5 / 48
第一章
(四)
しおりを挟む
前田又次郎利秀は伝右衛門たちの訪いを受けると、伏していた身体を起こして出迎えた。外で何が起きているのかも知っているようで、何もできないおのれを歯痒く思っていたようだ。それで事態を鎮めたいという言葉に目を輝かせ、利家へ拝謁できるよう取り計らうどころか、みずから同行するとまで言い出した。
「されど……殿。お身体のほうはよろしいのですか?」
「何の。おぬしらが命懸けで仲裁に乗り出そうというのだ。主である我ひとりが寝てなどいられるか!」
そうして半刻後、身形を整えて現れた利秀は、顔色こそはあまり良くないものの、それはそれは立派な若武者ぶりであった。その姿を目にして、伝右衛門も十四郎も目頭が熱くなるのを抑えられなかった。
そうして満を持して会所に現れた利秀を見て、利家は訝しげに目を眇めた。膝の上では、指が落ち着かなげに動いている。
「いったい何事だ、又次郎。つまらぬ用ならあとにせい」
「いえ、叔父上。大事な話にございます。お聞きくだされ」
利秀は会所の中央に膝をつくと、張りのある声で続けた。
「申し上げます。此度の騒乱、どうか我にお任せ下さらぬか。ここにいる配下が見事、鎮めて御覧に入れまする」
利家の目が、いっそう険しさを増した。病人風情が何を偉そうに、とその目が言っていた。
「おぬしやおぬしの配下ごときに何ができる。あの者たち、もはやわしの命も耳に届かぬのだぞ?」
「心配ご無用。この者たちには策がありまする」
そう言って、利秀は伝右衛門を振り返った。とはいえ、その策とやらはまだ氏勝から聞かされていない。どう答えた者かと迷い、結局かの者と同じことを口にするしかなかった。
「今はただ、『風を吹かせる』としか申し上げられませぬ。されどどうか、我らが仲裁に乗り出すこと、お許しいただけませぬか」
「風……風、のう」
利家がわずかに表情を和らげ、そう鸚鵡返しにつぶやいた。どうやらその言葉に、何か思うところがあったようだ。もしかしたら氏勝の言う意味が、この大殿には理解できるのかもしれなかった。
「まあよい。やるだけはやってみろ。無理ではあろうがな……」
「有難き幸せにござります」と、利秀は嬉しそうに頭を垂れた。「では、早速……」
されどそう言って立ち上がりかけた主を遮って、伝右衛門は慌てて「……今ひとつ!」と続けた。氏勝からは他にも、頼まれていたことがあった。
「今ひとつ、大殿にお願いしたき儀がございます」
利家が目だけで何だと問うてくる。伝右衛門は気圧されながらも、ひとつ息をついて言った。
「策はあると申しましたが、いささか無茶もせねばならぬかと思います。禁を破ることもあるやもしれませぬ。できましたら此度の仲裁に関わったすべての者のご赦免を、太閤殿下にお口添えいただきますよう、伏してお願い申し上げます」
「……いったい何をするつもりじゃ?」
そう尋ねられても、知らないものは答えようがなかった。伝右衛門は床に額を擦り付けながら、声に出さずにつぶやく。まことに大丈夫なのでござろうな、山下どの?
※
やがて日が沈み、あたりが夜の帳に包まれても、なお騒動は収まらなかった。それでもさすがに悪罵をぶつけ合っていた者たちは疲れたのか、次第に言葉少なになり、無言での睨み合いになっていった。
本多平八郎忠勝は、この推移をむしろまずいと感じていた。この静けさは決して鎮静化ではなく、怒鳴り罵り合うことでどうにか発散していたものを、裡に溜め込みはじめたということだったからだ。静かになったぶん、緊張感はいっそう高まってさえいた。
疲労が却って冷静な判断力を失わせ、当初の目的さえ忘れさせ、ただ腹の底のどす黒い怒りと憎しみだけを膨らませてゆく。その末にはじまる戦ほど凄惨なものになるということを、経験豊かな将たちなら誰もが知っていた。
こうなったらもう、やるしかないか。忠勝はそう腹を決める。どの道、一度はぶつからねば収まらぬのであろう。だったらもうぶつかってしまえばいい。ただしその場合も、あくまで身ひとつで、だ。かの者が諸肌脱いで、槍も持たずに飛び出してきたのは、そうした思惑もあってのことだった。どうしようもなくぶつかることになっても、せめて素手の殴り合いに留めるため。将が裸で殴り合い、掴み合っている以上は、兵たちも刀を抜くことはできまい。
「……小平太」
と、忠勝は傍らの榊原式部康政を呼んだ。言葉は交わさずとも、考えていることはお互いにわかっているはずであった。果たして康政も、無言のまま頷き返してくる。そうして揃って、ゆっくりと兵たちの間に割って入って行った。
そのときだった。ぴいいっという尾を引くような音を立てて、頭上を何かが通り過ぎて行った。鳥ではない。それは古強者なら誰もが聞いたことのある音だ。
「鏑矢……いや、いったい誰が……」
鏑矢とはその名の通り、鏃の代わりに円筒形の鏑と呼ばれる器具を付けて放たれる矢のことだ。空を切り進む際に鋭く高い音を立てるため、かつては合戦開始の合図などに使われていた。されど昨今はもう廃れて久しく、若い兵たちは知らぬであろう。
「不味いわ、糞っ!」
忠勝はそう吐き捨てながら駆け出した。この音を知らぬ者は、ともすればいきなり攻撃を受けたと思うかもしれぬ。張り詰めていた空気が一気に弾け、いよいよぶつかり合いに発展しかねない。
すると続いてがらがらという音とともに、周囲が完全に闇に包まれた。誰かが松明をくべた篝火を引き摺り倒したのだ。そして、叫び声が響き渡った。
「明じゃ、明の大軍が攻めてきたぞ!」
誰もが弾かれたように立ち上がり、海のほうへを目を向けた。その水平線近くに、数えきれないほどの灯がずらりと並んでいた。
小野伝右衛門は闇の中を走りながら、なおも声を張り上げる。篝火をひっくり返したときに燃え移った袖の火は、大きく腕を振って走っていれば自然に消えた。
「大明の船じゃ。とうとう明の兵が攻めて来おった!」
同じようなことを叫び走る、仲間たちの声もよく聞こえていた。それに背中を押されるように、伝右衛門はまた繰り返す。
「敵襲じゃ、敵襲! 明兵が来るぞ!」
明が攻めてくる。それは、兵たちの間でまことしやかに広がりつつある風聞であった。それも朝鮮に渡った小西勢や加藤勢の動勢が、あるときを境にぱったりと伝わってこなくなったためでもある。明の参戦によって膠着状態になった前線からの報は、将たちが兵には伝えずに握り潰されていた。それは士気を保つための配慮であったが、それがむしろ裏目に出てしまっていたというわけだ。
渡海した軍勢は明の反撃に遭って、すでに壊滅しているのではないか。上はそのことを隠して、さらにおのれらを朝鮮へ送り出そうとしているのではないか。そんな疑心暗鬼が、兵たちの間では広がりつつあったのだ。そして明は勢いに乗じて、この日の本にも攻めてくるのではないか。何しろこの地はかつての元寇の折、蒙古軍と激戦を繰り広げた松浦党の旧領である。それもまた、風聞に真実味を与えてしまっていた。
さらに頭上を、また鏑矢が夜を裂いて通り過ぎてゆく。それも鏃の代わりの鏑にいくつも穴をあけて、笛のような音が鳴るように加工された蟇目鏑矢という代物らしい。かような矢音は、伝右衛門も聞いたことがなかった。事前に氏勝から聞かされていなかったら、それこそ異国の未知の兵器とでも思わされていたかもしれない。
さらに暗闇が、人に原初の恐怖を呼び起こす。そして同時にただひとつの光、水平線上に並ぶ篝火に否応なく注目させた。
「明兵が来よるぞ。者ども、迎え討つのじゃ!」
つい先ほどまで不気味な静けさに包まれていた徳川陣前は、まるで沸騰したかのように騒然としていた。しかしそれは、忠勝らが恐れていたような沸き立ちかたではなかった。
「明兵だと。ふざけやがって!」
「来るなら来やがれ。返り討ちにしてくれるわ!」
突然の、それも未知の敵の襲来に、怯えるような者はいなかった。むしろ溜め込んでいた怒りを遠慮なくぶつけられる相手の登場に、歓喜しているようにさえ感じられた。
もちろん忠勝らには大陸の戦況も耳に入っているため、かような風聞に踊らされるようなことはなかった。慥かに渡海勢は苦戦しているが、明の側にも少なからぬ損害を与えている。大国・明といえど、逆に日の本へ攻め込んでくるような余裕はないはずである。ただそこは歴戦の猛者、この大法螺を広めている者たちの意図も即座に理解していた。何者かは知らぬが、面白いことをするものだと。
「ここはひとつ……乗せられてやるかの」
忠勝はそう康政と頷き合うと、兵たちに向き直った。
「明兵の襲来じゃ。急ぎ殿にお伝えせよ!」
すぐそばに控えていた小者が、「ははっ!」と答えて駆け出してゆく。冷静な我らが殿であれば、きっと知らせを聞いて察するであろう。ことさらに大事にすることもあるまい。
「我らはここで、敵先鋒を迎え討つ。隊列組めい、鉄砲隊前へ!」
兵たちの顔が一斉に引き締まり、目の色が変わった。そうして見違えたような機敏な動きで、即座に竹束を並べ、そのうしろに三段構えの列を組んだ。
さらに戰支度をしていなかった者たちは、おのれの具足を身に着けるために陣へと走ってゆく。それは前田方も同じだった。まるで他家の将である忠勝の号令に応えたかのように、急ぎ自陣へと駆け戻っていった。
しかして四半刻も経たぬうちに、具足に身を固めた兵たちは海を見下ろす崖の上に集結していた。その数、徳川勢五千。前田勢三千。前田陣の裏手に出向いていた服部半蔵の手勢も、いつの間にかそれに合流していた。
「鉄砲隊、構えぇっ!」
その下知とともに、千を超える射手が銃口を上げた。そうして海上の篝火に向けて筒先を並べる。されど篝火はまだ遠く、こちらへ向かってくる様子もなかった。
その代わり、一艘の小舟がゆったりと、漂うように近付いてくるのが見えた。舳先には身の丈の倍はありそうな大弓を携えた武者が、ひとり立っている。
千の筒先が、一斉にその小舟へと向けられた。されど武者は怯む気配もなく、悠然と崖上の軍勢を眺め渡している。見ぬ顔じゃが、太々しいものよ。忠勝の口元に笑みが浮かぶ。されどすぐに引き締め、また声を張り上げた。
「何奴じゃ、名乗れいっ!」
「我は前田家中、前田又次郎が家来。小野伝右衛門なり」
穏やかではあるがよく通る声で、船上の武者が答えてくる。その表情までは見えないが、おそらくは不敵に笑っていることであろう。
「さて徳川家の皆々方、我が家中の同輩方よ。余興は愉しんでいただけたであろうか?」
「余興、とな?」
「さよう。あちらに並んでいる火は、ただの魚釣りの小舟よ。ここらの漁師はああやって、夜に松明を焚きながら漁をするとのこと。ご存知であったか?」
それは忠勝もわかっていた。大船が並んでいるにしては、篝火の位置が低い。されどここはまんまと騙された芝居をするべきであろう。
「悪巫山戯にも程があろう。いったいこれは何の真似じゃ?」
「何、家中の者が愉しげなことをしているようであったのでな。ちと、花を添えようと思ったまでよ。愉しんでいただけたのであれば、結構。実に結構!」
船上の武者はそう答えると、舟を漕いでいた背後の男に合図を送った。そちらはいかにも粗末な身形の、見るからに近郷の漁師と見える老人だった。
「では皆々方、また喧嘩をしにでも戻られよ。我はこれまでにて、然らば、然らば!」
小舟はぐるりと小さな円を描き、再び沖へと遠ざかりはじめた。ずっと呆気に取られてはいたが、ようやく我に返ったか、居並んだ兵たちが悪罵の声を上げはじめる。されどそんな声さえ風雅な虫の音とばかりに、悠然と舳先に立ち続けていた。
すると最後にまた弓を構えると、高く中空に向かってそれを射放った。ぴりりりりっ、とこれまでになく派手な音を立てながら、鏑矢が頭上を行き過ぎてゆく。こちらとの距離は二、三町はあろうに。いったいどんな強弓であるか、と忠勝は素直に感嘆する。
そうして再び沖に目を戻すと、松明を海に投げ捨てたのか、小舟は闇に溶けたように見えなくなっていた。忠勝はまた小さく笑うと、兵たちを振り返って言った。
「さて、おぬしらはどうする。戻ってまたつまらぬ喧嘩を続けるか。前田の者どもはどうじゃ?」
その問いに、兵たちは戸惑ったように顔を見合わせた。それは前田勢も同じのようだった。どの顔もすっかり毒気が抜けて、妙にさばさばとした表情に戻っている。まるで悪い夢から醒めたかのように。
「されど……殿。お身体のほうはよろしいのですか?」
「何の。おぬしらが命懸けで仲裁に乗り出そうというのだ。主である我ひとりが寝てなどいられるか!」
そうして半刻後、身形を整えて現れた利秀は、顔色こそはあまり良くないものの、それはそれは立派な若武者ぶりであった。その姿を目にして、伝右衛門も十四郎も目頭が熱くなるのを抑えられなかった。
そうして満を持して会所に現れた利秀を見て、利家は訝しげに目を眇めた。膝の上では、指が落ち着かなげに動いている。
「いったい何事だ、又次郎。つまらぬ用ならあとにせい」
「いえ、叔父上。大事な話にございます。お聞きくだされ」
利秀は会所の中央に膝をつくと、張りのある声で続けた。
「申し上げます。此度の騒乱、どうか我にお任せ下さらぬか。ここにいる配下が見事、鎮めて御覧に入れまする」
利家の目が、いっそう険しさを増した。病人風情が何を偉そうに、とその目が言っていた。
「おぬしやおぬしの配下ごときに何ができる。あの者たち、もはやわしの命も耳に届かぬのだぞ?」
「心配ご無用。この者たちには策がありまする」
そう言って、利秀は伝右衛門を振り返った。とはいえ、その策とやらはまだ氏勝から聞かされていない。どう答えた者かと迷い、結局かの者と同じことを口にするしかなかった。
「今はただ、『風を吹かせる』としか申し上げられませぬ。されどどうか、我らが仲裁に乗り出すこと、お許しいただけませぬか」
「風……風、のう」
利家がわずかに表情を和らげ、そう鸚鵡返しにつぶやいた。どうやらその言葉に、何か思うところがあったようだ。もしかしたら氏勝の言う意味が、この大殿には理解できるのかもしれなかった。
「まあよい。やるだけはやってみろ。無理ではあろうがな……」
「有難き幸せにござります」と、利秀は嬉しそうに頭を垂れた。「では、早速……」
されどそう言って立ち上がりかけた主を遮って、伝右衛門は慌てて「……今ひとつ!」と続けた。氏勝からは他にも、頼まれていたことがあった。
「今ひとつ、大殿にお願いしたき儀がございます」
利家が目だけで何だと問うてくる。伝右衛門は気圧されながらも、ひとつ息をついて言った。
「策はあると申しましたが、いささか無茶もせねばならぬかと思います。禁を破ることもあるやもしれませぬ。できましたら此度の仲裁に関わったすべての者のご赦免を、太閤殿下にお口添えいただきますよう、伏してお願い申し上げます」
「……いったい何をするつもりじゃ?」
そう尋ねられても、知らないものは答えようがなかった。伝右衛門は床に額を擦り付けながら、声に出さずにつぶやく。まことに大丈夫なのでござろうな、山下どの?
※
やがて日が沈み、あたりが夜の帳に包まれても、なお騒動は収まらなかった。それでもさすがに悪罵をぶつけ合っていた者たちは疲れたのか、次第に言葉少なになり、無言での睨み合いになっていった。
本多平八郎忠勝は、この推移をむしろまずいと感じていた。この静けさは決して鎮静化ではなく、怒鳴り罵り合うことでどうにか発散していたものを、裡に溜め込みはじめたということだったからだ。静かになったぶん、緊張感はいっそう高まってさえいた。
疲労が却って冷静な判断力を失わせ、当初の目的さえ忘れさせ、ただ腹の底のどす黒い怒りと憎しみだけを膨らませてゆく。その末にはじまる戦ほど凄惨なものになるということを、経験豊かな将たちなら誰もが知っていた。
こうなったらもう、やるしかないか。忠勝はそう腹を決める。どの道、一度はぶつからねば収まらぬのであろう。だったらもうぶつかってしまえばいい。ただしその場合も、あくまで身ひとつで、だ。かの者が諸肌脱いで、槍も持たずに飛び出してきたのは、そうした思惑もあってのことだった。どうしようもなくぶつかることになっても、せめて素手の殴り合いに留めるため。将が裸で殴り合い、掴み合っている以上は、兵たちも刀を抜くことはできまい。
「……小平太」
と、忠勝は傍らの榊原式部康政を呼んだ。言葉は交わさずとも、考えていることはお互いにわかっているはずであった。果たして康政も、無言のまま頷き返してくる。そうして揃って、ゆっくりと兵たちの間に割って入って行った。
そのときだった。ぴいいっという尾を引くような音を立てて、頭上を何かが通り過ぎて行った。鳥ではない。それは古強者なら誰もが聞いたことのある音だ。
「鏑矢……いや、いったい誰が……」
鏑矢とはその名の通り、鏃の代わりに円筒形の鏑と呼ばれる器具を付けて放たれる矢のことだ。空を切り進む際に鋭く高い音を立てるため、かつては合戦開始の合図などに使われていた。されど昨今はもう廃れて久しく、若い兵たちは知らぬであろう。
「不味いわ、糞っ!」
忠勝はそう吐き捨てながら駆け出した。この音を知らぬ者は、ともすればいきなり攻撃を受けたと思うかもしれぬ。張り詰めていた空気が一気に弾け、いよいよぶつかり合いに発展しかねない。
すると続いてがらがらという音とともに、周囲が完全に闇に包まれた。誰かが松明をくべた篝火を引き摺り倒したのだ。そして、叫び声が響き渡った。
「明じゃ、明の大軍が攻めてきたぞ!」
誰もが弾かれたように立ち上がり、海のほうへを目を向けた。その水平線近くに、数えきれないほどの灯がずらりと並んでいた。
小野伝右衛門は闇の中を走りながら、なおも声を張り上げる。篝火をひっくり返したときに燃え移った袖の火は、大きく腕を振って走っていれば自然に消えた。
「大明の船じゃ。とうとう明の兵が攻めて来おった!」
同じようなことを叫び走る、仲間たちの声もよく聞こえていた。それに背中を押されるように、伝右衛門はまた繰り返す。
「敵襲じゃ、敵襲! 明兵が来るぞ!」
明が攻めてくる。それは、兵たちの間でまことしやかに広がりつつある風聞であった。それも朝鮮に渡った小西勢や加藤勢の動勢が、あるときを境にぱったりと伝わってこなくなったためでもある。明の参戦によって膠着状態になった前線からの報は、将たちが兵には伝えずに握り潰されていた。それは士気を保つための配慮であったが、それがむしろ裏目に出てしまっていたというわけだ。
渡海した軍勢は明の反撃に遭って、すでに壊滅しているのではないか。上はそのことを隠して、さらにおのれらを朝鮮へ送り出そうとしているのではないか。そんな疑心暗鬼が、兵たちの間では広がりつつあったのだ。そして明は勢いに乗じて、この日の本にも攻めてくるのではないか。何しろこの地はかつての元寇の折、蒙古軍と激戦を繰り広げた松浦党の旧領である。それもまた、風聞に真実味を与えてしまっていた。
さらに頭上を、また鏑矢が夜を裂いて通り過ぎてゆく。それも鏃の代わりの鏑にいくつも穴をあけて、笛のような音が鳴るように加工された蟇目鏑矢という代物らしい。かような矢音は、伝右衛門も聞いたことがなかった。事前に氏勝から聞かされていなかったら、それこそ異国の未知の兵器とでも思わされていたかもしれない。
さらに暗闇が、人に原初の恐怖を呼び起こす。そして同時にただひとつの光、水平線上に並ぶ篝火に否応なく注目させた。
「明兵が来よるぞ。者ども、迎え討つのじゃ!」
つい先ほどまで不気味な静けさに包まれていた徳川陣前は、まるで沸騰したかのように騒然としていた。しかしそれは、忠勝らが恐れていたような沸き立ちかたではなかった。
「明兵だと。ふざけやがって!」
「来るなら来やがれ。返り討ちにしてくれるわ!」
突然の、それも未知の敵の襲来に、怯えるような者はいなかった。むしろ溜め込んでいた怒りを遠慮なくぶつけられる相手の登場に、歓喜しているようにさえ感じられた。
もちろん忠勝らには大陸の戦況も耳に入っているため、かような風聞に踊らされるようなことはなかった。慥かに渡海勢は苦戦しているが、明の側にも少なからぬ損害を与えている。大国・明といえど、逆に日の本へ攻め込んでくるような余裕はないはずである。ただそこは歴戦の猛者、この大法螺を広めている者たちの意図も即座に理解していた。何者かは知らぬが、面白いことをするものだと。
「ここはひとつ……乗せられてやるかの」
忠勝はそう康政と頷き合うと、兵たちに向き直った。
「明兵の襲来じゃ。急ぎ殿にお伝えせよ!」
すぐそばに控えていた小者が、「ははっ!」と答えて駆け出してゆく。冷静な我らが殿であれば、きっと知らせを聞いて察するであろう。ことさらに大事にすることもあるまい。
「我らはここで、敵先鋒を迎え討つ。隊列組めい、鉄砲隊前へ!」
兵たちの顔が一斉に引き締まり、目の色が変わった。そうして見違えたような機敏な動きで、即座に竹束を並べ、そのうしろに三段構えの列を組んだ。
さらに戰支度をしていなかった者たちは、おのれの具足を身に着けるために陣へと走ってゆく。それは前田方も同じだった。まるで他家の将である忠勝の号令に応えたかのように、急ぎ自陣へと駆け戻っていった。
しかして四半刻も経たぬうちに、具足に身を固めた兵たちは海を見下ろす崖の上に集結していた。その数、徳川勢五千。前田勢三千。前田陣の裏手に出向いていた服部半蔵の手勢も、いつの間にかそれに合流していた。
「鉄砲隊、構えぇっ!」
その下知とともに、千を超える射手が銃口を上げた。そうして海上の篝火に向けて筒先を並べる。されど篝火はまだ遠く、こちらへ向かってくる様子もなかった。
その代わり、一艘の小舟がゆったりと、漂うように近付いてくるのが見えた。舳先には身の丈の倍はありそうな大弓を携えた武者が、ひとり立っている。
千の筒先が、一斉にその小舟へと向けられた。されど武者は怯む気配もなく、悠然と崖上の軍勢を眺め渡している。見ぬ顔じゃが、太々しいものよ。忠勝の口元に笑みが浮かぶ。されどすぐに引き締め、また声を張り上げた。
「何奴じゃ、名乗れいっ!」
「我は前田家中、前田又次郎が家来。小野伝右衛門なり」
穏やかではあるがよく通る声で、船上の武者が答えてくる。その表情までは見えないが、おそらくは不敵に笑っていることであろう。
「さて徳川家の皆々方、我が家中の同輩方よ。余興は愉しんでいただけたであろうか?」
「余興、とな?」
「さよう。あちらに並んでいる火は、ただの魚釣りの小舟よ。ここらの漁師はああやって、夜に松明を焚きながら漁をするとのこと。ご存知であったか?」
それは忠勝もわかっていた。大船が並んでいるにしては、篝火の位置が低い。されどここはまんまと騙された芝居をするべきであろう。
「悪巫山戯にも程があろう。いったいこれは何の真似じゃ?」
「何、家中の者が愉しげなことをしているようであったのでな。ちと、花を添えようと思ったまでよ。愉しんでいただけたのであれば、結構。実に結構!」
船上の武者はそう答えると、舟を漕いでいた背後の男に合図を送った。そちらはいかにも粗末な身形の、見るからに近郷の漁師と見える老人だった。
「では皆々方、また喧嘩をしにでも戻られよ。我はこれまでにて、然らば、然らば!」
小舟はぐるりと小さな円を描き、再び沖へと遠ざかりはじめた。ずっと呆気に取られてはいたが、ようやく我に返ったか、居並んだ兵たちが悪罵の声を上げはじめる。されどそんな声さえ風雅な虫の音とばかりに、悠然と舳先に立ち続けていた。
すると最後にまた弓を構えると、高く中空に向かってそれを射放った。ぴりりりりっ、とこれまでになく派手な音を立てながら、鏑矢が頭上を行き過ぎてゆく。こちらとの距離は二、三町はあろうに。いったいどんな強弓であるか、と忠勝は素直に感嘆する。
そうして再び沖に目を戻すと、松明を海に投げ捨てたのか、小舟は闇に溶けたように見えなくなっていた。忠勝はまた小さく笑うと、兵たちを振り返って言った。
「さて、おぬしらはどうする。戻ってまたつまらぬ喧嘩を続けるか。前田の者どもはどうじゃ?」
その問いに、兵たちは戸惑ったように顔を見合わせた。それは前田勢も同じのようだった。どの顔もすっかり毒気が抜けて、妙にさばさばとした表情に戻っている。まるで悪い夢から醒めたかのように。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
【おんJ】 彡(゚)(゚)ファッ!?ワイが天下分け目の関ヶ原の戦いに!?
俊也
SF
これまた、かつて私がおーぷん2ちゃんねるに載せ、ご好評頂きました戦国架空戦記SSです。
この他、
「新訳 零戦戦記」
「総統戦記」もよろしくお願いします。
毛利隆元 ~総領の甚六~
秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。
父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。
史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

叛雨に濡れる朝(あした)に
海善紙葉
歴史・時代
敵は信長か?それとも父・家康なのか! 乱世の不条理に敢然と立ち向かえ!夫も子もかえりみず、ひたすらにわが道を突き進むのみ!!!💬
(あらすじ)
○わたし(亀)は、政略結婚で、17歳のとき奥平家に嫁いだ。
その城では、親信長派・反信長派の得体の知れない連中が、ウヨウヨ。そこで出会った正体不明の青年武者を、やがてわたしは愛するように……
○同い年で、幼なじみの大久保彦左衛門が、大陸の明国の前皇帝の二人の皇女が日本へ逃れてきて、この姫を手に入れようと、信長はじめ各地の大名が画策していると告げる。その陰謀の渦の中にわたしは巻き込まれていく……
○ついに信長が、兄・信康(のぶやす)に切腹を命じた……兄を救出すべく、わたしは、ある大胆で奇想天外な計画を思いついて実行した。
そうして、安土城で、単身、織田信長と対決する……
💬魔界転生系ではありません。
✳️どちらかといえば、文芸路線、ジャンルを問わない読書好きの方に、ぜひ、お読みいただけると、作者冥利につきます(⌒0⌒)/~~🤗
(主な登場人物・登場順)
□印は、要チェックです(´∀`*)
□わたし︰家康長女・亀
□徳川信康︰岡崎三郎信康とも。亀の兄。
□奥平信昌(おくだいらのぶまさ)︰亀の夫。
□笹︰亀の侍女頭
□芦名小太郎(あしなこたろう)︰謎の居候。
本多正信(ほんだまさのぶ)︰家康の謀臣
□奥山休賀斎(おくやまきゅうがさい)︰剣客。家康の剣の師。
□大久保忠教(おおくぼただたか)︰通称、彦左衛門。亀と同い年。
服部半蔵(はっとりはんぞう)︰家康配下の伊賀者の棟梁。
□今川氏真(いまがわうじざね)︰今川義元の嫡男。
□詞葉(しよう)︰謎の異国人。父は日本人。芦名水軍で育てられる。
□熊蔵(くまぞう)︰年齢不詳。小柄な岡崎からの密偵。
□芦名兵太郎(あしなへいたろう)︰芦名水軍の首魁。織田信長と敵対してはいるものの、なぜか亀の味方に。別の顔も?
□弥右衛門(やえもん)︰茶屋衆の傭兵。
□茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)︰各地に商店を持ち、徳川の諜報活動を担う。
□佐助︰大人だがこどものような体躯。鞭の名人。
□嘉兵衛(かへい)︰天満屋の番頭。
松永弾正久秀︰稀代の梟雄。
□武藤喜兵衛︰武田信玄の家臣。でも、実は?
足利義昭︰最後の将軍
高山ジュスト右近︰キリシタン武将。
近衛前久(このえさきひさ)︰前の関白
筒井順慶︰大和の武将。
□巣鴨(すがも)︰順慶の密偵。
□あかし︰明国皇女・秀華の侍女
平岩親吉︰家康の盟友。
真田昌幸(さなだまさゆき)︰真田幸村の父。
亀屋栄任︰京都の豪商
五郎兵衛︰茶屋衆の傭兵頭
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる