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13.魔術学校の記憶
しおりを挟む蘇るのは、魔術学校に入学して二年目の記憶だった。
アイラの周りが、少しずつおかしくなっていた頃だ。
友人と一緒に次の授業へ移動している途中、アイラは突然足を引っ掛けられて転んだ。
手に持っていた教科書が、バサッと広がって落ちる。
「いっ…た…」
「アイラ!大丈夫!?」
友人が慌てて駆け寄ってきて、アイラを抱き起こす。アイラの視界に、教科書をわざと踏みつけるようにして立つ女子生徒の姿が映った。
「あははっ、学年一位の秀才がみっともないわねぇ」
「ちょっと!アイラに謝りなさいよ!」
「はあ?勝手に転んだんでしょ?わたしのせいにしないでよ」
くすくすと笑う女子生徒は、そのまま背を向けて去っていく。友人が怒ってくれるので、アイラは特に声を荒げたりはしなかった。
このような嫌がらせが、だんだんと増えていく。
些細なものだったはずが、徐々にエスカレートしていく様子に、アイラが恐怖を覚えてきた頃だった。
「きゃあ!」
思わず声を上げてしまったのは、中庭を歩いていたアイラの頭上から、植木鉢が落ちてきたからだ。
ガチャンと音を立て、目の前で植木鉢が割れる。あと少しずれていたら当たっていたという事実に、サアッと血の気が引いた。
「あはは、見てあれ。天罰じゃない?」
「試験で不正したんでしょ?なんでまだ学校に通ってるのかしら」
それを見ていた近くの生徒は、笑ってアイラに罵声を浴びせた。他の生徒も遠巻きに見ているだけで、アイラを心配する声もない。
唇を噛み締め、アイラはすぐにその場を立ち去った。
少しして、友人が血相を変えてアイラに駆け寄って来る。
「アイラ!聞いたわよ!大丈夫なの!?」
「………」
「アイラ?…待って、アイラ…!」
アイラは友人を一瞥もせず、そのあとの授業に出席しなかった。そんなことをしたのは、初めてのことだった。
自分の近くにいれば、危険な目に遭う。そう思ったアイラは、ひたすら友人を遠ざけた。
やがて友人は近寄ってこなくなり、アイラは魔術学校で一人になった。
誰が流したのか、酷い噂は勝手に一人歩きをしていて、生徒はもちろん、教師までもアイラを信じてくれなくなっていた。
毎日のように嫌がらせを受け、後ろ指をさされ、心がどんどん擦り減っていたとき。
一人非常階段で膝を抱えて俯いていたアイラに、声が掛かる。
「アイラちゃん。大丈夫?」
「………」
顔を上げれば、そこには同じクラスの男子生徒がいた。アイラは虚ろな瞳を向ける。
「……どうしたの?私に声かけるのはやめたほうがいいって分かるでしょう…放っておいて」
「さすがに放っておけないよ。泣いている女の子は特にね」
そう言われ、アイラは自分の頬が濡れていることに気付いた。次に口を開くより先に、ふわりと体を抱きしめられる。
「我慢しないで。気の済むまで泣いていいよ」
「…………っ」
久しぶりの優しい言葉に、温もりに、アイラの瞳から次々と涙が溢れた。
気付けば自分から男子生徒の背中に手を回し、声を押し殺して泣き続けていた。
ようやく落ち着いて体を離すと、アイラは急に恥ずかしさに襲わる。
「………ご、ごめんなさい」
「どうして?ここはお礼の方が嬉しいな」
「……ありがとう、クルドくん」
クルドが優しく微笑み、アイラの胸がドクンと高鳴った。
クルドはとても整った容姿をしていて、学年を問わず女子に人気があった。
何故、わざわざ声を掛けてくれたのか分からなかったが、アイラはとても嬉しかったのを覚えている。
この出会いが、仕組まれたものだとも知らずに。
それから、毎日のように授業が終わったあと、アイラが非常階段で落ち込んでいると、クルドはやって来た。
肩が触れそうなほど近い距離で並んで座り、他愛ない話をして、クルドが先に去っていく。
アイラはその時間が大切で、クルドへの好意は日に日に増していった。
その日は、朝から雨が降っていた。
嫌がらせは続いており、泥をかけられた時の気分は最悪だった。
雨が降っているときは、アイラは使われていない倉庫へ逃げ込んでいる。それはクルドにも話していて、何度か倉庫で会っているので、今日も会えると思っていた。
校舎から少し離れた倉庫へ、アイラは外套を羽織り走って向かう。
扉を開けると、そこには既にクルドがいた。
「……あれ?今日は早いのね」
外套を脱ぎ、雨の雫を払う。アイラの疑問に、クルドは笑みを浮かべた。
「うん。早くアイラちゃんに会いたくて」
「えっ…」
心臓が跳ねるのと同時に、クルドが少しずつ近付いてくる。そっと腕を引き寄せられ、一気に距離が縮まった。
頬に手を添えられ、じっと見つめられると、アイラはその緑の瞳に吸い込まれそうになり…気付けば、二人の唇が重なっていた。
その温もりに幸せを感じていたが、徐々に深くなる口づけにアイラは慌て始めた。クルドの胸元をトンと叩く。
「ちょっ…、ちょっと待っ…きゃあ!?」
アイラの体は軽々抱き上げられ、少し離れたところに敷いてあったマットに寝かせられる。埃っぽいにおいと雨のにおいが混じる。
そして、クルドが上から覆いかぶさってきたとき、アイラは身の危険を感じた。
緑の瞳は熱を帯び、アイラを見ているようで、その先の快楽を見ているように思える。
「お、お願い……どいて、んん!」
乱暴に口を塞がれ、何とか抵抗しようと両足をバタつかせた。両手は既に押さえつけられている。
それを鬱陶しそうにクルドが見た。
「……何?これからいいところなんだけど」
「や…やめてっ…、」
「はあ?今更何言ってんのさ。そもそも命令だし金貰ってるし、やめるっていう選択肢はないからな」
「めい…れい……?」
アイラは絶望した。最初から、仕組まれていたことだったと気付いた。
なのに、その見せかけの優しさに騙され、絆され、取り返しのつかないことをされそうになっている。
「あはは。綺麗な泣き顔」
口元だけ笑いながら、クルドがアイラの制服に手をかける。
シャツのボタンを外されながら、アイラは両手で顔を覆って涙を流し続けていた。
悔しい、悲しい、という感情がぐるぐると頭を回っている。それでももう、抵抗する気が起きなかった。
―――誰が、私を助けてくれるというの?
アイラが唇を噛み締めたそのとき、倉庫の扉が勢い良く開いた。
「―――アイラ!!」
そこには、息を切らした友人の姿があった。友人はアイラとクルドの姿を見ると、その手に持つものを振り上げ、魔力を込めたのが分かった。
目に見えない速さで何かが飛び出し、クルドの体がアイラから離れた。見ると、体が縄でぐるぐると拘束されている。
「……くそっ!お前、この場所のこと話して―――、」
「黙りなさい!」
次は、クルドの口元に布が巻き付いた。じたばたと暴れるクルドを呆然と見ていると、ふわりと体にブランケットがかけられる。
大切な友人が、雨に濡れた体を震わせてアイラの目の前にしゃがみ込む。
「アイラ……アイラ、ごめんね、私がもっと早く気付いてれば…!」
「……どうして、トリシアが謝るの?」
ずっと自分を庇ってくれていた友人を……トリシアを遠ざけたのはアイラ自身だ。
見放され、恨まれていて当然だと、アイラはそう思っていた。
けれど、トリシアは駆けつけてくれた。雨の中ここまで走ってくれたのか、髪も制服も濡れている。
その手に持っているのは、魔術具だった。
「ありがとう……トリシア。助けてくれて」
「アイラ…わた、私、間に合った?大丈夫だった?」
涙をボロボロと零しながら、トリシアが震える唇でそう言った。同じように涙を流しながら、アイラが頷いて肯定する。
途端に、トリシアが勢い良く抱きついてきた。濡れた髪がひんやりとして、アイラには心地よかった。
「……っ、良かったぁ!本当に…!」
「ふふ。その魔術具は、トリシアが作ったの?さすがね」
「そ、そうなの!これでアイラに嫌がらせしてるやつらを捕まえてやろうと思って!」
トリシアは、魔術具の開発を専攻として入学していた。その腕はずば抜けていて、教師たちもトリシアに一目置いていたほどだ。
トリシアの魔術具に捕らえられたクルドは、今は床に転がって動かなくなっている。
「……トリシア、彼は…」
「ああ。布に気絶させる薬品を仕込ませてあるから、気を失ってるだけよ。どうする?一回蹴飛ばしておく?」
「……ううん。トリシアが助けてくれただけで、私はじゅうぶんよ」
「もう…!あ、そうだ。外に騎士の人が待っていてくれてるの。呼んできてもいい?」
「騎士?」
アイラが首を傾げると、トリシアは急いでアイラのはだけた胸元を直してくれる。
「そう。実は、アイラが危ないかもって教えてくれたのがその人でね。騎士団の任務で、魔術学校に来ていたらしいんだけど」
「そうなの…?なら、その人にもお礼を言わないとだわ」
「待ってて。呼んでくるわね」
トリシアが呼んできてくれたその人は、確かに騎士団の服を身に着けていた。
倉庫に入ってくるなり、動けなくなっているクルドの方へ向かう。
「ほお、すごいなコレ。魔術具か?俺も欲しいな」
何だか騎士にしては、軽そうな男性だった。よっこいせ、とクルドを肩に担ぐと、アイラを見る。
「安心してな、お嬢ちゃん。コイツは騎士団が預かるから」
「は、はい。……ありがとうございます」
「お礼はいつか、俺の上司に言ってくれな~」
「?」
騎士は髪と同じ群青の瞳を楽しそうに細めながら、ひらひらと手を振って倉庫から出ていった。途中で肩に担いでいるクルドが扉にぶつかったが、全く気にしていないようだった。
姿が見えなくなってから、アイラはトリシアに尋ねる。
「……あの人の上司って、誰かしら?」
「さあ…私の兄さんが騎士団にいるから、聞いてみよっか。あの人の特徴だけで分かるかなぁ」
二人して首を傾げたあと、トリシアがアイラを立ち上がらせてくれた。
とりあえず医務室に、と話していると、バタバタと数人の教師たちがやって来た。
「タルコットさん!大丈夫!?」
「騎士団から報告を受けたんだ。さあ、こちらへ。ご両親にも連絡してあるからね」
手のひらを返したように、優しい言葉をかけてくる教師たちに、アイラは不信感が拭えなかった。トリシアも眉を寄せている。
けれど今は、早くここから離れたい気持ちのほうが強い。
そうして、アイラは学校まで駆けつけてくれた両親と一緒に帰宅した。
なかなか寝つけないアイラのそばに、侍女のベラが付き添ってくれる。
ようやく眠れても、緑の瞳を思い出しては目が覚め、押さえつけられた手首の痛みを思い出し、体が震えた。
両親に心配され、その後三日は魔術学校を休んだ。
「お嬢さま…本当にもう学校へ行くのですか?」
「ええ。大丈夫よベラ、魔術師になるためにちゃんと学びたいし、トリシアもいてくれるから」
アイラが魔術学校へ行こうと思えたのは、トリシアの存在が大きかった。
巻き込まないようにと遠ざけている間も、アイラのために魔術具を開発してくれていたのだ。
トリシアは別れ際、もう離れないからね!と言ってくれていた。トリシアがいてくれるなら、アイラも頑張ろうと思えた。
それに加え、アイラは教師が駆けつけてくれたことを思い出す。きっと、事件の説明を生徒にしてくれているだろう。
もしかしたら、皆のアイラへの態度がいい方向へ変わってくれるかもしれないと―――そんな淡い期待を抱きながら、アイラは学校へ向かった。
校門をくぐったときから、嫌な予感はしていた。
アイラに気付いた生徒たちが、ヒソヒソと声をひそめて話し始めたからだ。
それでも、アイラは期待を抱き続ける。もう絶望はしたくなかった。
教室に入れば、きっとトリシアが抱きついてきてくれると、そう信じて扉を開ける。
「―――え…」
思わず声が漏れたのは、信じられない光景を見たからだ。
教室に魔術具で投影されていた、アイラとクルドの倉庫での映像。床一面に散らばった、アイラへの罵詈雑言が書かれた紙。
そして、中央に横たわるトリシアの姿。
「トリシア!!」
アイラは真っ先にトリシアへ駆け寄った。意識がないようで、ぐったりとしている。
額と腕から血が流れており、アイラはガタガタと震えだした。
そして、どうして教室には他に誰もいないのか―――そうアイラが疑問に思ったとき、廊下が騒がしくなった。
「先生!こっちです、早く!」
その甲高い声に、アイラは背筋がぞくりとした。
教室に入ってきたのは担任の教師と、アイラに嫌がらせをしていた主犯格の女子生徒だった。
担任の教師が、教室の有り様を見て目を見開いている。
「……タルコット…まさか、お前…」
その目が、アイラが抱き起こそうとしていたトリシアに向けられる。「そんなまさか」と繰り返され、アイラは瞬時に最悪の誤解をされていることを悟った。
「先生!違います、私は―――、」
「言い訳なんて見苦しいわよ、アイラ・タルコット!」
女子生徒がアイラを遮り、教師の腕に縋り付いた。
「先生、私は見ました!嫌がらせをしていたトリシアに、アイラが掴みかかっているのを!きっと、怒りのあまり攻撃したんだわ!」
何を言っているいるんだろう、とアイラは思った。
―――嫌がらせ?誰が?トリシアが?
ずっと味方でいてくれたのに、私がトリシアを攻撃した?
呆然と立ち尽くすアイラに、教師が真剣な顔をして近付いてくる。
その背後には、勝ち誇った顔の女子生徒がいた。
「さあ、タルコット、来なさい。場合によっては、君の身を騎士団に…」
「………や…」
「え?」
「もう……っ、もう嫌ぁ!!!」
アイラは制服のポケットから魔術具を取り出した。それは、昨日トリシアから手紙と共に送られてきたものだった。
“何かあったとき、これに魔力を込めて。そうすれば、すぐにアイラの部屋に移動できるからね”
「……ごめん、ごめんねトリシア…」
アイラは横たわる大切な友人にそう呟いてから、ありったけの魔力を込めた。
それから、アイラは部屋に引きこもった。
カーテンを締め切り、両親も兄も、侍女のベラも拒絶した。もう誰とも話したくなかったし、放っておいて欲しかった。
一日に数回、ベラが食事を扉の前に置いてくれた。そして夕食の時間には必ず、その日の出来事を話してくれる。
両親も仕事の合間を見つけては、扉越しに話しかけ続けてくれた。
それでもアイラは、一言も返事をしなかった。
一度だけ、アイラは口を開こうとしたときがあった。それは、トリシアが訪ねてきてくれたときだった。
「アイラ。私はもう大丈夫だから、心配しないでね。魔術学校は辞めてやったわ。兄さんがいろいろ手を回してくれて、魔術具開発局で見習いとして働けることになったの」
「………」
「だから、アイラも……辞めたっていいんだからね。そしたら、一緒に働きましょ。しばらくは忙しいから会いに来れないけど…手紙書くからね。気が向いたら返事ちょうだい?」
良かった、ありがとう、頑張って、大好き…ごめんね。
どれもアイラは言葉で伝えたかったが、できなかった。扉に背を預けて、声を押し殺して泣いた。
トリシアは、言っていたとおり手紙をくれた。引きこもりの生活の中で、彼女の手紙を読むことが唯一の楽しみだった。
けれど、結局アイラは、返事を書くことはできなかった。
そうして、アイラは傷付いた心を抱え続け、あの日。
―――炎に包まれ、命を落としたのだ。
***
今、目の前には、あの日と同じ緑の瞳。
クルドではないと頭では分かっているのに、アイラの体が拒絶してしまう。
「……アイラちゃん?」
ギルバルトのその呼び方も、アイラの嫌悪感を誘った。無意識に閉じ込めていた記憶が、今のアイラを再び襲う。
―――大丈夫、大丈夫…。魔術学校での日々は、今の私は経験していないんだから…。大丈夫…。
どくんどくんと、うるさいくらいの心音が、必死に自分に言い聞かせるアイラを否定するように響く。
アイラはふらりと立ち上がり、いつの間にか震えていた体を、自身の両腕で抱きしめた。
脳裏に、かつての大切な友人のトリシアの笑顔が浮かぶ。
トリシアは今、どうしているのだろうか―――…。
「アイラちゃん?大丈夫?」
「………っ!いや!」
心配そうな顔のギルバルトが伸ばしてきた手を、アイラは払い除けた。そして、その場から逃げ出すように足が勝手に動く。
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「……アイラちゃん、止まれ!!」
「………っ」
ギルバルトの大声が響き、アイラは思わず体をビクリと震わせる。と、ずるりと足を滑らせた。
その先は、急斜面になっていたのだ。
アイラは声を上げることもできず、そのまま斜面を滑り落ちていった。
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