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24.フィン・ディアスの物語①
しおりを挟む一騒動あったウェルバー侯爵家の夜会から、一夜明けた日の朝。
フィンは、バージルが用意してくれた客室のベッドの上で目を覚ました。
寝ぼけたまま起き上がり、自然と身支度を整えながら、そういえば泊まるのは初めてだな、とぼんやりした頭で思った。
今まで、バージルと話し込んで夜が更けても、絶対にこの邸宅には泊まらなかった。
近くの安い宿で寝泊まりしたり、親切な女性の提案に乗って部屋に泊まらせてもらうこともあった。
それは、あの男…フィンの父親であり、バージルの父親でもあるウェルバー侯爵と、同じ屋根の下にいたくなかったからだ。
けれど昨日は、いつも断られると分かっていながらも訊いてくれる「今日は泊まっていくか?」というバージルの言葉に、軽く頷いてしまった。
任務を終えたことへの達成感からだろうか。昨日はやけに、フィンは気分が良かったのだ。
持ち込んでいた私服に着替え、フィンは部屋を出た。
昨日と今日は騎士団の仕事は休みを取っている。何かあるといけないので、事情は団長であるエルヴィスに伝えてあった。
そして昨日のうちに、無事に任務を終えたことを手紙で報告していた。
バージルの部屋に向かいながら、昨夜の出来事を思い出す。
ドレスを着た少女が、華麗に敵を倒す様子が鮮明に脳裏に浮かび、フィンは自然と口角が上がっていた。
―――あれは本当に、綺麗だったな。
月夜に映える、蜂蜜色の髪。動く度にふわりと広がる緋色のドレス。
その時は思わず目を奪われ、ぞくりと体に震えが走ったものだ。
バージルの部屋の扉を、ノックすると同時に開けて足を踏み入れる。
最初、弟子であり部下でもあるアイラのことを考えていたせいで、フィンは幻覚でも見えたのかと思った。
バージルの部屋にいた少女は、蜂蜜色の髪を一つに結わえ、軽装に身を包んでいた。
振り返り、その瑠璃色の大きな瞳がフィンに向けられる。
「おはようございます、フィンさま」
「……アイラ??」
思わず声が上擦り、フィンはその場に固まった。
アイラも今日は休みを取っていることは知っていたが、朝から城へ戻るものだと思っていたのだ。
まさかバージルの部屋にいるとは、予想外だった。
アイラと向かい合うようにソファに座っているバージルに、ハッとして視線を投げる。
「え、ちょっと待って。まさかアイラ、こっそりバージルの部屋に泊まって…?」
「そんなわけないだろ、アホか」
バージルにすぐさま否定され、フィンはホッとひと息吐く。アイラは苦笑していた。
「城へ戻る前に、もう一度バージルさまにご挨拶をしたいと思いまして」
「バージルに?俺には?」
「おい、面倒くさい男になってるぞ」
呆れたようにバージルがフィンを見る。フィンにとって、バージルの鋭いツッコミは心地が良いものだ。
フィンは足を進め、アイラの隣に腰掛ける。ふわりと甘い香りが漂ってきた。
「で、何を話してたの?」
「昔話ですよ。子どもの頃、お茶会でバージルさまと初めてお会いしたときのことです」
「それは…とても面白そうな話だね?」
ニヤリと笑ったフィンに、バージルは苦い顔をした。
「別に、面白くも何とも無い。俺が荒れてた頃だから、彼女には酷いことを言った」
「ふむ。酷いこと」
「………言わせる気か?」
じろりと睨まれても、フィンは笑って頷く。隣のアイラがくすくすと笑い声を漏らした。
「不細工が派手に着飾ったところで見苦しいだけだ、と言われました」
「バージル………」
それはあんまりだ、とフィンが眉を寄せて見ると、バージルは両手を挙げる。
「だから、あの男のせいで荒れてた時の八つ当たりだ。もう謝った」
「その場で?」
フィンの指摘に、バージルは口をもごもごさせながら「………今だ」と小さく答えた。
それを聞いて、思わず大きなため息が出てしまう。
「……アイラ、俺からも謝るよ。幼い君を、兄が傷つけてごめんね」
「いいえ、大丈夫です。バージルさまのお話を聞けましたし、今ならバージルさまのお人柄も分かりますから」
楽しそうに微笑んだアイラを見て、やはり綺麗だな、とフィンは思う。
身につける服がドレスで無くとも、彼女を纏う空気は輝いて見える。
「バージル。お前はアイラみたいな子を嫁に貰うといいよ」
フィンがそう言うと、バージルの瞳の奥が愉しそうに光った。
「へえ。じゃあ、本当に彼女を貰おうか」
「……えっ」
「アイラはダメ」
するりと否定の言葉が出て、フィンは自分で驚いていた。
そんなフィンと、口の端を上げているバージルをアイラが交互に見ている。
「……あの、私はまだ結婚とかは…」
「いや、何ていうかごめん。冗談だし、バージルも本気で言ってないから」
フィンは額に手を当て、頭を横に振った。いつもの自分らしくない気がして、落ち着かない。
そんなフィンを見ていたバージルは、くっと声を出して笑った。
「いいものを見たな。……さて、俺は昨日の後始末が山程残ってるから、お前たちは下がってくれ」
立ち上がったバージルにつられるようにして、アイラも立ち上がる。
「貴重なお時間をありがとうございました、バージルさま」
「こちらこそ、色々と世話になったな。…今後タルコット男爵家に何かあったら、力になろう」
「……!ありがとうございます」
嬉しそうにアイラが頭を下げ、未だに座ったままのフィンを見た。
「フィンさま、行きましょう」
「あ、ああ…うん。そうだね、またあとで、バージル」
バージルは返事の代わりに、手で追い払うような仕草を取った。
フィンは部屋から出ると、ちらりとアイラを見遣る。
「俺は今日の午後にここを発つ予定だけど…アイラは?」
「私は一度邸宅に戻ってから、お昼前には出発するつもりです」
「そっか。ところで…今日の君は俺のことをさま付けで呼んでるけど」
「はい。今日はお互いに非番で私服ですし、上司と部下ではなく、師匠と弟子のつもりでいました」
笑ってそう答えたアイラは、ハッとして口元に手を添えた。
「……嫌でしたか?」
「いや、そういう変なとこで真面目なアイラも、俺は好きだよ」
自然と口に出た言葉に、またフィンは不思議な気分になる。
好きだなんて、女性を褒めるときに良く使う言葉だ。それなのに、アイラに使うと何故か心に引っかかる。
それがどうしてなのか、無償に知りたくなった。
「アイラ。このあと少し時間ある?」
「?はい、大丈夫です」
「……俺の昔話を、聞いてくれるかな」
***
フィン・ディアス。
ディアスは母親の性だ。それを名乗っていたのは、父親との関係を隠すためだった。
物心ついたとき、フィンはよく母親に質問していた。
「ねえ母さん。父さんはどこにいるの?」
「ふふ、父さんはね、どこか遠いところで元気に暮らしているわ」
「どうして一緒に暮らさないの?」
この問いには、母親はいつも目を細めて微笑むだけだった。
母親は、踊り子だった。
夜は酒場にある小さな舞台で踊り、その整った容姿から客に持て囃されていた。
フィンはいつも酒場の片隅で、そんな母親を見ていた。
母親から受け継いだ銀髪と、真珠色の瞳。物珍しさから、大人の女性が群がってきては、フィンにいろいろな知識を授けていく。
そのうちに、フィンは女性の扱いが上手くなった。
褒め言葉や甘い言葉を贈り、笑顔を振りまけば、食べ物などを恵んでもらえた。
ただの九歳の子どもに、毎晩のように女性たちは群がった。
そしてある日の夜、フィンは突然男に殴られた。
「………っ、」
「おい、あんまり調子に乗るなよ!」
ガタン、と大きな音を立て、フィンの小さな体が床に転がる。椅子にぶつかった背中が痛んだ。
周囲からは悲鳴が上がり、舞台で踊っていた母親がすぐに駆け寄って来た。
「……お止めください!」
フィンの前に庇うように立つ母親を、男がじろりと睨めつける。
「母親も子どももろくでもねぇな。男と女に媚び売ってよ。どうせ父親だって、どこの誰だか分かんねぇんだろ?」
あざ笑うようにそう言い、男は近くの椅子を蹴飛ばしながら酒場から出て行った。
すぐに、周囲の人間たちがわらわらと集まってくる。
「気にすることないよ、あんなやつの言うことなんて」
「そうだそうだ。あいつは妻に何股もかけられて捨てられたばかりだから、気が立ってるのさ」
「貴女には、いつも綺麗な踊りで楽しませてもらっているわ」
「フィンくんも良い子だしねぇ」
本心からの言葉なのか、建前の言葉なのか、フィンには判断がつかなかった。
それよりも、やけに傷付いた顔の母親が気になって仕方がなかったのだ。
酒場の近くで借りている安い家に帰ると、フィンはまだ気落ちしている母親を見た。
「ねえ、母さん」
「……ん?どうしたのフィン。ああ、さっきぶつけたところはどう?痛むかしら?」
「そこは大丈夫。そうじゃなくて…」
一瞬、フィンは訊くのをためらった。
それでも違和感の正体を知りたい気持ちが勝ち、口を開く。
「……父さんって、誰だか分からないの?」
フィンの言葉に、母親の顔が真っ青になる。
「……っ、分かるわ!」
「じゃあ、ろくでもない男なの?」
「………そうね。ろくでもないのは、私も一緒よ…」
そう言った母親は、悲しそうに微笑んだ。フィンに「おいで」と手招きすると、そっと抱きしめる。
「いつまでも本当のことを隠すのはダメね。フィン、母さんの話を聞いてくれる?」
絵本を読み聞かせるように、母親は静かに話し始めた。
踊り子だった母親は、とある酒場で毎晩踊って客を楽しませていた。
ある日、その中の一人の客に声を掛けられる。それが、父親となる人物だった。
男は、毎晩のように酒場を訪れ、母親が踊りを終えると話し掛けてきた。
その巧みな話術に惹かれ、母親は徐々に男にのめり込んでいく。
気付けば関係を持ち、フィンを授かっていた。
母親は喜び、その晩に男に打ち明けようとした。
けれど、たまたま街で見かけた男の隣には女性が寄り添って腕を組み、その腹が膨らんでいるのが目に入った。
母親は衝撃を受け、すぐにその場から立ち去り、その晩酒場には行かなかった。
母親は、住む家を男に教えていなかった。
男はその身なりから貴族だと推測できたため、平民の小汚い家に招くことは失礼だと思ったからだ。
母親はそのとき、家を教えなくて良かったと心から思った。
どうして気付かなかったのだろうと、母親は自分を責めた。
けれど、街中で見た男の隣を歩く女性の幸せそうな顔を思い出すと、途端に嫉妬に狂いそうになる。
このままでは自分がダメになると思った母親は、仕事を辞め、街を離れた。
そして今のこの街でフィンを産み、仕事を探し、また踊り子を続けながらフィンを育て、現在に至るという。
静かに語り終えた母親の話を聞いて、フィンは急激に父親に対する気持ちが冷めていくのを感じた。
母親はろくでもなくなんかない。ろくでもないのは、間違いなく父親のその男だ。
「……もういいよ、母さん。もう、父さんのことは二度と話さなくていいから」
「フィン…ごめんなさい」
「どうして母さんが謝るの?大丈夫、俺がその男の代わりに母さんを守るから」
それからフィンは、踊り子として働く母親の盾となり、剣となった。
近付いてくる男は口で言い負かし、利用できそうな女性に近付いては恩恵を得ていた。
裕福ではないが、それなりの毎日を過ごしていたある日、母親が急に倒れた。
それは、そのとき街で流行していた病だった。
新種の病で、効く薬はまだ見つかっていない。
女性がかかりやすく、体が重くなり徐々に衰弱していき、やがて動けなくなる。そのまま眠るように亡くなる病だった。
家の簡素なベッドの上に横たわる母親を、フィンは感情の無い目で見ていた。
「………」
「フィン……ごめんね、最期まであなたに迷惑をかけて…大好きよ…」
「………俺も、大好きだよ…」
真珠色の瞳から、一粒の涙が零れ落ちる。
それでもフィンは、決して泣き叫ぶことはせず、静かに涙を流し続けた。
フィンが、十二を迎えた頃だった。
それから、フィンは母親が働いていた酒場で雇ってもらうこととなった。
女性客からは評判が良かった。それを利用して、毎晩違う女性の家に泊まった。
それでも、母親を失ったことで胸にぽっかりと空いた穴は、なかなか塞がらない。
満たされないまま、三年が経っていた。
「フィンのお母さんて、人気の踊り子だったんでしょ?じゃあ、お父さんて何してる人なの?」
それは、妙に甘ったるい声を出す女性の言葉だった。
いつものように酒場で働いていたフィンは、ピクリと手を止める。
「……さあ、俺は父親の記憶がないからね。どっかの偉い人みたいだけど」
「へえ~!じゃあ探して見つければ、援助とかしてもらえるんじゃない?」
父親に会ってみたいと思ったことは、母親の過去を知ってから一度も無かった。
けれど、ふと思った。そういえば母親は、腹の大きい女性と歩く父親を見たと言っていた。
―――俺には、母親の違う兄弟がいる。
フィンの中で、ゆらりと期待の波が押し寄せてきた。
その性別も顔も分からない兄弟に会えば、自分は満たされるのではないかと、そう思ったのだ。
早速フィンは仕事を辞めた。
理由を話せば、酒場の店主は母親が以前いた街の名前を教えてくれた。
行商の馬車に運良く乗せてもらい、街へ向かう。長い道のりを越えれば、次は母親の働いていた酒場探しだった。
片っ端から酒場を訪れれば、すぐにそこは見つかった。
母親と同じ髪と瞳の色に気付き、声を掛けてきた店主がいたのだ。
「おやまぁ…あんた、シルファの子どもかい?」
シルファというのは、母親の名だった。
酒場の女店主に事情を話せば、すぐに思い当たる人物を教えてくれる。
「あの子を熱心に口説いてたのはね、この街で一番大きい家に住んでいる、ウェルバー侯爵家の当主さ」
「ウェルバー、侯爵…」
父親の思いもよらぬ地位に、フィンはごくりと喉を鳴らした。
邸宅の場所を聞き、店主に口止めをした上ですぐに向かおうとすると、背中に声が届く。
「おいあんた、シルファによろしくね!」
フィンは返事をせず、にこりと笑って酒場を出た。
ウェルバー侯爵家の近くで、フィンは悩んでいた。
勢いでここまで来たものの、中へ入る方法が見つからない。
侯爵の息子だと名乗り出たところで信じてもらえないだろうし、何なら侯爵はその事実を隠したいだろう。
ならば、こっそり忍び込むしかないのだが、邸宅はぐるりと大きな塀に囲まれており、入口には門番が立っている。
悩んでいるうちに、日が暮れてしまった。フィンは覚悟を決め、塀を乗り越えることにした。
塀の周りに生えている、一番大きな木をなんとか登り、塀を飛び越えると、敷地内の木に飛び移った。
そのままできるだけ静かに地面に降り、生け垣に身を隠す。心臓はドクドクとうるさかった。
このまま日が昇るまで、どこかに身を隠そうかと考えていたところで、小さな物音が響く。
フィンは片手で口を押さえ、そっと物音の方を覗き込んだ。
そこには、ベンチに座って本を読む少年がいた。
小さなランプを片手に持ち、もう片方の手でページをめくっている。
栗色の髪に、焦げ茶の瞳。鋭くつり上がったその目は、真剣に本に向けられている。
ウェルバー侯爵家は、息子が一人。
酒場を出てからここに辿り着くまでに得た情報だ。
―――あの子が、俺の兄弟…?
早鐘を打つ心臓が、フィンの体を突き動かした。
気付けば、生け垣から姿を現し、少年に向かって歩いていた。
「……誰だ?」
足音に気付いた少年は、本を閉じると鋭い視線をフィンへ向ける。
向かい合い、少し離れた位置で足を止めたフィンは、情けない顔で笑った。
「俺は…フィン。フィン・ディアス。君の、異母兄弟だ」
目の前の似ても似つかない容姿の少年は、驚きで目を見開いていた。
これがフィンとバージルの、最初の出会いだった。
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