不自由と快楽の狭間で

Anthony-Blue

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68.救世主

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 萌がボクを捨てて出て行ってから、何か体から抜け落ちてしまったかのように、無気力な日々を送っていた。ボク自身、ここまで気持ちが落ち込むとは予想していなかった。いや、ボクが捨てられるなんて思っていなかったことのショックなのかもしれない。

 萌からの連絡は、一切来ていない。もちろん、こちらからコンタクトを試みることもしなかった。ボクの意地でもあったのかもしれないし、裏切られたという気持ちが先に立って、これ以上追っかけたくはなかった。

 ボクが何もする気力もない間に、咲恵からのメールは毎日のように届いていた。

「なにかあったのですか?」

「連絡を待ってます」

「元気にしてますか?」

 咲恵が、心配していることは手に取るようにわかっていた。しかし、なんと返事をしていいのか、今のボクには思いつく言葉がなかった。変に取り繕ったことを返しても、それはウソにしかならないと思っていた。

 傷心の日々とは、決して言いたくない時が過ぎていき、週末の夜遅くに玄関のチャイムが、やけに大きくなった。一瞬、萌のことが頭に浮かぶ。

「まさかね」

 重い腕で、車椅子のリングをつかんで玄関のドアを開けた。

「来ちゃった!」

 そこに立っていたのは、黒のパンツスーツにキャリーケースを持った咲恵の姿だった。

「なんで!」

「なんで?」

「どうして!」

「どうして?」

 質問に質問で返す時は、相手の機嫌が良くないときだと聞いたことがある。

「人生初の『来ちゃった』です。一度やってみたかったので」

 咲恵は、片手を腰に。もう一方の手で、ボクを指差しながら、結構辺りに響くような声で言い放った。

「はぁ、いらっしゃいませ」

 咲恵の気迫に押されて、ボクはこれしか言葉が出てこなかった。

「言いたいことや、聞きたいことがたくさんあるのです。部屋に入れて貰っていいですか?」

「ど、どうぞ」

 ボクは、スリッパを咲恵に差し出して部屋に招き入れた。リビングに案内して、イスに座るように勧めようと咲恵の顔を見ると、瞳から溢れんばかりの涙を溜めた顔が近づいて、ボクを両手で抱きしめた。

「生きてて良かった」

「ああ」

「わたし、怒ってるんですからね。わかってますか?」

「はい」

「それだけですか?」

「ごめんなさい」

「許しませんからね」

 そう言うと咲恵は、涙で濡れた頬を重ねて口づけをした。息が止まるほど長い口づけをしてボクの唇を噛んで言った。

「瑞樹さんをこんなに苦しめた『いとこ』という名の女の子は?」

「えっ、何で知ってるの?」

「女の子にウソをつこうと思った時点で負けてるんですよ。瑞樹さんも学習しないといけませんね」

「そうですね。そうします」

 咲恵は、ボクを解放して荷物を手にして言った。

「わたし、コンビニでビールを買ってきたんですよ。今夜は、これを飲みながらたくさん溜まってるお話をしましょうね」

「ちょっと、こわいですね」

「いえ、瑞樹さんをひとりにして遠くに行ってしまったわたしにも責任がありますから。そんなに責めたりしませんよ。わたしも言わなければいけない事もありますしね」

 テーブルに着き、缶ビールの栓を開けてボクの前に置き、自分の分も栓を開けた。

「じゃあ、瑞樹さんとわたしの夜に。乾杯」

「乾杯」

 アルミ缶をぶつける鈍い音に続いて、ゴクゴクとビールを飲み干す音が響いた。
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