尾張名古屋の夢をみる

神尾 宥人

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終幕

(二)

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 そして九月、氏勝は妻子を伴って江戸へと発つこととなった。ただし長子の萬寿丸はすでに元服して市正いちのかみ氏政うじまさと名乗り、従兄である正信の麾下となっていたため、そのままひとり名古屋へと向かうこととなった。
 長く過ごした駿府の屋敷を去る際には、お松もさすがに寂しげな顔を見せていた。姉や父とも、また離れて暮らすこととなる。されど「……済まぬな」と声をかけると、かの女性は構いませぬとばかりに首を振る。
「これよりは、家族ともに過ごす機会も増えましょう。楽しみにございます」
 慥かにここ数年は駿府と名古屋を行き来してばかりで、それはそれで寂しい思いをさせてしまっていた。そんな中で氏政のあとも、四男三女の子を産み育ててくれたことは、氏勝としても感謝している。これからはもう少し、子供たちと顔を合わせる機会も増えると良いと思っていた。
「それにしても、なぜかように荷物が多くなったのか。向こうでも要り用のものは用意してあるはずだが……」
「そういうことではないのですよ。やはり、愛着あるものというのは手放せないものなのです」
 とはいえここから江戸まで、荷車四台を引いてゆくのは大変であろう。おかげで古くからの家人の他にも、新たに下人を数名雇わなくてはならなくなった。さらにお亀からも餞別代わりとして、女御衆のうちのひとりが遣わされてきていた。
 氏勝はその女御にそっと歩み寄り、声を落として呼び掛けた。
「生きておったか、藤七。先の戦以来姿を見ぬゆえ、死んだと思っておった」
「あたしも、そう思っていたんですけどねぇ……」
 藤七は妙に色気さえ感じさせる薄笑いを浮かべて答えた。ただし声だけは、いかにも苦々しげだ。
「なぁんで生きているんでしょう。あたしにもわかりゃしません」
「そうか」と、氏勝は心よりの安堵を顔に浮かべた。その表情が珍しかったのか、藤七は素で驚いたように目を瞠る。
「我もそう思っていたときがあったものよ。されど生きているのならば、四の五の言わずにただ生くれば良いのだ」
 それだけで良いのだ。そう繰り返すと、藤七はまた困ったように首を振る。
「まあ色々ありまして、忍びとしてのお役にはもう立てる気はしません。されど、奥方さまのお世話をいたすくらいであれば……」
「わかった。ならば、頼むぞ」
 それを聞き届けると、藤七は静かに離れていった。離れ際に、「それがいちばん、たちが悪いんですけどねぇ……」とだけ言い残して。何のことかと氏勝は一瞬訝ったが、すぐに気にしないことにして荷駄へと戻って行く。
「では、参ろうか」
 そう声を掛けると、お松は嬉しそうに「はい」と答えた。
 

 
 義利を初代とする尾張徳川家は、のちに和歌山城へと封じられた頼宣よりのぶ(頼将)の紀州徳川家、頼房よりふさの水戸徳川家とともに徳川御三家と呼ばれ、二百六十年にわたって幕政を支えることとなる。
 義利は元和七年(一六二一年)、いみな義直よしなおと改めると、領内の灌漑整備や新田開発などもみずから指揮し、石高の増産に努めた。また学問を好み、家康の遺品として受け継いだ「駿河御譲本するがおゆずりぼん」を元に、現代の図書館の原型とも言える「蓬左文庫ほうさぶんこ」を設立したことでも知られている。武に於いても柳生兵庫助利厳に学んで剣を修め、新陰流第四世宗家ともなった。そして齢五十一にてこうじるまでの三十余年の間に、のちの尾張藩の繁栄の礎を築き、厳格にして無私の名君として歴史に名を残している。
 
 
 江戸へ移った氏勝は藩の饗応役きょうおうやくに就き、幕府や諸大名との関係強化に努めた。かの者は宴の席にて、桃山期にすでに絶えて伝承する者がいなかったはずの「享燕きょうえんしき」なる作法を完璧に再現してみせ、衆目を驚かせたとも伝えられている。また名古屋城に将軍秀忠を迎えた際にも歓待を取り仕切り、見事な手際で義直をたいそう喜ばせたとのことだ。
 以後は元和九年(一六二三年)には尾張藩饗応惣奉行そうぶぎょう、寛永六年(一六三〇年)には惣奉行、同十年(一六三三年)に大寄合組頭と歴任し、長きにわたって尾張藩と義直の治世を支え続けた。
 また、こんなこともあったという。
 義直とお春の方の関係は良好であったが、残念なことに子宝には恵まれなかった。そこで世嗣ぎを案じた周囲は側室をとることを進言するが、義直はお春の方の心持ちを慮ってか頑として応じようとしなかった。ついには幕府より土井大炊頭までがやって来て強く勧められ、渋々受け入れた側室との間に男子をもうける。されど義直はよほど不本意であったのか、この子をわが子と認めようとせず、面会しようともしなかった。
 幼子を不憫に思った相応院は、問題の解決に妹のお松を頼った。そして子は江戸へと送られ、氏勝のもとで養育されることとなる。そして二歳になった暁に、江戸へ上った義直に面会させた。義直も氏勝の説諭によってこの子を嫡男と認め、おのが幼名であった五郎太丸の名を送ったという。
 この幼子が、のちの尾張藩二代・光友みつともである。名古屋と江戸に離れたのちも、相応院ことお亀の方が誰より信じ頼ったのは妹のお松であり、氏勝であったということだ。
 されど寛永十九年(一六四二年)、氏勝は病を得て目の光を失い、家督を嫡男の氏政へと譲ってすべての役目を辞す。そして名古屋に戻って隠居し、道智どうちと号した。
 そしてさらに時は流れ、承応二年(一六五四年)十一月。
 

 
 氏勝は暗闇の中を歩いていた。それは両の目をめしいて以来、ずっと変わらぬかの者の日常である。されど今はどういうわけか、壁を手で伝うこともなく、杖に頼ることもなく、ひたすらに真っ直ぐ歩いている。齢とともに衰えた脚も、まるで若き日に戻ったかのように力強かった。
 やがて、前方に光が見えた。見えるはずのない光が見えた。その光の中に、小さな影が浮かび上がる。影はひょいと片手を上げて、こちらへ来いと手招きしていた。
「何をしておる半三郎。早く来ぬか」
 そして声が聞こえた。その声は、慥かに耳に覚えがあるものだった。そしてうっすらと見えてきた面差しも、遠い記憶にあるのと同じ。おのがはじめての主君、内ヶ島孫次郎氏行のものであった。
「若殿……若殿にございますか?」
 されどその姿は、最後に目に焼き付けた十四のときのままだ。それでようやく氏勝も悟った。ああ、これは夢だと。目の光を失い、人間じんかんもいよいよ終わりにさしかかり、最も会いたかった相手の夢を見ているのだと。
 そうとわかっても、氏勝は歩みを止めることはできなかった。徐々に近付いてくる光に向かって、その中で手をこまねいている主に向かって、無心に脚を動かし続ける。
 そしてとうとう、輝くばかりの光の中へと踏み入った。そこはいつか主と並んで立った、名古屋城天守閣の望楼であった。
 されどそこからの眺めは、どういうわけかすっかり様変わりしていた。おそらくは鉄とギヤマンでできたと思われる楼閣が、天を突くばかりに林立している。街道は黒々と塗り固められ、その上をひとりでに走る色とりどりの荷車が連なって進んでいた。空を仰ぐと羽ばたきもしない巨大な鳥が、雲を引きながら横切っていくのが見えた。
「これはいったい……何でござろうか」
「何を申しておる」と、氏行が朗らかに笑う。「名古屋であろう。そなたが築いた都ではないか」
 ではおのれが盲いている間に、城下町はかように発展したというのか。それともこれははるか先。百年、二百年、もっと未来の光景だとでも。
「半三郎は、我との約定を忘れずにいてくれたのだな……嬉しいぞ」
 氏行は眩しげに目を眇めて、こちらを見上げてくる。
「礼を言わねばならぬな。かような形で、あの日の約定を叶えてくれたことを」
 されどその言葉に、氏勝は応えを返すことができなかった。それどころか、つい今しがたまであれほど力強かった両脚から、へなへなと力が抜けてゆく。ついには耐え切れず、その場にあえなく跪いた。
「……若殿」
 氏行はさような様子を、不思議そうに首を傾げた。「どうしたのだ、半三郎?」
 氏勝は顔を上げることができなかった。あれほどもう一度会いたいと願った、おのがはじめての主の顔を、真っすぐに見つめ返すこともできなかった。
「某は、ずっと考えておったのです。殿も若殿も、父も母も……あのときすべてを失って、何ゆえ某は生き残ってしまったのかと。何ゆえ、某ひとりが……」
 それはあの冬の日以来、氏勝がずっと投げ掛け続けてきた問いであった。おのれに向かって。あるいは天に向かって。それでもなお、答えは得られなかった。かように齢を重ねるまで生きても、なお。
「何ゆえ某は……生き続けてしまったのであろうかと」
 若き主はそんな氏勝の姿を見て、ふっと優しげに笑った。そしてそっと手を伸ばすと、ひび割れた頬をそっと撫でる。
「のう半三郎……そなたの人間じんかんは、愉しかったか?」
 その答えははっきりとしていた。されど即座に答えるのは躊躇われた。胸を裂くようなうしろめたさに耐えなければならなかったからだ。それでも、主に向かって偽りを口にすることもできなかった。
「愉しゅうございました……それはもう、目も眩むほどに」
 そう答えたことで、ようやく氏勝は顔を上げることができた。すると目の前の笑顔に、もうひとりの主の若かりし姿が重なって見えた。
「半三郎は幸せにございました……されどその幸せを噛み締めるほどに、うしろめたさも募るのです。もしかしたら某は、間違っているのではないかと……某はあの日、変わり果てた帰雲かえりくもの地を目の当たりにしたとき、あの場で腹を切らねばならなかったのではないかと」
 これまで、決して口にしてはならなかった言葉。言葉にしてはならなかった内心。それがとうとう、乾涸びた喉から漏れ出してしまっていた。
「某はこの都を、まことはあの帰雲の地に築きとうございました……それが、若殿との約定ゆえ。されどその約定、某は果たすことができませなんだ」
 それでもおのれは、生きていて良かったのか。かように老醜を晒すまで、生きてきてしまって良かったのか。それは赦されることであったのか。さような人間に、はたして何かの意味などあったのか。
 頬を撫でる指先は、依然として柔らかかった。そして、「……何を申す」と、穏やかで、されど力強い声が耳に届いた。
「半三郎……よう生きた。よう働いた。そなたは、我らの誇りぞ」
 ああ、やはりこれは夢だ。氏勝は再び思った。そうでなければ、かような言葉が聞けるわけがない。
 そうはわかっていても、氏勝は乾いた目が熱を帯び、どうしようもなく潤んでゆくのを感じずにはいられなかった。まったく、おのれはどこまで都合のいい夢ばかり見るものか。どこまで罪深いのか。わかっていても、喜びに打ち震えずにはいられなかった。
 

 
 山下市正氏政はこと切れた父の面差しを見つめながら、ふっと苦笑いを漏らした。悲しむべきことではない、とわかっていたからである。この人はもう十分に生きた。生きられる限りに生き切った。まさに大往生である。何を嘆くことがあろう。
 悲しみが湧いてこない理由はそれ以上に、何よりその死に顔にあった。見ていると、心から穏やかに受け入れられそうに思えてくる。
「まこと……母上の申されていた通りよ。父上は眠っておられるときのほうが、よっぽど良い顔で笑われる」
「……まったくで」と頷いたのは、弟の氏紹うじつぐであった。その背後にはかの者の子や孫たちも居並んでいる。他にももうひとりの弟である時氏ときうじと、その子らも。どの顔にも、やはり悲しみの色はない。幼子たちはもしかしたら、目の前に横たわる老人は幸せな夢に微睡まどろんでいるだけに思えているのかもしれなかった。
 かくして山下大和守氏勝は、名古屋にて八十六年にも及ぶ長き生涯を閉じた。亡骸は今も、名古屋市内の法華寺に納められている。
 
 
 山下市正氏政はその十年後、私婚姻の咎により改易され、尾張を追われることとなる。されど舅である金森氏に匿われ、山下道安どうあんと名を変え、美濃の下原しもはら旅館(この当時の旅館とは、国境の兵の武具や兵糧を管理する砦のことである)の主として余生を過ごしたという。
 つまり氏勝は、父を殺したのと同じ金森によって、子を救われたということになる。これもまた、歴史の妙というものであろう。
 
~~了~~
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