ふたつの足跡

Anthony-Blue

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4.記憶の欠片

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 自分が、歩けることを意識したのはいつのことだっただろう。

 両親は、僕の小さな時から諭すように言い続けていた。

「お外に出たら、絶対に車椅子から離れたらだめよ。他のお友達と同じように車椅子に座って遊ぶのよ。」

と。それは、僕の記憶に深くすり込まれたことであり、犯してはならない絶対の約束だった。

 その頃の両親は、まだ病気には感染しておらず、父は開業医であった。母も看護師で自宅でもある病院で二人忙しく働いていた。

 僕が生まれた頃には、もうすでに乳幼児の発病率は2歳で90%に達していた。3歳までの発病率も98%となっていた。

 母は、いつか来る息子の発病に怯えていたそうだ。医療関係者であっても、原因もつかめてない病を恐れ、外から帰ると無意味であっても、服を着替えさせ体を拭いていたそうである。

そうしているうちに、僕はつかまり立ちをするようになり、ついには一歩二歩と歩くようになっていった。母は、僕を抱きしめて時間が止まればいいと祈ったそうだ。2歳になれば検査という選別が待っている。そこで、発病してなければ、経過観察と称して保護施設に入れられてしまう。そのあいだ発病したら、いったん病院に入院をさせられ、両親の元に返される。発病しない子供は、専門の教育機関に送られて従順な人間として社会に送り出される。操り人形のように、与えられた仕事を淡々とこなすだけの人間として。

 僕が、2歳の誕生日を間近に迎えようとしていた頃、父と母は言い争いの日々を送っていたそうである。家の中で、当たり前のように二本の足で歩みを進める僕を見て

「普通なら、健康に成長してくれてることを喜ばなければならないのに、なぜ、悲しまなければいけないの。」

と、母は父に怒りとも悲しみともわからない言葉を浴びせかけた。

「これは、逃れようもない事実なんだよ。この子が、発病して歩けなくなって普通の生活を送れる方がいいのか、発病を免れて歩行可能者として生きていくのがいいのか、私にはわからないし、私たちにはどうしようもないことなんだよ。」

「私は、納得できないわ。あきらめろって言うの?このままだと、この子を手放さなくてはならなくなるのよ。いやだわ。私は絶対にいやだから。」

 二人は、もう何週間もこの話を繰り返していた。母は迫り来る焦燥感の中で、僕を何度もきつく抱きしめた。母親として何とかしてやりたいという気持ちは、日に日に彼女の胸の中で重く広がっていった。

 誕生日まで、あと数日という朝、疲れ切った顔をした母は、最後通告のように父に言った。

「筋弛緩剤を使いましょう。ね。」

「何を言ってるんだ。」

「うちには、筋弛緩剤があるでしょ。それを検査の時に佑一に打つの。」 

「馬鹿なことを言うんじゃない。」

「ここは、病院。私たちは医者と看護師。何でもっと早く気がつかなかったのかと、私おかしくなっちゃって。」

 うっすら笑みさえ浮かべた母は続けた。

「佑一には、かわいそうだけど、仕方ないわ。これで検査官をだませるかもしれないから。」

「もし、検査の時、ばれたらどうなるか、わかっているんだろうな。」

「当然でしょ、私達は警察に捕まり、佑一は即収容所にいかなければならなくなるんでしょ。」

「わかっているんなら、なぜ。」

「私は佑一の母親なのよ。こんな理不尽な理由で、佑一を手放したくはないのよ。あなただって、佑一の父親でしょ。」

 父は、それ以上何も言えなかったそうだ。理性と狂気の狭間にいる母を責める気にはなれなかったとずっと後になって聞いた。

 その日から、父と母は慎重に計画を進めていった。検査の担当者は自治体の指定を受けた医療機関があたることになっていた。その指定病院には父の友人も勤めていて、検査の方法や手順なども大体わかっていた。感染率の急激な上昇に検査の方が、追いつかないといった面も母たちの計画にはプラスに働いた。 2歳になった検査の朝、父と母は淡々と計画通り事を進め、僕を感染者の姿に作り上げた。指定された病院に僕を連れた行った両親は、何の疑いもかけられず検査を終えた。感染して歩けなくなった子供たちに対しては、その方が当たり前になっていたためうまくすり抜けられたのかもしれない。検査の主体は歩行可能者の発見であって、この時点で感染者は珍しい存在ではなくなっていた。その日の検査では、歩行可能者は一人として発見されなかった。

 その日から母は、家の中でも僕を車椅子に乗るように厳しく躾け始めた。自我が目覚め始めた頃、僕は多少なりとも自力で歩こうとしたが母はそれを許さなかった。歩くという行為を閉ざされて、僕の足の筋力も徐々に衰えていった。自分自身、もう歩くという行為に希望も持てなくなり、億劫だという感情さえ芽生えてきた。幼稚園も小学校も、周りは皆車椅子なのだから。その頃は先生たちも自力歩行する人たちの方が珍しく目に映りだしてきていた。

 自分の夢に出てくる僕も、もはや車椅子に乗っていた。それが当たり前で、それがみんなと同じだと言うことを納得せざるを得なかった。

 僕が小学校低学年の頃父が発病し、中学に入った頃、母が発病した。二人は共に一週間程度の入院から家に戻ってきた。少し寂しそうではあったが、みんなと同じ共通項を得たことで、どこか安堵した様子でもあった。

 僕はというと、相変わらず感染・発病の気配すらなく毎日が過ぎていった。しかし、不安とか恐怖という感情は、沸いてはこなかった。たとえ発病したとしても、今の生活が変わるわけでもないし、失われるわけでもなかった。それよりも、学校の友達の間でささやかれ始めていた「ハンター」の噂の方が気になっていた。もし、このまま発病しなければ、この先ずっと追われる恐怖と戦うことになる方が怖かった。

 母親が作ったこの状況を、僕は素直に受け入れられているのであろうか。本来ならここにいるはずのない人間が、ここに存在していることを。
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