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明治維新編7 秩禄処分のゆくえ

秩禄処分のゆくえ(4)

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 アメリカに送った吉田から、公債発行についての進捗の報告も送られてくるようになった。最新の報告を確認した馨は怒りで顔を赤くしていた。

 どうしてこうなっているのか。

「これは一体。どうなっちょる」
「井上さん、森さんがどうしてこのようなことを」
 渋沢も困惑を隠せないで、戸惑っているようだった。こんな様子は珍しかった。
「良くはわからん。ただ森は俸禄を給金のようなものでなく、永代受給権的な財産だと思うちょる」

 アメリカに駐在している森有礼が、俸禄問題についてアメリカで異議申立の文章を発表していた。政府の見解と違うことを、在米の官僚が新聞に発表するとはありえないことだった。まさか、こんなところに足元を掬う輩がいるとは思わなかった。

「なるほど、勤労の対価と思っておる吾輩たちとは、違うということであるか」
「とにかくわしは森の言うことは放っておけと言うておく。他にも木戸さんなどにこの妨害を、アメリカで日本国政府を代表する人物が行うことを認めて良いのかと通知してみる」
「もう一つはアメリカでの利率や信用情報に問題が、発生しておるとのことです」
「オリエンタルバンクが動いたのかの」
 馨が天を仰ぎながら言った。
「わしのしくじりが尾を引いちょる。12%では話にならん。無理じゃ」
 もう何もかもめちゃくちゃだ。これで財政の立て直し策も一から練り直すことになる。
「馨、それは発行を中止させるということか」
「やむを得まい。中止を指示することになろうが、とりあえず最終的な指示を待って進めるように電信をしておく」
 吉田にこんな通知を出すことになろうとは、送り出すときには考えられないことだった。まだ使節団はアメリカにいるはずなのに、国との交渉のイロハもわからない連中だったと、馨はただ腹が立っていた。

 違うことを考えて、少しは冷静になろうとした。

 馨は渋沢に預けている案件を確認することにした。
「そうだ、三井から願いが出ておったバンクのことはどうなっておる」
「あぁそれならバンクの方式が決まるまでは、動かんようしておったはずじゃ」
「私は三井単独というのも如何かなものかと考えておりまして。できれば小野組と合本とするためその方向で考えてます」
「それにしても、バンクというのもしっくりこないものであるな」
 大隈はバンクという言葉に引っかかっていたようだった。
「はち、バンクを日本語に置き換えるというのか」
「いかにも。何かいい言葉はないか、渋沢」
「両替・商行あたりはいかがでしょうか」
「バンクはそれだけじゃなかろう。ストックやらトラストやら」
「あぁ福地が金行と言ってました」
「金行。収まり悪いの」
「我が国は金より銀である」
「それでは銀行でいかがでしょうか」
「銀行。良いではないかの」
「おぬしらがそういうのなら、銀行で行くのである」
「おう、決まったの」
「子細は渋沢に任せる。合本の試しどきじゃ」
「わかりました。早急に詰めていきます」
 こうして、日本初の『銀行』の設立への動きが本格化していくことになる。


 入れ替わるように、遣欧使節団としてアメリカに向かったはずの大久保利通と伊藤博文が帰国してきた。
「聞多、僕はやっぱり条約改正をするべきだと思うんじゃ。それで条約改正の全権委任を得るため戻ってきたんじゃ」
 自信満々な雰囲気で博文が言った。
 それを聞いて、馨は目の前が真っ暗になった気がしていた。
「俊輔、それがどねーな意味なのかわかっちょるのか。約定違反じゃ。今回の派遣は事情調査までのはずじゃ。それに最恵国待遇がある以上アメリカだけでは進まん。一カ国ごとに話し合いをしても進むものではなかろう。まさか、最恵国待遇を知らんで、もどってきたわけではあるまいの」

 博文は馨の話を聞いて、ひょっとして浮かれているのは自分だけかと、冷水をかけられた気がした。

「アメリカで森有礼等と話しをして、このような機会を逃す手はないということになったんじゃ」
 博文は馨の怒気を含んだ話しぶりを聞いて、恐縮しながら言った。
「また、森か」
 ここでも森有礼の名前を聞いて、どこまでかき回せばあ奴は気が済むのかと唖然としていた。そこでどうにか馨は気を取り直して気になっていたことを聞いた。
「俊輔、木戸さんは大久保さんと、戻ってくることに賛成しておったんか」
「木戸さんのことは良いんじゃ。そねーに物事は軽う動かせるものじゃないと怒られた」
「当然吉田の一行とは会うておらんよな。秩禄公債のためにアメリカに送ったんじゃが」
「見事に入れ違いじゃ。聞多の変更した案について木戸さんがどう考えたかは僕は知らん」
「そうじゃな。確かに」
 馨はがっかりした風を隠そうとはしなかった。
「なかなか順調そうだの。土地所有の改革も進んどるらしいし」
「あぁできることからやっちょる」
「どうじゃ。これからぱぁっといかんか聞多」
「そうじゃいこう、俊輔」
 馨と博文は久しぶりに一緒に笑い、酒を飲んだ。

 日頃の鬱憤をはらすかのように騒いだ馨はいつの間にか寝入っていた。博文は芸者たちを下がらせて、二人きりになっていた。
「聞多に追いつこうと思ったのでは追いつけんの。僕は僕の方法で君を追い越して見せる」
 博文は寝ている馨に話しかけていた。馨の右の頬の傷を撫でるように触った後、叩き起こしていた。
「起きろ、聞多。このまま居続けて武さんに怒られるのはごめんじゃ」
「あぁ、俊輔。わしは寝とったか」
「帰るぞ。聞多は仕事もあろう。僕だって外務省に怒られにいかんとならん」
「うんそうじゃ、すまんの」
 博文は馨を家に送り届けて、帰宅した。

 翌日大蔵省に出仕してきた大久保を馨は訪ねた。
「大久保さん、少しお話よろしいかの」
「井上くん、何か」
「伊藤から話を聞きました。条約改正のための全権委任状を取りに戻られたとか。そねーなこと外務省が認めるでしょうか。いやそれ以前に約定書を破るようなことをなさるとは」
「私は、委任状を持って戻れぬのなら腹を切る覚悟を持っちょる」

 この人は見かけよりも熱を持っているのかとふと思った。腹を切りたがる武士が、ここにもいた。しかし、言っておかないといけない事があった。

「以前条約のお話をした際、最恵国待遇についてご説明をせんかった事、残念だと思っとります」
「森に煽られてここまで来たことか」
「改めてのご覚悟、外務省との交渉は大変なことかと思います。そこは、ご覚悟いただいたうえでおやりください」
 どこか人ごとのように言っている自分に、馨は己のことながら驚いていた。続けて言いたいことは、まさにそれだった。
「この件は約定書には認めていないことだったかと。そうなりますと、約定書の件守られぬのあれば、僕が大蔵省の省務をやりきることは、不能となるのは必至。辞職を願い出ます。それを申し上げに参りました」
「えっ。少し待ってくれんか」
 言葉は届かず大久保は、あっさりと重要なことを言って出ていった馨を見送ってしまった。あの男約定書を楯に何を企んでいるのか。

 そう言えば、帰国の際に伊藤と話していたことを思い出した。
「大久保さんは西郷隆盛さんを吉之助さんとお呼びになるのですね」
「そうですな。吉之助さぁは私を一蔵と。子供んころからですな」
「僕と聞多、いえ井上さんは子供の頃からでは無いので、羨ましいです」
「だが私と吉之助さぁは、色々と違ってきてしまってる。この困難な時期に、共に手を携えている君たちの方が羨ましいが」
「僕たちには気が合うこと、それだけしかないのかもしれません。聞多とはそれ位生まれ育ちが違いすぎるので。第一、聞多が僕を必要としているのがわからんのです。敵が多いと言われますが、味方になってくれる人も実は多いので」
「君にとって信頼できるということが重要なのではないかな。井上くんは強すぎるのだろう」
「聞多は強く見えるだけです。たくさんの傷を持っているはずなんです。でもどれも僕は助けられなかった。あの傷を負ったとき、座敷牢に入れられ、斬首される直前まで行っていた。作法通り動けるようになったら、処刑される事になっていたのです」

 あの時のことか、大久保は長州征討の時西郷隆盛が、長州のことは長州にやらせれば良い、と言っていたのを思い出した。それを生き抜いたのが井上馨という人物だということか。

「それでも、井上くんは君と協働することを選んでいる。それが重要ではないのかな」
「そうですね。でも僕はいつも強くなりたいと願っているのです」

 伊藤博文をこちらに近づけておければ、木戸が片腕としている井上馨も味方にできるというのだろうか。にしても、何かあるとすぐに辞めるというのは木戸と共通して、長州の坊にありがちなことなのか。簡単にいくことはなくとも、一つの手だという気がしていた。
 しかし、伊藤が言っていた井上に対する不安は、随分前に西郷に対して持っていたものと似ている気がしていた。同じく追いかける立場だからなのかと、親近感をいつの間にか持つようになっていた。
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