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明治維新編6 遣欧使節団と留守政府
遣欧使節団と留守政府(4)
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いよいよ使節団が出発するとなった前日、壮行会が開かれた。
とりあえず岩倉さんにはこの場でご挨拶でもと、馨は近くに寄って酒を継いだ。
「お願いすることでは無いとは思いますが、木戸さんのことをよろしくお願いします。そして、約定書の件もありがとうございました」
軽く頭を下げながら話をしていた馨に、岩倉はぎろっと睨みつけてみせた。しかしすぐに平常の感情をよく見せない不思議な笑顔に戻っていた。
「あんたはんが、辞めると言い出したときは肝を冷やしましたよ。大蔵はあんたはんがおやりになるしかないのですから」
「ようわかっとります」
すると次にという人影を見たので、馨は岩倉の前から下がった。
政府の随行員まで含めるとかなりの人数になるはずだ。そのうちどれだけ来ているのかわからないので、壁にもたれかかって様子を見ていた。そんな馨は少し遠くから見ている大きな男と目があったような気がした。
するとその大きな男である西郷隆盛がやってきて、馨に盃を渡して言った。
「三井ん番頭どん一献どげんな」
周りの空気が凍りついたが、受けないのも負けだと思ったので、そのまま無言で飲み干した。返杯をするわけでもなく、また壁にもたれかかって様子を見ていた。
西郷隆盛は清貧をやっているが、高給取りだろう。給金はどこに行っているのかなどと考えていた。
放蕩も世の中に金を回すという意味では、経済の一翼を担っているのだな。富国の一手は民の力を上げること。まず力のある商人を育て、諸外国のカンパニーに負けないところを作るのも一つ。三井ぐらいはその期待に応えなくて、この国には他に何があるというのか。
それにしてもこの西郷隆盛が、わしの政府部内における大蔵省の後見人とは無理がありすぎじゃ。
西郷隆盛をぼうっと見て思った。もうひとり板垣退助。土佐の改革に乗り出したかと思えば、未だに武に重心を置くこの御仁を理解できないでいた。この二人が参議として大隈と正院をやっていけるのか。一番の不安材料にしか思えない。
次に目に入った俊輔は、かなり人の間に入って挨拶をしていた。あれが周旋家というもの、と感じざるを得なかった。心のなかでがんばれよと声をかけた。
そっと立って出ていこうとすると、いつの間にか山田顕義が、袖を引っ張っていた。
「井上さん、もう帰るんか」
「あぁ、そうじゃ。木戸さんをよろしくの。あの人は気短で気難しいけぇ。わしが言うことではないな」
「大丈夫です」
「それじゃ気いつけて」
そう言うと馨は宴会場を後にした。
どこかで気分直しをしようかとも思ったが、そのまま帰宅をした。
そんな馨が一人で帰ったことに気がついていなかった博文は、一緒にいたはずの渋沢に声をかけていた。
「渋沢くん、聞多を知らないか」
「いいえ、私も気にしていたところです。いつの間に」
渋沢も今知ったというポカンとした顔で、博文を見ていた。その二人のやり取りを見ていた山口も話に加わっていた。
「私も井上さんを探して居ったのですが、大隈さんは」
「山口くん、吾輩もみておらん」
大隈も知らないと言うと、困り顔の輪が出来上がっていた。
それに気がついた山田顕義は、恐る恐る近づいて勇気を出して言うことにした。
「あの、井上さんならお帰りに」
「山田くん、なんで聞多を止めなかった」
博文はつい声を荒げてしまった。シュンとなってしまった山田に気がつくと、肩に手をおいていた。
「それは、僕が止められるはずは無いよ」
「たしかに。これだけおったのに気が付かんかったんじゃ。すまんかった」
博文は山田の肩を叩いて謝っていた。
使節団の出発の日がやってきた。留守政府組も総出でアメリカに向かう使節団を見送った。出ていく者残るものの微妙な緊張感が満ちていた。
馨はその見送りには参加せず、やるべきことの表を眺めていた。
「本当に行かなくて良かったのですか」
渋沢が書類と睨み合っている馨に声をかけた。
「一刻もおろそかにできんじゃろ。するべきことで身動き取れんのだから」
すでに内議で決している、土地の所有権を認める地券の発行、華士族の秩禄の処分、これには木戸の意見から突っ込んだものが必要かもしれない。財務からは準備金の蓄え、勧農の方法、完成が迫った富岡製糸場の運営、鉄道の開通など休んでいる暇はなかった。
そうは言っても染み付いた習慣は抜けないもの。
終業時間には書類をカバンに詰め込み、贔屓の茶屋に向かう。それぞれ連絡を取り合い、誰かと合流して書類を広げ、議論を戦わせながら酒を飲む、そんな日常が続いていた。時には三井や出入りの業者が座を仕切ることもあった。
馨や山縣を代表とする長州組やその周辺の人たちにとっては、世の中を動かす原動力として欠かせない時間であった。しかしその派手な行動は、苦々しく思っている敵を増やすことにもなった。その一つが送別会の西郷隆盛の言葉であった。
もう一つ馨の身内にも大きな出来事があった。兄の子で養子の勝之助をイギリスに留学に出したのだった。
とりあえず岩倉さんにはこの場でご挨拶でもと、馨は近くに寄って酒を継いだ。
「お願いすることでは無いとは思いますが、木戸さんのことをよろしくお願いします。そして、約定書の件もありがとうございました」
軽く頭を下げながら話をしていた馨に、岩倉はぎろっと睨みつけてみせた。しかしすぐに平常の感情をよく見せない不思議な笑顔に戻っていた。
「あんたはんが、辞めると言い出したときは肝を冷やしましたよ。大蔵はあんたはんがおやりになるしかないのですから」
「ようわかっとります」
すると次にという人影を見たので、馨は岩倉の前から下がった。
政府の随行員まで含めるとかなりの人数になるはずだ。そのうちどれだけ来ているのかわからないので、壁にもたれかかって様子を見ていた。そんな馨は少し遠くから見ている大きな男と目があったような気がした。
するとその大きな男である西郷隆盛がやってきて、馨に盃を渡して言った。
「三井ん番頭どん一献どげんな」
周りの空気が凍りついたが、受けないのも負けだと思ったので、そのまま無言で飲み干した。返杯をするわけでもなく、また壁にもたれかかって様子を見ていた。
西郷隆盛は清貧をやっているが、高給取りだろう。給金はどこに行っているのかなどと考えていた。
放蕩も世の中に金を回すという意味では、経済の一翼を担っているのだな。富国の一手は民の力を上げること。まず力のある商人を育て、諸外国のカンパニーに負けないところを作るのも一つ。三井ぐらいはその期待に応えなくて、この国には他に何があるというのか。
それにしてもこの西郷隆盛が、わしの政府部内における大蔵省の後見人とは無理がありすぎじゃ。
西郷隆盛をぼうっと見て思った。もうひとり板垣退助。土佐の改革に乗り出したかと思えば、未だに武に重心を置くこの御仁を理解できないでいた。この二人が参議として大隈と正院をやっていけるのか。一番の不安材料にしか思えない。
次に目に入った俊輔は、かなり人の間に入って挨拶をしていた。あれが周旋家というもの、と感じざるを得なかった。心のなかでがんばれよと声をかけた。
そっと立って出ていこうとすると、いつの間にか山田顕義が、袖を引っ張っていた。
「井上さん、もう帰るんか」
「あぁ、そうじゃ。木戸さんをよろしくの。あの人は気短で気難しいけぇ。わしが言うことではないな」
「大丈夫です」
「それじゃ気いつけて」
そう言うと馨は宴会場を後にした。
どこかで気分直しをしようかとも思ったが、そのまま帰宅をした。
そんな馨が一人で帰ったことに気がついていなかった博文は、一緒にいたはずの渋沢に声をかけていた。
「渋沢くん、聞多を知らないか」
「いいえ、私も気にしていたところです。いつの間に」
渋沢も今知ったというポカンとした顔で、博文を見ていた。その二人のやり取りを見ていた山口も話に加わっていた。
「私も井上さんを探して居ったのですが、大隈さんは」
「山口くん、吾輩もみておらん」
大隈も知らないと言うと、困り顔の輪が出来上がっていた。
それに気がついた山田顕義は、恐る恐る近づいて勇気を出して言うことにした。
「あの、井上さんならお帰りに」
「山田くん、なんで聞多を止めなかった」
博文はつい声を荒げてしまった。シュンとなってしまった山田に気がつくと、肩に手をおいていた。
「それは、僕が止められるはずは無いよ」
「たしかに。これだけおったのに気が付かんかったんじゃ。すまんかった」
博文は山田の肩を叩いて謝っていた。
使節団の出発の日がやってきた。留守政府組も総出でアメリカに向かう使節団を見送った。出ていく者残るものの微妙な緊張感が満ちていた。
馨はその見送りには参加せず、やるべきことの表を眺めていた。
「本当に行かなくて良かったのですか」
渋沢が書類と睨み合っている馨に声をかけた。
「一刻もおろそかにできんじゃろ。するべきことで身動き取れんのだから」
すでに内議で決している、土地の所有権を認める地券の発行、華士族の秩禄の処分、これには木戸の意見から突っ込んだものが必要かもしれない。財務からは準備金の蓄え、勧農の方法、完成が迫った富岡製糸場の運営、鉄道の開通など休んでいる暇はなかった。
そうは言っても染み付いた習慣は抜けないもの。
終業時間には書類をカバンに詰め込み、贔屓の茶屋に向かう。それぞれ連絡を取り合い、誰かと合流して書類を広げ、議論を戦わせながら酒を飲む、そんな日常が続いていた。時には三井や出入りの業者が座を仕切ることもあった。
馨や山縣を代表とする長州組やその周辺の人たちにとっては、世の中を動かす原動力として欠かせない時間であった。しかしその派手な行動は、苦々しく思っている敵を増やすことにもなった。その一つが送別会の西郷隆盛の言葉であった。
もう一つ馨の身内にも大きな出来事があった。兄の子で養子の勝之助をイギリスに留学に出したのだった。
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