ふたつの足跡

Anthony-Blue

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9.海風

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 もう、太陽はほぼ真上に位置していた。彼女を海側にして並んで進んでいくと、堤防のカーブがきつくなっている場所に来た。

「ここら辺が、岬の突端なんだろうなぁ。」

「そうみたいですね。わぁ、海がよく見えますね。橘さん、ここで昼ご飯食べましょうよ。もう、お昼過ぎてますよ。」

美加は、そう言って膝のバスケットを堤防の淵に下ろした。バスケットの中から、大きめのランチマットを敷いてその上にカラフルな密閉容器を並べた。

「食べましょうよ。橘さん。」

 手際よく食事の支度がされてゆく光景を、無意識に見つめていた僕に美加は言った。

「はい、お茶。のど渇いてません?」

「ありがとう。」

 差し出されたコップを受け取り、向かい合わせに車椅子を並べた。温かなお茶に口をつけると、食欲はないのだけれど空腹になった体に染み渡った。

「はい、おにぎり。食べてください。」

 小皿に分けてくれたものを美加が渡してくれた。

「梅とおかかしか出来なかったんですけどね。」

 美加は、少し恥ずかしそうに笑った。波が、砂浜を何度も洗うのを見ながら、美加から受け取ったおにぎりを口に運んだ。

「うん。美味しいよ。」

「ホントですか。こんなシチュエーションで食べると、何でも美味しく感じちゃいますよね。」

「海を見ながら、食べるのって特別だけど、おにぎりはホントに美味しいよ。」

「よかったぁ。こんな時間を過ごせるなんて、私幸せです。」

 空を滑るように流れていく遠くの雲を瞳に映して美加は言った。

「大げさだなぁ。」

「女の子は、そういうもんなですよ。」

「そう、君がそんなに喜んでくれるなら、僕もうれしいよ。」

 嘘ではなかった。食欲がなかったのはホントのことだったが、美加と食べるおにぎりは美味しく感じられたし、それを素直に喜んでくれることにもうれしく思えた。体の不可解な不調も、この穏やかな時間の中に身を沈めておけば、さほど苦痛ではなかった。

「橘さん。また、なんか他のこと考えてるでしょう。」

 美加が、僕の顔をのぞき込んで言った。

「そんなことないよ。」

「ううん。橘さんて、近くにいても時々、心だけどこかへ行っちゃう時ありますよね。」

「そうかなぁ。そんなことないと思うんだけど。」

「ありますよ。でも、それって、そばにいる人はさみしくなっちゃいますからやめた方がいいですよ。」

「ごめん。いろいろ考えることあるから。でも、今はこの時間が長く続けばいいって思ってたんだよ。」

 美加は、少し安心したように優しく微笑んで言った。

「悩み事。私じゃなんの解決にもならないかも知れませんが聞いてあげることは出来ますから、もしよかったら言ってください。」

「ありがとう。これからはそうするよ。」

 素直な思いだった。僕の秘密を共有してもらえればどれだけ楽になるか。でも、彼女がそれを知ったときどうするだろう。今まで通りにはいかなくなるだろう。いま過ごしている、この静かに流れる時間がなくなるのならば、秘密は秘密として僕の中に沈めておいた方がよいと思っている。美加を共犯者には出来ない。どうせ、お互いが苦しむだけなのだから。僕にとって、今を生きていくことが大切なのだから。

「ねぇ、橘さん。この卵焼き、私の自信作なんですよ。食べてみてください。」

 美加はそう言って、きれいに焼かれた卵焼きを僕の膝の上にある小皿に乗せた。

「あっ、ああ。」

「今また、抜け殻になってませんでしたか。」

「ん。いや、そんなことないよ。この卵焼き、甘いの?」

「ほら、ごまかしてる。」

「ごまかしてなんかないさ。それより卵焼きは、あんまり甘くない方がいいんだけどなぁ。」

「よかったぁ。うちのお母さんの卵焼き、砂糖いれないんですよ。この卵焼きもお母さん直伝ですから。でも、マヨネーズが入ってます。って、私ごまかされてますよね。」

 美加は、また頬を膨らませて少し怒ったような顔をしたが、すぐに顔を崩して笑顔を僕によこした。僕は、美佳の差し出した卵焼きを一切れつまんで口に入れた。

「うん。おいしいよ。高橋君、料理うまいよなぁ。いいお嫁さんになれるよ。」

「もう、何親父くさいこといってるんですかぁ。でも、うれしいです。そうやって褒めてもらえると。」

「いつも、高橋君は、一生懸命だもんな。」

「私には、それしかありませんから。」

「そんなことないと思うよ。」

「橘さんはまだ本当の私のことなんて、なんにも知らないじゃないですか。」

「今、僕の知っている君で十分だと思うけどな。」

「私は、橘さんのこと、もっともっと知りたいと思っています。」

 いつも、何に対しても素直な表情を見せるのだけれど、今の美佳はどこか違っていた。いつもの笑顔は消えて、今にも何かを叫び出しそうな顔をして海を観ていた。

 少しの沈黙の後、僕たちの間に一陣の風が通り過ぎた。その風と一緒に、密閉容器のふたが僕たちの前から飛んで行ってしまった。「あっ。」

 二人とも同時に声を上げた。密閉容器のふたは、2メートルくらい先の陸地側の堤防の端の方まで飛んでしまった。

「僕が取るよ。」

と言って、動こうとしたら、

「私が取ってきます。」

と、美佳はさっさとそちらへ向かっていった。「そこ、割れ目があるみたいだから気をつけて。」

 僕が、そう言い終わらないうちに、美佳の短い叫び声が聞こえた。

「きゃっ。」

 美佳の声がした方に視線を移すと、堤防の割れ目に車椅子の前輪のキャスターがはまってしまい、バランスを崩して倒れかかっている姿が見えた。一瞬の出来事なのだけれど、まるでコマ送りのビデオを観てるように、倒れていく美佳がそこにいた。僕は無意識に車椅子から立ち上がり、もう少しで堤防に打ちつけてしまいそうだった美佳の肩を両手で抱き留めた。

 筋肉の落ちた僕の両足は、美佳の体重を支えきれず悲鳴を上げてしまい、尻餅をついてしまった。それでも何とか、美佳へのダメージを最小限にとどめたつもりだった。

「大丈夫?ケガはない?」

 倒れてしまった僕の胸の上で、大きく瞳を見開いている美佳に聞いた。

「橘さん、あなた・・・・。」

 言葉を詰まらせた美佳は、僕の腕の中で小さく震えながら言った。主を無くした彼女の車椅子は音を立てて道路側の雑草の中に落ちてしまっていた。

まず、僕はどうするべきか頭の中で考えた。僕の本当の姿を見せてしまった以上、言い訳はできない。まずは、腕の中の美佳を安全な場所に移すべきだと気がついた。

「ごめん。説明は後でするから。」

と言って、左腕を美佳の膝の下に差し込み、ゆっくりと抱え上げた。華奢な体格とはいえ、人一人を抱きかかえたことなんて生まれて初めてのことだった。僕の膝の関節が、歪みを感じているのは確かだった。不安そうに見上げている美佳の目を見れば、こちらもなおさら不安になってしまう。美佳の体重を感じながら、一歩ずつ慎重に進んでいき海側のせり上がった堤防に美佳を静かに下ろした。

「ここに、座っていて。」

 何か言いたそうに唇を開きかけた美佳を置いて、車椅子が落ちた場所をのぞき込んだ。背高泡立草が、群生している堤防と道路の間に車椅子は落ちていた。地面まで2メートルくらいだろうか。先ほどのダッシュと美佳を抱えて歩いたことで、ここから飛び降りるだけの余裕は今の僕にはなかった。少し痛む膝をかばいながら、子供の時の記憶をまさぐった。確か少し先の方に、道路側に降りる階段があったように思い出した。動揺と不安で混乱している美佳に、振り返って僕は言った。

「この先に階段があったと思うから、そこから降りて君の車椅子を取ってくるから少し待っていて。なるべく早く戻ってくるから。」

 美佳の返事を待たずに、僕はゆっくりと歩き出した。こんな姿を人に見られたらどうなるだろう。そんな思いを胸の中で巡らしながらふと気がついた。階段までは、自分の車椅子に乗っていけばよかったと。

「バカだな。」

と、自分だけに聞こえるような声でつぶやいた。秘密の姿を見せてしまったことに混乱してるのは自分だと気がついた。

 永遠に歩き続けるのではないかと思われた時間も、100メートルくらい歩いたところで、今は誰も使わなくなったであろう階段が姿を現し終わりになった。左右に海側に降りる階段と陸側に降りる階段があった。堤防の壁面に手をつきながら、慎重に陸側の階段を降りていった。

「また、ここから折り返しか。」

 ひび割れたアスファルトの上を歩きながら、車も人も来ないことを祈った。左右に足を出すことを意識しなければ、前に進むことが出来ないくらい足が重くなっていた。それでも、何とか雑草の中に埋もれていた美佳の車椅子までたどり着いた。草むらから車椅子を引っ張り出し、損傷がないか確かめたがうまく雑草がクッションになったのか傷らしい傷さえもついていない。心配していた車軸も折れてはいなかった。

「はぁ。」

と、思いっきりため息をついてしまった僕は、疲れがいっぺんに体から吹き出してくるのを感じていた。自分でも体調がいまいちなのはわかっていたが、ここまで歩くのがしんどいとは思ってもみなかった。帰り道の体力を気にしていたら、彼女の車椅子があるのに気がついた。体格に合わせてオーダーされてるとはいえ、僕は、そんなに大柄なわけでもなく、シートにさえ収まれば今の状態で歩くよりはずっとましである。きついとはわかっていたが、なんとかシートに体を納めて、先ほど降りた階段へと向かった。痛みのある膝をかばいながら歩くよりはずいぶん早く階段までたどり着いた。そこから、車椅子を持ち上げ慎重に一段ずつ階段を上がった。

 堤防に上がれば、海が見える。美佳の元にも戻れる。それだけを考えて堤防の階段を登り切った。堤防の上からは、青い海が再び目の前に広がった。堤防の堰堤に沿って視線を移動させていくと小さく美佳の姿が見えた。今までは、振り返りもせずにきたけれど、これからは美佳に向かって近づいていくことになる。さっき、飛び出して美佳を受け止めたときの驚きと戸惑いの表情が僕の脳裏でプレイバックされていく。美佳の前にたどり着いたとき、なんて言ったらよいのだろう。どんな顔をしたらよいのだろう。遠くに見える美佳は、僕が座らせたままの状態でいるみたいだった。あのときはパニクっていたが、僕の車椅子に座らせてあげればと今になって後悔した。堅いコンクリートの上に座っていて大丈夫だろうか。早く帰ってやらないといけない気持ちと、美佳を目の前にしてどうしたらよいのかという感情が交錯する。100メートルの距離は、今の僕にとって長いのだろうか。それとも短いのだろうか。

「帰らないと」

 僕は僕に言い聞かせて、車椅子を進めた。だんだん美佳の姿が、はっきりしてくる。美佳の顔は、こちらを向いている。まだ、表情までは読み取れないが、僕に視線が向けられているのは確かだった。近づくに従って、僕の腕に力がこもった。スピードも少しずつだけどあがっていった。少し大声を出せば届きそうな距離になっても、二人とも何も声を出さなかった。結局、目の前で対峙するまで声は掛け合わないまま戻ってきてしまった。

「ごめん、君の車椅子借りてしまった。」

「よく座れましたね。橘さん、細いんですね。」

 これが、再会して初めて交わした言葉だった。

「ごめん。遅くなってしまって。おしり痛くなっただろか。」

「謝ってばかりですね。橘さん。大丈夫ですよ。海を観てたら飽きないし。でも、心配してたんですよ。大丈夫かなって。あっ、じゃなかった。最初にお礼を言おうと思ってたのに。ありがとうございました。助けてもらって。それに、車椅子まで取りに行ってもらって。」

「いいんだ。そんなこと。」

 僕は美佳の前で車椅子のブレーキをかけて立ち上がった。普段とは位置の違う、僕の顔を見上げた。 

「はい。ちょっと失礼。」

 僕は、美佳の背中と膝の裏に手を入れ抱き上げて車椅子のシートに座らせた。

「すみません。」

と、小さく美佳は言った。

「今度は君が謝ってる。」

「でも・・・・。」

「君が悪いわけじゃない。」

「だけど・・・です。」

「風のせいさ。海風の。」

「そうですね。」

 これ以上言うべきではないと思ったのか、美佳はその言葉でいったん会話を切った。僕は自分の車椅子に腰を下ろした。少し汗ばんで冷たくなったシャツが背中に張り付いた。美佳は、食事の途中だったことを思い出したように、僕のコップに熱いお茶を入れて差し出した。

「はい、のど渇いたんじゃないですか。」

「ああ、そうだね。少し運動もしたし。」

 そう言って彼女から受け取ったコップを口に運んだ。

「じゃあ、おなかもまた減ってしまったですか。まだ、おにぎりありますから食べましょうか。」

 おにぎりの入った密閉容器を手に持って、いつもの笑顔に戻った美佳が言った。僕は美佳からおにぎりを小皿に受け取り、膝の上に置いた。彼女もおにぎりをつまんで口に運んでいる。僕は、胸の中からわき上がる言葉を口にするかどうか迷っていた。しかし、このままでいい訳ではない。

「どうして、聞かないの。」

 僕は、美佳に問いかけた。

「えっ。」

「僕が歩ける・・・・、歩行可能者だってこと。」

 美佳は、一瞬顔を歪めて答えた。

「私だって、聞きたいです。でも、橘さんが言いたくないなら聞かないでおこうと思ったんです。それに、橘さんが歩けたって、橘さんは橘さんですから。橘さんの存在に何の変わりもありませんから。」

 そう言って美佳は、僕をまっすぐに見つめた。その眼差しに彼女の強い意志を感じ取った僕は、やはりまっすぐに向き合わないといけないと思い彼女に言った。

「僕の真実を聞いて欲しい。」

と。
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