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53.恋心

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 エルヴィスがアイラの姿を目にしたのは、偶然だった。

 いつも通り書類仕事を片付け、いくつかの報告事項を国の重鎮たちに告げたあと、団長室へ戻る途中だった。
 密偵のロイから、アイラがクローネと定期的に訓練を行っていると聞いていたため、何となく窓から訓練場へ目を遣った。

 訓練場は三箇所あり、そこにアイラたちがいるかどうかは分からない。
 それでもすぐに、蜂蜜色の髪がエルヴィスの目に入った。


「―――…」


 愛おしい姿をエルヴィスがじっと眺めていると、驚くことにアイラがふと顔を上げ、視線が絡む。
 かと思えば、アイラが急に駆け出したのだ。

 何事かとその姿を目で追えば、アイラが衛兵に話し掛けているのが見えた。
 その指がエルヴィスの方を指しており、ぺこりと頭を下げてまた駆け出す。


 ―――もしかして、こっちへ来るつもりか?


 そう思ったエルヴィスは、団長室とは反対方向へ歩き出す。
 アイラが入った場所からここへ向かうには、おそらく―――…。


 階段の手すりを掴み、ひらりと跳躍する。そのまま段差を飛び越えて着地すると、ちょうど階段を上ろうとしていたアイラが現れた。
 エルヴィスを見て、その目を丸くする。


「エ…エルヴィス団長?」

「俺に用かと思ったんだが、違ったか?」

「違いません。でも…危ないので階段は飛び降りないでください」


 艶のある唇から注意の言葉が出たことで、エルヴィスはフッと笑った。


「……俺に注意してくれる、貴重な存在だな」

「あ…すみません、不敬でしたね」

「どうしてだ?俺を心配してくれたんだろう。アイラになら、何を言われても不敬とは思えないけどな」

「……そ、そうですか…?」


 少し頬を赤らめながら、アイラが視線を逸らす。可愛いな、と思いながらも、エルヴィスは周囲に視線を移した。
 衛兵や使用人から注目を浴びており、あまりここにはいない方がいいと判断する。


「……ところで、任務の件か?それなら、団長室で話を聞こう」

「えっ」


 アイラは驚きの声を漏らしてから、慌てて口を押さえた。
 どうしたのだろうと思ったエルヴィスは、一つの可能性に行き当たる。


 ―――俺と二人になることを、警戒しているのか?この間のような空気になるのが、嫌なのかもしれない…。


 この間のような空気とは、エルヴィスがうっかりアイラにキスしてしまいそうになったときのことだ。
 つい視線がアイラの唇へ向きそうになり、何とか首ごと横へ逸らした。


「も、もし急ぎの要件なら、近くで聞こう。あそこの部屋でいいか?少し狭いかもしれないが」

「は、はい。大丈夫です」


 エルヴィスとアイラの間に、ぎこちない空気が漂う。少しの緊張で強張りながら、近くの部屋へ二人で入った。
 扉を閉めると、座り心地の良さそうなソファへアイラを促す。


「あの、エルヴィス団長。今更ですが…お時間は平気ですか?」

「ああ、大丈夫だ。ちょうど仕事が落ち着きそうだったから、夕方あたりに会いに行こうかと思っていた」


 アイラがソファに腰掛けながら、遠慮がちな視線を向けてくる。
 小さなテーブルを挟んで正面に座りながら、エルヴィスは続けた。


「それで、何があった?それとも、何か思い出したのか?」

「あ、いえ、私の命を狙う人物についてではなくて…」

「ん?」

「……その…、ウェルバー侯爵邸で開かれる、夜会の…件なのですが…」


 アイラの声が、だんだんと小さくなって消えていく。

 ウェルバー侯爵、夜会。聞き取れたその二つの単語から、アイラが何を言いたいのか分かり、エルヴィスは眉を寄せた。


「……ああ。君が自ら、囮役を言い出したと聞いた」

「……はい。それで……あの、フィン副団長とのことで…」

「フィン?」


 フィンの名前が出ただけで、エルヴィスの中で嫉妬の炎が燃え上がった。
 あろうことかフィンは、アイラの恋人役として護衛をすると先日報告してきたのだ。

 その際、呆然としていたエルヴィスをよそに、異母兄弟であり現在のウェルバー侯爵であるバージルと練ったという案を、フィンはペラペラと話していた。
 恋人役ならば、自分でもいいじゃないか。そう言い出したくなる気持ちを抑えるのが、エルヴィスは大変だった。


 そして、フィンとバージルの案は、きちんとアイラの身の安全を考えて練ってあった。
 だからこそ反対はできなかったし、団長であるエルヴィスより、副団長のフィンの方がまだ周囲の反感を買わないということは分かっていた。
 貴族の間では、孤児院出身で騎士団長まで成り上がったエルヴィスの存在は、あまり良く思われていないからだ。

 その点フィンは、整った容姿と陽気な性格から、貴族女性に好かれているのはもちろん、男性からの評判も良い。
 バージルとの情報伝達なども考えると、アイラをそばで護るのはフィンが適役だった。

 ……そう頭では分かっていても、受け入れられるかどうかは別である。


「フィンが…恋人役になるんだったな」

「はい…」

「………」

「………」


 沈黙が流れるが、アイラはどこかそわそわと落ち着きがない。
 エルヴィスには、何かを言おうとして躊躇っているように見えた。


 ―――何だ?まさか、フィンと本当の恋人になりたい、とか言い出すんじゃないだろうな?


 嫌な汗が伝い、手にぐっと力が入った。
 何か言わなければ、と思ったエルヴィスより先に、アイラが口を開く。


「……あ、あくまで、フリですのでっ!」

「…………、ん?」

「ですから、恋人の、フリ、です!」


 声を張り上げて“フリ”の部分を強調するアイラに、エルヴィスの頭に疑問符が並んだ。


「……それは、フィンから聞いているが…」


 わざわざ自分の口から言いたかったのだろうか。遠回しに、恋人は必要ないと言われているのだろうか。
 アイラの言葉の意味を考えていると、瑠璃色の瞳が向けられる。


「……エルヴィス団長は、誤解…していないということで、よろしいですか?」

「誤解?」

「私が、フィン副団長を選んで恋人役にお願いしたとか、本当は恋心があるのではないかとか…」


 エルヴィスはガタンと音を立てて席を立った。


「そうなのか?……フィンが好きなのか?」

「ち、違います!だから、そういう誤解をされていたら嫌だなと…!」

「……ああ。なんだそういう…」


 席へ座り直したエルヴィスは、ふとアイラの言葉に引っ掛かりを覚えた。
 誤解をされていたら、嫌だ。その言葉の真意は、何だろうか。


「………俺に誤解をされたら、嫌なのか?」


 駆け引きだとか、そういったものはエルヴィスには向かない。
 まともな恋愛をしたことはなく、アイラが初めての恋をした相手だった。

 なので、真正面から疑問を投げかける。


「………っ、」


 アイラの顔が真っ赤になる。それだけで答えが分かったが、エルヴィスは言葉で聞きたかった。


「……アイラ?」

「………はい」


 名前を呼べば、アイラは小さく囁くような声を出して頷いた。


「エルヴィス団長には…私に誰か想い人がいるのではないかと、誤解されたくありません…」


 エルヴィスの心臓が、どくんと跳ねた。
 目の前に座るアイラの腕を引き寄せ、抱きしめたくなる衝動に駆られる。
 行動に移していいものか迷っているうちに、アイラが勢いよく立ち上がった。


「……お、お話はそれだけです!失礼しますっ!」

「は?おい、ちょっ…」


 ぺこりと頭を下げ、扉へ向かうまでのアイラの動きは素早かった。
 扉が開けられる寸前のところで、エルヴィスはアイラを後ろから抱きしめる。

 腕の中にすっぽりと収まった小さな体が、ぎくりと強張った。


「………」

「……アイラ」

「………」


 反応は無いが、嫌がられてはいない…とエルヴィスは判断する。


「……教えてくれ。どうして、俺に誤解されるのが嫌なんだ?」


 アイラの耳元で囁くように訊けば、ぴくっと体が動いた。
 蜂蜜色の髪から漂う甘い香りに誘われるように、エルヴィスは鼻を寄せる。


「……んっ」


 部屋に響いた艶のある声に、エルヴィスは固まった。すぐに心臓がバクバクと激しく動き出す。


 ―――待て待て。これはダメだ。このままだとヤバい。このままだと俺が―――…。


「―――もう、無理ですっ!!!」


 アイラがそう叫びながら勢いよく頭を振り、エルヴィスの額にぶつかった。
 ゴツン、と音が鳴り、痛みからエルヴィスの腕が緩む。その隙にアイラは抜け出していた。

 アイラは顔を真っ赤にし、瞳を潤ませながら、睨むようにエルヴィスを見る。
 そして、震える唇で訴えた。


「……エ、エルヴィス団長は何とも思わずやっているのでしょうけど…!わ、私は慣れていないので!無理です!」

「アイ…」

「このままだと、し、心臓が破裂しますっ!これ以上、ドキドキさせないでください!失礼しますっ!!」


 一方的にそう告げると、アイラは逃げるように部屋から出て行った。
 その場に取り残されたエルヴィスは、額に手を当てたまま立ち尽くす。

 しばらくして、口から笑い声が漏れた。


「………っく、くく…!」


 アイラの捨て台詞を思い出し、エルヴィスは笑いが止まらなかった。


 ―――俺も無理だよ、アイラ。君が可愛すぎて、愛しくて…君の全てが、欲しくてたまらない。


 際限なく募る想いは、いつか抑えきれずに口から零れてしまうだろう。
 それでも構わないと、エルヴィスは思う。

 真っ赤に染まったアイラの顔を思い出しながら、エルヴィスは上機嫌で部屋をあとにした。





***


 ―――バタン!と勢いよく扉が閉まる。


「……アイラ?」


 その音に驚いたのか、目を丸くしてカレンがアイラを見た。
 髪を洗ったのか、濡れた頭にタオルを被っている。


「おかえり…って言いたいところだけど、どうしたの?何かあったの?」

「……カレン…、私は今、どんな顔をしている…?」


 アイラが一歩も動かずにそう訊ねると、カレンは首を傾げた。


「そうね。頬は赤いし、瞳は潤んでるわね。何だか色気もある。……例えて言うなら、情事のあとみたいな…」

「ひゃああああああぁぁぁ!」


 カレンの言葉を遮って、アイラは叫びながらしゃがみ込む。その反応に、カレンが瞬きを繰り返した。


「……え?アイラ、まさかなの?」

「ち、違うわ!違うけどっ…!」


 アイラは両手で顔を覆いながら、つい先程の状況を思い出して、また「ああぁ…」と声を漏らした。


 ―――は、恥ずかしい。エルヴィス団長に耳元で囁かれて、髪に顔を寄せられて、くすぐったかったとはいえあんな声を…!


 思わず逃げるように帰ってきてしまい、去り際に自分が何を言ったかあまり覚えていない。
 考えれば考えるほど、アイラは顔から火が出そうになった。

 ポン、と肩を叩かれ、顔を上げれば笑顔のカレンが目の前にいた。


「詳しく聞かせなさい?」

「………はい…」


 迫力のある美人の笑顔に、アイラは頷くしかなかった。カレンに腕を引かれ、よろよろと立ち上がり、椅子へ座る。
 隣に椅子を並べ、カレンが「それで?」と言った。


「どうしてそんな顔してるの?」

「え…ええと……」

「聞き方を変えようかしら。誰に、そんな顔にさせられたの?」

「…………っ」


 アイラは全身が熱を帯びたように感じ、椅子の上で膝を抱えて身を縮めた。


「……だ、誰かは言えないわ…」

「あら、ケチね。じゃあ、どうして、の部分は言えるのかしら?というか、言うまで寝かせないわよ」


 脅すようにそう言われ、アイラはごくりと喉を鳴らす。意を決して口を開いた。


「だ……」

「だ?」

「抱きしめ、られたの……」


 ちらりと隣を見れば、カレンがそれだけ?と言うような顔をしている。アイラは慌てて付け足した。


「そ、それで耳元で囁かれて!髪に顔を寄せられて!……く、くすぐったくて変な声出しちゃって…!」


 言葉にすれば、ますます恥ずかしくて仕方がない。叫びたくなるのを抑えていると、カレンがふっと微笑んだ。


「アイラ……あなた、とっても純粋なのね…」

「へっ!?」

「その反応、心が洗われる気分だわ…それだけで顔を真っ赤にするだなんて、あたしにも昔あったなぁ…」

「む、昔!?」


 どこか遠くを見るカレンの目は、懐かしんでいるようだった。アイラはその言葉に愕然としている。


「これは…そんなに騒ぐことじゃないの?」

「そうねぇ。誰かと恋人になればキスだって、それ以上だってするでしょ?抱きしめられるのは序の口っていうか…」

「……キス…」


 アイラは、以前団長室でエルヴィスの顔が近付いて来たことを思い出した。やはりあれは、キスをされそうになったのだろうか。

 無意識に唇を触っているアイラを見て、カレンがニヤニヤと笑みを浮かべている。


「……それにしても、まさかアイラにそんな相手がいたなんてね。アイラに惚れてる男たちは泣くわね~」

「そんな相手、って…恋人とかじゃないわよ?」

「ええ?そうなの?……でも、少なくとも相手はアイラのこと好きよね」

「すっ…、」


 アイラは言葉を失った。カレンが不思議そうにしている。


 ―――エルヴィス団長が?私を??


 熱の籠もった紅蓮の瞳を思い出し、アイラの心臓がドキッと高鳴る。
 同時に、今まで疑問に思っていたことを考えた。


 どうして、見つめられるだけで心臓が跳ねるのか。
 どうして、触れられたところが熱を帯びるのか。
 どうして、他の女性との関係が気になるのか。

 ……どうして、名前を呼ばれると胸がきゅっと苦しくなるのか。


 ―――違う。エルヴィス団長が私を好きなのではなくて、私……私が、エルヴィス団長のことを…。


「……好きなんだわ」


 それは、アイラが恋心を自覚した瞬間だった。

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