どろどろのミル様が、なんてことの無いように肯定し――。
「だからまァ、危ない賭けに出たわけだが……陛下があんだけ怒って我を忘れかけてたんだ、……賭けても問題ねェモンだろ、たぶん」
どろどろから問うような視線を感じて、唇を噛んだ。
……ここまで教えてくれたのだから、私も言わなければ。
「実は――ディアスキアの核の一部が私に残って宿っています」
「ぶふぅ……! ――オイオイ陛下の核とか一部でも冗談じゃねェ、んなもん宿らせるとか正気の沙汰じゃねェぞ嬢ちゃん……」
息を噴き出したのか、どろどろがぶくぶくと泡立って私から華麗に距離をとった。
……一体、どういう仕組みで動いているのか。
「全てを持っていかれる直前、抜け殻となる前にある方に助けられ、その際に核の一部が自らディアスキアの隙をついて私に残ってくれたんです」
「……待て。そういや何度か聞き流しちゃいたがァ、陛下が器を喰う作業を断念したり、自分の核の移動に気付かねェくらいの隙が出来る相手なんつーのはどこのどいつだ」
「私のことでしょうね」
「――テメェは!?」
急に聞こえた声と感じた気配に、驚いて身構えた。
……しかし身構えたのは私だけで、他の誰も構えることなく突然現れた白一色の少女へと視線を向けただけだった。
「疑問は解けましたか」
「あァ……いや待て。なんでテメェが嬢ちゃんを助ける。誰の差し金だ」
「うふふ、秘密です」
……秘密? 彼はここにいるのに……。
ちらりと見上げてみたものの、彼が少女へ反応することは特に無い。
「……まァ、いいぜ。で? 陛下の核を宿らせたってだけで、それで何が出来るっつーんだ?」
「私が神と直接話してお願いします」
「――――」
「ディアスキアを説得するようにと」
「……正気かよ、嬢ちゃん」
気のせいではなく、周囲の空気が二段階は冷えた心地になった。
「――面白そうな計画ですね。もしや私の救いの使い道はこれでしたか」
「はい。お力添え頂き、感謝します」
「――――」
私たちだけで理解し合っている会話に、誰も何も言わなかった。
話の内容を理解していないから――もしくは理解して沈黙しているかであった。
「――俺も共に行く」
「えっ! ……わ、私は心強いですけど」
「ああ」
それぞれで何を考えているのか、暫し落ちてしまった沈黙を切り裂いて彼が表明した。
何を考えているのか分からない顔で言われてもと、正直受け入れるべきか迷って曖昧な返事をしたが、しっかり了承ととられてしまった。
「――いいぜ。どのみち陛下が元気になって戻ってこりゃあ全部が詰みだ。……いかに嬢ちゃんの作戦が幼稚でもそれに賭けるしかもはや選択肢はねェ!」
「幼稚……」
これでも必死に考えた末に出した結論なのに……。
「――やり方は分かってんな?」
「はい」
「……ついでだ、近道出来るように途中まではオレ様の使い魔に案内させてやるぜ」
「ありがとうございます、ミル様!」
――いよいよもって覚悟を決めなければならない。
目を閉じて深呼吸、かなりの魔力量をディアスキアに持っていかれ目減りしてしまったが、残った魔力を基に少しづつ少しづつ量を練り上げていく。
「……言い忘れてたが、『精霊の道』の中では時間の概念が曖昧だ。一応オレ様の使い魔がいるとはいえ、万が一にでも道に迷えば一生出られねェから気ィ付けろ」
集中して深呼吸する私の足元で、どろどろしたミル様が最後の忠告とばかりに助言する。
まだまだ魔力量が足りない。もっと練らなければ。
「ま、おかげで近道して陛下より先に神の御許に辿り着ける可能性も高いわけだが……こればっかりは運だぜ」
付け足すように溢された言葉には、ミル様の望みが強く乗っていた。
もう少し、もう少し、練って増やして制御して――。
「オイ、小童。テメェの妹はオレ様が見とくから安心しろ。――が、あんましテメェが遅くなるとオレ様も面倒見るのが怠くなっちまうから出来るだけ早めに済ましてこい」
「ああ、頼んだ」
私がひたすら集中している後ろで、ミル様と彼が簡単に挨拶を交わすのが微かに聞こえた。
そして――ちょうど、練った大量の魔力の制御を整えた。
バリーン。
「――ノヴァッ!」
「シオン!」
何かが割れる音や叫ぶ声に気を取られることなく、私は目を開けた。
――感じる。世界に色付く生命の息吹。精霊の存在を。
「いきます! ――『精霊王、降臨』!」
『こんな真横で喚ばれるだなんて、新鮮な体験ですね』
明るみ始めた夜空から、大量の色とりどりの光が私へ降り注いだ。
精霊王となった白い少女の輝きも降り注ぐ光に比例してどんどん増していく。
この力をそのまま流して――。
「お願い『アウローラ』! 扉を開いて! ――『精霊の道』!」
『その願い、叶えましょう――』
一気に空間を貫いて、ミル様が開いた黒玉に及ばないまでも巨大な黒玉を出現させた。
今の私に出来る精一杯で臨んだが、ミル様と違って精霊王の力があっても制御は私。
いつまでも維持することは出来ない――すぐに入らなければ……!
「さ……さくら、さん……?」
「あ、――」
もう何年も聞いていなかったような錯覚に見舞われ、思わず足を止めかけた。
今すぐ振り返って無事を確認して、彼女のことについてシオン様と話したかった。
けれど――。
「――テメェら早く行きやがれ、すぐ閉じちまうぞ!」
思わず足を止めかけて、ミル様の声に反射的に一歩前に出た。
そのまま振り返らずに前に走って――。
「――私がこの身に変えても必ずシオン様を救ってみせます。必ず!」
決意を告げて、黒玉に真っ直ぐ飛び込んで――。
「だから、――安心して待っていて下さいね、シオン様!」
その言葉を叫んだ最後には既に、手の平ほどに扉が縮んだ後だった。
暫く消えた扉を未練がましく見つめていると、彼の声がした。
「――行くぞ」
「あ、はい」
……ん? あれ? あれれ? 私のほうが先に飛び込んだはずじゃ……?
などと不思議に思いながら、何故か先導するように歩きだした彼に条件反射で付いて行ってしまう。
「ておーいおーい、どこ行ってんのぉお!? そっち違うってぇ!」
絵具を大量に溢したように揺らめく気持ち悪い空間で、私と彼以外の声が響いて思わず身構える。
びく、と肩が震えただけの私と違って、彼はとっくに冷静に声の主を見つけて観察していた。
「なぁ~にカッコつけて……行くぞ、キリッ! とかやってんのぉ。おもいっきし真逆なのにぃ、おもろぉ~い、あははぁ!」
「……誰だ」
「あなたは……」
私と彼の声が重なって、彼が「知り合いか?」と私に視線で問うた。
知り合いも何も……。
「使い魔、なんですか……?」
「そうそう、それねぇ! ミルっちも急に呼びつけるとかぁ、勘弁してよねぇ」
「ミルっち……」
かなり緩い言葉遣いで親し気に話しかけてきた使い魔? に咄嗟に言葉が出て来ずにあまりの衝撃で唖然としてしまった。
ミルっち……。
「ああっ! でもでもぉ、安心してねぇ? ちゃぁ~んと途中までの道案内はするからさぁ。――てことでぇ、ようこそ『精霊の道』へ~」
「あの……」
「ん~……?」
何も緩い言葉遣いだとか、ミル様の呼び方に驚いていただけではない。
……いや、驚きはしたが、それよりもっと驚くべきことがあったのだ。
「魔界と化してるかの『神々の墓場』にはぁ、けっこう歩くよぉ? あ、違う? そのことじゃなぁ~い? ――あ、分かったぁ! ならミルっちが羨ましいんでしょぉ!?」
「いえ……その……」
どうしてそういった結論に達したのか、意味がよく分からなかったためにとりあえず曖昧に微笑んだ。
何と聞けばいいのか言葉に詰まって、思わず視線を合わせられなくて彷徨わせる。
なにせ――。
「んじゃぁサクラのことはぁ、これからクララって呼ぶからさぁ、使い魔なあたしのことはぁ、是非是非ラディちゃん、って呼んでねぇ?」
「ラディ、ちゃん……」
私の目の前には、一度見れば忘れがたいだろう厳つい眼帯をした、――暗紫の髪に、彼と似た赤い瞳を煌めかせた同級生の使い魔? がいた。
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