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エルヴィス・ヴァロアの物語③
しおりを挟む運命を分ける残酷な時間は、何の前触れもなくやってきた。
いや、おそらく予兆はあったのだ。
ブレットやリーネが上手く隠そうと立ち回り、エルヴィスが気付いたときにはもう、危険は背後に迫っていた。
「いやあああぁぁぁ…!!」
リーネが泣き叫ぶ声が響く。
床にはブレットが倒れていた。腹部を剣で一突きに刺され、真っ赤な血がだらだらと流れている。
「ブレット…!いや、目を開けてっ…!」
「あーあ。暗殺って依頼だったのに…誰だよ物音立てたやつ」
「わり、オモチャが転がってたんだよ。どうせ全員殺るんだし、結果的に暗殺になりゃいいんじゃね?」
ブレットを刺した男の他に、もう二人男がいる。暗闇で目立たないようにするためか、黒い服に身を包んでいた。
エルヴィスは、どこか遠くからこの光景を見ているような気分だった。目の前で起こった出来事が、とても信じられなかった。
夕飯を皆で楽しく食べている途中だった。
物音が聞こえ、様子を見ようと扉を開けたブレットが突然刃に貫かれた。
リーネは泣き叫び、ズカズカと男たちが部屋に入ってくる。子どもたちは何が起こったのか分からず呆然としている。
最初に声を上げたのは、最近孤児院に入って来た少年だった。
「……う、わああぁ!院長!院長っ!!」
エルヴィスが止める間もなく、ブレットの元に駆け寄る。そこへ辿り着く前に、彼の体は血に染まりながら倒れていった。
あまりに呆気なく命を奪われる光景は、夢か幻のようだった。
「きゃああああ!!」
「わああぁぁっ!!」
ようやく事実を飲み込んだ子どもたちは、叫びながら逃げようと走り出す。
部屋の扉は二箇所あった。けれど、あっという間に扉が男たちに塞がれる。
「追いかけるの面倒だから、大人しくしててね~」
恐ろしい笑みを浮かべ、男が素早く剣を振るう。また一人斬られ、倒れた。
未だに椅子から動けないエルヴィスの腕に、震えるトリシアがぎゅうっと抱きついてきた。
その隣で、アーロが顔を真っ青にしている。
「……や、やべぇよエルヴィス…逃げないと…!」
「………」
「なあ、エルヴィス…!」
体中が震えているのが分かった。恐怖よりも、怒りがエルヴィスを支配していた。
また一人男に捕まり、斬りつけられる。エルヴィスはガタッと音を立てて椅子から立ち上がった。
「やめろ!!」
テーブルの上のナイフを掴み、近くの男に飛びかかった。無意識に男の首元を狙ったナイフは避けられたが、代わりに頬に傷を作った。
「いっ……てぇ~。このガキ!」
エルヴィスは首元を掴まれ、体を持ち上げられる。手足を動かして抵抗するが、男の腕はびくともしなかった。
「……………っ、」
「そんなに早く死にたいか?なら……っ!?」
男が突然倒れ、エルヴィスも床に打ち付けられた。
咳き込みながら体を起こすと、リーネが男に体当たりをしていたことが分かった。
涙に濡れた瞳がエルヴィスを捉える。
「逃げなさい!!早くっ!!」
「……この女っ…!」
男がリーネの髪を乱暴に掴んだ。それでも、リーネは真っ直ぐにエルヴィスを見ている。
「―――動きなさい、エルヴィス!!」
エルヴィスは弾けるように立ち上がった。見れば、アーロがトリシアを抱えて窓を開けている。
脱走を止めようとアーロに向かっていく男を目掛け、エルヴィスは近くの花瓶を掴んで投げた。花瓶が直撃し、男がうずくまる。
その隙に、アーロとトリシアが窓から外へ出た。
エルヴィスも床を蹴り、一気に窓へ向かって跳躍する。ガシャンと窓ガラスが割れ、破片がキラキラと飛び散った。
一瞬だけ振り返れば、リーネが崩れ落ちる姿が目に映る。
唇を強く噛みしめながら、エルヴィスは地面に着地するとすぐに走り出した。
「……アーロ!トリシア!」
トリシアを抱えて走るアーロに、エルヴィスはすぐに追いついた。アーロの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
「……何なんだよ…、何なんだよアイツらっ…!」
「……っ、ひとまず森を抜けて逃げよう。森の中なら俺たちの方が知り尽くしてる」
「……ははっ、さすがエルヴィス、こんなときにも冷静で……」
皮肉めいた笑いを漏らしながら、アーロがエルヴィスを見た。けれど、すぐに言葉を止める。
「………そんなわけないよな、悪い」
「………」
冷静でいなければ。逃げなければ。生き残らなければ。
皆の無念な想いを抱えて、走り続けなければ。
そう思いながら、エルヴィスは涙が頬を伝っていくのを止められなかった。
「―――…!まずい、追ってきてる」
背後から迫る気配に、エルヴィスは舌打ちをした。
アーロの顔に緊張が走り、トリシアを強く抱く。トリシアはアーロの胸に顔を埋めていた。
男たちは、“暗殺”という単語を出していた。つまり、その道を専門としている可能性が高い。
そして何より、子どもの足で大人から逃げ切れるわけがないのだ。
「……アーロ、このままトリシアを連れて先に行け」
「はあ!?」
エルヴィスは立ち止まると、常に身につけていた短剣を手に構えた。ロドリックがくれた短剣だ。
―――正直、ロドリックも暗殺者の類だと思っていた。けど、この場にいないということは違うのか…?
あのニヤリと笑う顔を思い出し、ぐっと短剣を握る手に力を込める。
「やめろエルヴィス!戦う気か!?」
「いいから、早く逃げろ」
「お前を置いていけるわけないだろ!」
アーロの正義感が、エルヴィスを置いていくことを許さないようだった。
仕方なくまた一緒に逃げようと踵を返せば、暗闇の中で月の光に反射したナイフが見える。
―――しまった!森の中にも仲間がいたのか…!
「アーロ!!」
叫びながら、エルヴィスは手を伸ばす。
その声に反応したアーロは、背後から現れた男に気付くと、抱いていたトリシアを素早くエルヴィスに向かって投げた。
「―――生きろ、エルヴィス」
そう言って、アーロが笑う。
トリシアを受け止めると同時に、無情にもナイフが振り下ろされた。
鮮血が舞う。エルヴィスはその場に足を縫い付けられたかのように、全く動けなかった。
「……いたぞ!」
「一人仕留めたみたいだ、よくやった!」
続々と男たちが現れ、エルヴィスとトリシアは囲まれた。腕の中で、トリシアは気を失っている。
なんとかトリシアだけは護りたい。そう思っても、エルヴィスは体が震えて動かなかった。
―――動け、動け!生きろと言われただろ!!
トリシアを抱く腕に力を込めたそのとき、男の一人が呻き声を上げた。
「ぐあっ…」
「どうし……がはっ」
立て続けに、別の男が喉元を押さえて倒れる。
エルヴィスが目を見張っていると、目の前に誰かが庇うようにして現れた。
フードを被っているが、その背中で誰だか分かった。名前を呼びたくても、まだ唇が震えて動かない。
「立てよ、エルヴィス」
後ろ手に投げられたのは、とても綺麗な長剣だった。それを見た瞬間、エルヴィスは最後に交わした言葉を思い出す。
―――『……そのうち、長剣を使ってみたい』
―――『へいへい。次来るとき調達してきてやる』
振り返ったロドリックは、ニヤリと変わらない笑みを浮かべた。
「約束は守ったぞ。ほら、戦え!」
ぐっと踏み込んだロドリックが、また別の男に短剣を振るった。それを避け、男が苦々しげに声を荒げる。
「お前っ…!この裏切り者!」
「はん!いたいけな青年を閉じ込めて暴力を振るうヤツらに従うほど、俺は簡単じゃないんでね!」
エルヴィスはそっとトリシアを地面に下ろすと、長剣に手を伸ばした。
ロドリックと戦っている男と、もう一人…アーロの命を奪った男が残っている。
ドクンドクンと、心臓が大きく脈打つ。
エルヴィスは人を斬ったことはない。それでも、今ここを生き延びるために、トリシアを護るために、剣を振るわなければならない。
『―――生きろ、エルヴィス』
最期のアーロの言葉が蘇る。
エルヴィスは剣を強く握りしめ、地面を蹴った。
相手は、子どもだからと油断していたのだろう。瞬時に懐へ近付いてきたことに驚いたのか、僅かに反応が遅れていた。
「あああああぁぁっ!!」
感情の全てをぶつけるように、エルヴィスは大声で叫びながら、ありったけの力で剣を振るった。
斬られた男は、声もなくその場に崩れ落ち、倒れていく。
初めて人を斬った感覚に震えが走り、エルヴィスは膝をつく。
倒れて動かないアーロの虚ろな目が、じっとエルヴィスを見つめているようだった。
―――『いつも言ってるだろ、アーロ。俺の親はブレット院長とリーネさん。それで、俺の兄弟はアーロたちみんな』
エルヴィスの瞳から、静かに涙が零れ落ちた。
まるで空も悲しんでいるかのように、ポツポツと徐々に雨が降り出す。
背後でドサリと音が聞こえ、ロドリックが盛大に舌打ちをした。
「っあー!いってぇ!」
「………」
「そっちは平気だな?さすが俺が仕込んだ男だな」
「………」
一向に動こうとしないエルヴィスの近くまで、ロドリックの足音が近付いてくる。
そのまま腕を引っ張られ、半ば無理やり立たされた。
「おい、エルヴィス」
「………」
「いいのか?このままじゃ風邪ひくぞ、あの子」
あの子、の部分でロドリックが指を差したのは、地面に横たわるトリシアだ。雨足がどんどん強くなっている。
エルヴィスはようやく動き出した。
「…………トリシア…」
ふらふらと近寄り、そっと体を抱き起こす。
温かい体温と、規則的に聞こえる呼吸の音を確かめると、エルヴィスの瞳からまた涙が零れた。
―――生きてる。
トリシアを抱いて立ち上がると、エルヴィスは木陰に移動した。完全に雨を凌げるわけではないが、いくらかマシだ。
そしてようやく、ロドリックに視線を向けた。
腕を斬られたのか出血しており、それ以外にも目立つ傷がいくつかあった。
整った顔も、切り傷や打撲の痕があり痛々しい。
「……ロドリック…」
「そんな顔すんなよ。このケガは全部、俺なりのケジメだ。…もう分かってると思うけど、俺はコイツらの同業者だ。主に暗殺を請け負う、殺人集団だよ」
雨に濡れた前髪の隙間から、ロドリックの瞳が冷たく細められる。
「……俺は、コイツらと同じことをする目的で、お前に近付いたんだ」
「………」
「さ、早く孤児院の方へ戻れ。騎士団に通報しといたから、すぐ助けが来ると思うぜ」
ロドリックがそう言うと、確かに孤児院の方から何か叫んでいるような声が聞こえてきた。
駆けつけた騎士団が、孤児院の中の惨状を見つけたのだろうか。
ただ、エルヴィスはすぐに戻る気にはなれなかった。
アーロの亡骸をこのままにしておくわけにもいかないし、何よりロドリックの態度が気になっていた。
「……ロドリックは、どうするんだ」
「ははっ、俺の心配なんかしなくていーよ。どうせ騎士団に追われる身だ…捕まるまで逃げるつもり。それとも、お前が俺を捕らえるか?」
挑発するように、ロドリックが首を傾げる。エルヴィスは眉を寄せた。
「捕らえる?どうしてだ。俺を助けに来てくれたんだろ」
「違いますー、たまたま知ってる場所に来たらなんか小さいのが襲われてるから、正義の味方ごっこをしてみたくなっただけですー」
「……そうか。ありがとう」
「何でそこでお礼言っちゃう!?」
ふざけているように見えるロドリックだが、経緯がどうであれ、エルヴィスを助けてくれたことには変わりはない。
助けに来てくれたその背中が、どんなに頼もしく思えたか、ロドリックは知らないだろう。
「……行かないでくれ、ロドリック」
「え?騎士団にこのまま捕まれって言ってる?」
「そうじゃ、なくて…」
エルヴィスはもごもごと口ごもる。
また置いていかれたくないだなんて、子どものような我儘を口にすれば、からかわれるに決まっていた。
ロドリックはエルヴィスの前までやってくると、額をピシッと指で叩いた。
「そんな辛気臭い顔すんなって。落ち着いたら、あとで必ず会いに行くから」
「………本当か?」
「信用ないかもしれないけどな…約束する。だからまずお前は、この先の歩む道を決めろ」
額を押さえたエルヴィスは、ぎゅっと唇を結んだ。
孤児院と家族を失ったエルヴィスとトリシアは、この先どうなるのか分からない。
「おっと、誰か来てるな。いいか、まずしっかり休め。心の整理をしろ。話はそれからだからな……っと、その前に」
ロドリックがエルヴィスの頭をわしゃわしゃと撫でる。水滴が顔に飛んできた。
「―――良く戦ったな」
ニッとロドリックが笑う。唇を結んだまま、エルヴィスは静かに涙を流し続けた。
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