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~episode1 湖を目指して~
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深い森はどこまでも続いていた。
気温が低い地域だからか針葉樹が生い茂り、その木々の間から暖かい太陽の光が差し込み、背の低い植物たちも光のシャワーを全身に浴びていきいきと背伸びをしているようだった。そんな緑に覆われた森の斜面を小さな旅の妖精、コロボックルのピリカは、相棒の野ネズミ、エルと共に黙々と登っている。
「暑い~」
ピリカが我慢できなくなったように叫び声を上げた。
「こんなに暑いなんて聞いてない~」
駄々っ子の様に文句を言っているピリカの横を歩いていたエルが「僕たちが住んでいた場所に比べたら南にあるんだから、暑いのは当然だと思うよ」としたり顔で言う。
「う~」
ピリカは自分の頭に巻いていた渦模様の鉢巻を取り、腰に巻き付けながら恨めしそうに相棒を見る。
「エルはいいわよね、服着てないんだから」
「自前の毛皮だからね。最近夏毛に生え変わったし快適だよ」
「ずるい」
口を尖らせるとピリカは足を止め「なかなか湖に出ないね」とため息を漏らす。
青い龍が住むという湖を目指して山道を登り続けているが、一向に辿り着く気配がないので、ピリカは不安を覚えてきているようだった。
「今夜も野宿になりそうだね」
黄昏の国に到着してから野宿を繰り返していたが、今のところ脅威となる生き物や巨人とは遭遇はしていないが、知らない土地である以上、夜間は特に危険との隣り合わせなので警戒は怠れなかい。
「安全な場所で寝たいなぁ…」
そう呟くとピリカは再び歩き出した。
自然豊かな場所なので幸い飲み水や食料になる野草やキノコ、植物のタネなどが豊富にあるので困る事はなかったが、安心して眠れる場所を決めるのにいつも迷うピリカである。
しばらく歩みを進めているとエルがピリカに声を掛けた。
「…なんかいいにおいしない?」
「いいにおい?」
「うん…甘酸っぱいおいしそうなにおい」
野ネズミであるエルの嗅覚はピリカより数倍良いからか、エルはそう言うと甘酸っぱい香りの元の方向を鼻をひくつかせて探る。
「…あっち。行ってみる?」
エルの言葉にピリカは頷く。
漂ってくる香りを頼りに雑草の森を進むと、たくさん並ぶ赤い塊が目に飛び込んできた。
「すごい数の野イチゴ!」
エルが声を上げるとピリカははしゃぎ声を上げる。
「エルの鼻はすごいね。お食事にしましょ」
思わぬご馳走にピリカとエルは夢中で野イチゴの実を食べ始めた。良く熟した果実に齧りつくと実がはじけて甘酸っぱい香りのする果汁が飛び出す。
野イチゴの実をはじめ、果実類は寒い地方では夏の短い期間、しかも運よく見つける事が出来なければ口にできないご馳走なだけに、見知らぬ土地で見つけることが出来たのは幸運な事であった。
野イチゴの実は小人の妖精であるピリカにとっては一粒で満腹になるほどの量である。顔の周りを果汁でベタベタにしながらピリカは至福の表情を浮かべた。
ピリカよりは身体が大きいとはいえ野ネズミのエルの方も数個食べると満腹状態になったのか、満足そうに地面に転がる。
「苦しい…もう食べられない」
苦しそうではあるがエルの方も幸せそうである。
満腹状態では動く事もままならないので、成り行きで休憩する事になる。転がったエルの体にピリカはもたれ掛かる様に座るとそのままスヤスヤ寝息を立て始めた。
風に吹かれてざわめく野イチゴの森のささやきをBGMにして惰眠をむさぼっていると、地面を何か引きずる様な音が近ずいてくる事にエルが気が付いた。
「ピリカ、起きて!」
嫌な予感を覚えてエルが慌ててピリカを起こす。
「…うにゃ?」
揺り起こされてピリカは寝ぼけまなこをこすりながらエルに抗議をする。
「なあに? 気持ちよく寝てたのに…」
「目を覚まして。何か来る」
「…ん~?」
緊張感を隠せないエルとは対照的に、まだ頭が寝ているのかピリカはぼんやりとしていると、野イチゴの森が割れて大きなそれが姿を現した。
「蛇‼」
蛇はピリカやエルにとっては大変な脅威の存在である。蛇が口を開けば小さな妖精や野ネズミなどひと飲みされてしまう。
逃げなければと本能が警報を鳴らすが、蛇に睨まれたカエルの様に、恐怖の為か思うように体が動かない。
どうすれば逃げられるのかとエルが頭をフル回転させていると、ピリカがのんびりした声で蛇に話しかけた。
「ごきげんよう蛇さん。私達この山の上にあるという湖に行きたいのだけど、まだ遠いかしら?」
「…ちょっ」
危機感が全くないピリカの言葉にエルは仰天したが、ピリカはそれに構うことなくポーチの中から緑色の石を取り出し左手に乗せると、緑色の石を右手の手で撫でるような仕草をしながら歌うように言葉を紡ぎ始めた。
「大地の精霊よ契約に基ずいて力を貸したまえ…火と水と大地に愛と感謝と祝福を…」
ピリカの声に応えるように緑の石が柔らかい光を発し始め、それをピリカは鎌首をもたげじっとこちらを見つめていた蛇に向かって捧げ持つ。不思議な事に緑色の石に向かって蛇が頭をさげた。
「失礼いたしました…お土の神様のお友達でしたか」
「教えてくれるかしら?」
「はい。このまま登って行けば、あなた方の足だと夜が後二回来たぐらいには湖に着くと思います」
丁寧な言葉で蛇は妖精の質問に答えると、恐縮した様にその場でとどまる。
「ありがとう。もういいわ」
ピリカの言葉にホッとした様子で蛇はズルズルとその体を這わせて野イチゴの森の奥へ姿を消した。それを見届けたエルは緊張が解けたのかその場にへたり込む。
「…行った」
「このまま進んで大丈夫なんだって」
そう言ってピリカは無邪気に笑顔を見せる。
そんな彼女を横目で見ながらエルは複雑な表情で「…実はすごい人?」と自問するように呟く。
相棒の呟きに構うことなく、ピリカは寝ている間にすっかり乾いてベタベタになった野イチゴの実の汁を顔から落そうと躍起になっていた。
「あ~ん、取れない」
情けない表情で半べそをかいている小さな妖精を見ているうちにエルは悩むのがバカバカしくなる。
「ほら水場探すよ」
エルは笑いながらそう言うと、頼りになるのかならないのかよく分からないピリカを促した。そんなエルにピリカはこくんと頷くと黙って歩き出す。
小さな子供の様に素直なピリカを見て――やっぱり放っておけないよな…と自嘲気味に笑うしかなかった。
夏とはいえ、夜になると山の上の気温は一気に下がる。
日暮れ前に今夜野宿する場所を決めたピリカとエルは、集めた葉っぱを数枚重ねて、簡易ベットを作ると、その間に潜り込んで身を寄せ合い寒さをしのいでいた。
「…くしゅん」
ピリカが可愛らしいくしゃみをすると、エルは心配そうに妖精の顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「平気だよ」
ピリカはそう言うとエルの体に身を寄せ、褐色の野ネズミの毛皮に顔を埋め「お日様の香りがする」と幸せそうにつぶやく。
「お日様の香り?」
「うん。お日様に干したお布団みたいな香り」
「ふうん…」
野ネズミであるエルは布団を使う事ないので、彼女が何を言っているかわからないが、どうやら不快なにおいではないようだという事は察していた。
「お星さま見えるね…」
被っていた木の葉の隙間から空を見上げてピリカが呟く。
今夜は月が出ていないのか、木々の間から見える夜空の星はひときわ明るく輝いている様に見えた。空全体を見渡す事が出来ないのでどの星がどの星座のものかはわからなったが、星の瞬きはまるで宝石の様である。
「ねぇ…何かお話して」
エルに甘えるようにピリカが話しかける。
「話?」
「うん…」
「話と言ってもなぁ…」
少し困ったようにエルは考え込むと、昔聞いたという不思議な世界の話を静かに語り始めた。
あるところに一人の若者がいて、洞窟を見つけたので中がどうなっているのか気になったので、洞窟の奥に入って行くと、そこは見た事もない光景が広がっていたという。
「…どんなところだったの?」
ピリカが眠たそうに目をこすりながら尋ねてくる。
「真っ暗な場所のはずなのに、洞窟の中の床や壁、天井にはたくさんの星空が広がっていたんだ」
「お星さまが?」
「…そうお星さまがたくさん。あまりにも美しい光景に若者はそれに見とれていると、星たちの歌が聞こえてきたんだ」
その歌は「魂は箱舟に乗って過去現在未来へと旅を続ける。永遠の命を求めて――愛を力に光となる為に――」という歌詞だったという。
「光となる為…かぁ」
大あくびをしてピリカが小首を傾げる。
「命はみんな光り輝いてるのに…変なの」
歌詞の内容が引っ掛かるのか小さな妖精は歌詞の内容に対して素直な感想を述べると、瞼が重くなってきたのか静かに目を閉じる。
「…ありがと…もう寝るね」
そう言ってピリカはすぐに眠りに落ちた。そんな相棒の安らかな寝顔を見ながらエルはピリカとの出会った時の事を思い出していた。
最初にこの小さな妖精と出会ったのはかなり昔の話である。まだエルはやんちゃ盛りの若い野ネズミで群れの中でも乱暴者として有名だった頃の話である。
喧嘩に明け暮れる毎日だったのだが、ある日他の群れとの衝突があり、エルは集団に取り囲まれて瀕死の重傷を負った。森の中で動けなくなっていたところにまだ幼いピリカが通りかかったのである。
「痛そう」
そう言うと小さな妖精は薬草を探しに行ってくれ、血まみれのエルの怪我の手当をしてくれた。そしてエルが自分で動けるようになるまで毎日のように水や食料を届けてくれたのである。
最初は「自分には構うな」と意地を張っていたエルだったが、何を言っても気に留めず、無邪気なピリカと接しているうちに、固く閉ざしていたエルの心は次第に開き始めた。
「…警戒心ってものがピリカにはないもんな」
赤子の様な無防備なピリカの寝顔を見ながらエルはぼやくように呟く。たまにこの小さな妖精は天使なのか単なる馬鹿なのかわからなくなるのだが、そこが逆に彼女の可愛さでもあった。動けなくなっていた時に看病してくれた恩返しでではないが、それ以来、純粋過ぎて危なっかしいピリカとの付き合いは今も続いており、ついにはるばる異国の地にまで同行する事になったのだから、昔の荒れていた頃の自分の事を考えれば随分お人好しになったものだと思う。
「おかげで退屈しないけどな」
そう呟くとエルは明日に備えて静かに目を閉じた。
青い龍が住むという山の上の湖を目指しての登山は今日も続いていた。
「今日は歩きやすいね」
ピリカは歩きながら笑顔になる。彼女が言うように今日歩いている場所は下映えの草が昨日に比べてかなり少なくなっていたので、今日は効率よく先に進めていた。
「…少ないというより、地面がカチカチだから草が育たないんじゃないかな?」
エルはそう言うと進行方向の先の方に視線を走らせる。
「なんか不自然なんだよな。土がカチカチの場所のすぐ横には草がびっしり生えてるんだけど…」
不自然に見える風景の理由の原因がわからず野ネズミは首を傾げた。
「早く進めるんだからいいんじゃない?」
「なんか気になるんだよな」
無邪気なピリカとは対照的にエルの表情はさえない。
「あんまり悩むと禿るよ?」
からかうように小さな妖精はそう言うと鼻歌交じりに歩を進めた。
「…音聞こえない?」
しばらく歩いていると聞きなれない音がエルの耳に聞こえたので、歩みを止めピリカに尋ねる。
「音?」
「…なんか、ゴーって音…」
「う~ん?」
ピリカも立ち止まって耳を澄ます。風に吹かれて聞こえる木々のざわめきとは別に、エルが言うように聞きなれない何かの音が近ずいているようだった。
「…なんだろ?」
ピリカが不思議そうに首を傾げる。そうしている間にも謎の音が大きくなっている。
「嫌な予感がする…ピリカこっち」
エルはそう言うと、草むらの中に移動するようにピリカを誘導した。ピリカは訳が分からないまま素直にそれに応じて自分の背丈よりも大きな草が生い茂る中に移動する。
「大きな何かが来る」
見た事もないような巨大な塊がすごいスピードで近ずいてくるのを確認して、エルは緊張した面持ちでピリカに警戒を促した。正体不明の塊が草むらに身をひそめた妖精と野ネズミの前にその姿を現した。
「…でかい」
それは彼らの身の丈の数百倍はあると思われ、目の前を通過するとき地面が揺れ、すごい風が吹き抜ける。それは巨人たちが「車」と呼ぶものであったが、ピリカと野ネズミはその事を知る由もなかった。
「…なるほど、あれが通るから土が重みでカチカチになるんだな」
車が通りすぎた後、納得した様子でエルが呟く。
「おっきかったね」
驚きで目を丸くしてピリカがエルを見た。
「なんていう動物だろ?」
動いていたので、ピリカは黒くて大きな塊を動物だと判断したようだった。
「巨人以外にもあんな生き物がいるなんておじいちゃんから聞いた事あったか?」
困惑顔のエルに訊かれてピリカは大きく首を振った。
「そうか…何かはわからないけれど、あんな大きなものに踏まれたらひとたまりもないな」
強大な塊が通り過ぎた所だったのに、既に謎の大きな黒い塊の姿は見えなくなっている事にエルは驚く。
「また見られるかな?」
黄昏の国には知らない事や動物がたくさんいそうであると、ピリカは興奮を隠せない様子のピリカに対して、エルの表情は厳しく、気を引き締めなければと自分に言い聞かせているようであった。
「わぁ」
長い上り坂を昇り切り森が途切れた場所に出ると、今までとは違う光景が目の前に広がりピリカは歓声をあげた。
切り立った山々の斜面が夕日に照らされ赤く染まり、その下には大きな水たまり…いや、湖が広がっていた。
「あれがおじいちゃんが言っていた青い龍が住む湖…かな?」
ピリカが湖を見ながらキラキラと目を輝かせる。その横でやれやれといった風情で「そうだったらいいけどな…そうじゃなきゃ、ここまで登って来たのが無駄になる」とエルが苦笑いを浮かべた。
「大丈夫。青い龍が住む湖には、真ん中に島があるっておじいちゃんが言ってたもん…きっとあれ」
そう言いながら湖の中に浮かぶ小さな島を見てピリカは笑顔を見せた。
「青い龍さんかぁ、仲良くできたらいいな」
「そうだな…ただ今日会うのは無理そうだけど」
二人が話している間にも、どんどん日が落ちていく。暗くなるのも時間の問題だと思われた。とりあえず大きな岩のくぼみを今夜の野営場所に決めて、夕食の準備を始める。道中に摘んだ数種類の草の芽を焚き火で焼き、背負い袋から塩を取り出して焼けた木の芽にかけたものが今夜のごちそうだった。
「おいしい」
香ばしく焼けた木の芽にかぶりつき、ピリカが満足そうに微笑む。そんな相棒の横顔を見ながら「ほんと幸せそうに食べるな」とエルが笑った。
「うん。幸せだもん」とピリカが屈託のない笑顔を浮かべる。
ささやかな幸せを噛み締めながら夕食を楽しんでいたのだが、夜空を見上げていたエルがしきりに首を傾げ始めた。それに気が付いたピリカがどうしたのかと尋ねた。
「…いや、流れ星じゃない光が空を横切っていくんだ」
そう言って点滅を繰り返しながら真っ暗な夜空を横切っていく星を指し示す。
「ほんとだ…何だろうね?」
ピリカも夜空を見上げ首を傾げる。二人で話していても答えが出る訳でもないが、未知の世界の不思議な出来事について話し相手がいるだけでも、正体不明な体験についての不安感が少し和らぎを覚えるのだから不思議なものだった。
「青い龍さんに教えてもらうの」
「知ってるかな?」
「龍の一族はカムイの化身って言われてるからきっと知ってるよ」
自信満々でピリカはそう断言する。
ちなみに「カムイ」とはピリカ達が住む世界の「神様」という言葉で、彼らのカムイはどちらかと言うと万能な人格神と言うよりは、自然法則など、この世界を構成するあらゆるものが神であると信じられていた。化身になってようやく「個」や「人格」が伴ってくる独特の世界観である。
「青い龍さん…怖くなかったらいいな」
無邪気な様子でそう言うピリカにエルが「機嫌を損ねて食べられないようにな」とちゃちゃを入れる。
「ピリカ美味しくないもん」
「…龍の味の好みなんてわからないと思うぞ」
そう言って反論するコロボックルを見ながら、笑いをかみ殺すようにエルは喉を鳴らした。
「エルの意地悪」
手にしていた焼き木の芽を意地悪な野ネズミの口に押し込むとピリカは頬を膨らませてむくれる。
口いっぱいに詰め込まれた焼き木の芽を飲み込んだエルは楽しそうに笑い声をあげた。
こうして今夜も異国の地で過ごす夜は平和に更けてゆく――。
青い龍が住むという湖の水は澄んでいて、標高のせいか非常に冷たかった。
山々から流れ込む栄養豊富な水のおかげか魚たちが泳ぐ姿も見える。
日の出と共に目を覚まし、早い時間に野営地から出発したピリカ達が最初の目的地である湖に到着したのは、お日様が少し傾き始めた頃だった。
「これからどうするつもりなんだ?」
思ったより大きな湖を見渡しながらエルがピリカに尋ねる。
「…んと、たぶんあっち」
青い龍と出会ったのは、湖のほとりにある巨大な赤い柱に挟まれた場所にある異国の神殿という祖父の話を思い出して、ピリカはそれに当てはまりそうな建築物がある方角を指し示した。
山の上では見かける事が無かった巨大な建築物がいくつも湖の周りにそびえたっていて、巨人が動き回っている姿も目にするようになっている。森の木々に比べれば巨人たちは小さかったが、小さな妖精や野ネズミからすれば十分巨大で、その数も非常に多いと感じずにはいられなかった。巨人たちは残忍だと、この黄昏の国に送り届けてくれたシロイルカの話を聞いていたので、巨人に見つからないように移動を心がけていた。
この周辺では山の中で遭遇したすごい速度で移動する大きな塊の数も多く、身体の色やその姿かたちもさまざまである事に興味を持ったピリカは、じっとして動かない大きな塊に見上げるようにそれに声をかけた。
「ねぇ、起きて」
当然のことだが大きな塊は車なので返事をする事はない。
「ねぇ…ってば!」
「ピリカ。こいつ生き物じゃないぞ」
無反応なそれが無機物で固く冷たい事に気が付いたエルは、意地になって呼びかけ続けるピリカを制止すると小さな妖精は不思議そうな表情を浮かべる。
「…生き物じゃない?」
「石じゃないけど…この触った感じは金属?」
ピリカ達もわずかではあるが金属を加工して利用する文化を持っていたので、その存在は知っていたが、ここまで大きな金属の塊と見たり聞いたりした事はなかった。ましてや動く金属の塊など想像もつかないものである。
「…そんなの聞いた事ないよな?」
エルが自問するようにそう言うと首を振った。エンジンの概念すら無い彼らにとっては、金属の塊である車はただ奇妙で不思議な存在としか思えなかった。
「…行こう」
不思議そうに物言わぬ車を見上げているピリカを促して、エルは出来るだけ巨人から身を隠すようにして移動を始めた。さすがに巨人に発見されたり踏まれては危険だと理解しているのか、ピリカも黙ってついてくる。
植物の影や巨大な建造物の影を伝って移動を繰り返していると、香ばしい何かが焼けるにおいに気が付いてピリカが足を止めた。
「いい匂い」
小さな妖精はその香りの元に引き寄せられるようにふらふらと歩き出した。ピリカより鼻のいい野ネズミはその匂いに先に気がついていたが、巨人を警戒して黙っていたのに、ふらふら歩きだしたピリカに仰天して慌ててピリカを制止する。
「おい、ちょっと待て――」
「ん~。おいしそうなものありそうだよ?」
巨人への恐怖より食欲が勝るのか、食いしん坊の妖精は相棒が制止するのもかまわない様子だった。仕方なくエルは巨人の気配を警戒しながら妖精の後をついてゆく。
良い香りは巨人が作ったと思われる建造物の中から漂っていて、屋内外を隔てる巨大な扉が開いていたので、そのままピリカは中に入って行く。エルの方は直感的にそこが巨人の巣であると察して一瞬躊躇したが、ここまで来たらピリカとは一蓮托生である。勇気を出してピリカの後を追い、建物の中に飛び込んだ。
建物の中はひんやり涼しく太陽の光が入らないはずなのに何故か明るい。良い香りは大きな四角い柱が立ち並ぶ上から漂ってくるのだが、柱の上の天井の様なものが邪魔してみる事が出来なかった。
「登れない~」
恨めしそうに柱の上を見上げてピリカが不満そうに口を尖らせる。
「諦めた方がいいって」
「でも…」
諦めきれないのかピリカはその場を動こうとしない。どうやって諦めさせようかとエルが悩んでいると、大きな足音と共に巨人が姿を現した。巨人はピリカやエルの体の数十倍も大きく、巨人が少し動くだけでも大きな音と振動がして小さな妖精や野ネズミにとっては大変な脅威であった。
巨人に見つからないように素早く柱の陰に身をひそめたエルは、あんぐりと口を開けて巨人の大きさに驚いているピリカに隠れるように小声で隠れるように促す。エルの声で我に返った妖精は慌ててエルの傍へやってきた。
「あんなのに見つかったら俺たちじゃどうにもならない…行こうぜ」
声をひそめてエルがそう言うと、ピリカは「こんな大きな生き物がいるんだね」と目を丸くする。
「これだけ大きいんだから、いっぱい食べるんだろうね?」
柱の天井のさらに上にある料理をどうやら食べ始めたらしい巨人を見上げ、誰に問いかける訳でもなくピリカが呟いた。
「何食べてるのかなぁ」
「まだ諦めてないのかよ」
直接巨人が何を食べているのかはわからないが、相変わらずおいしそうな香りが漂ってくるので、指をくわえてぶつぶつ言っているピリカに呆れてエルはため息をついた。
「だっておいしそうな匂いだよ?」
「…確かにいい匂いなのは認めるけど、俺たちが食べる事なんて出来ないんだからさ」
「降ってこないかな?」
「ないない」
悩むことなく否定するエルの言葉にピリカは小さなため息をつくと、ようやく諦めがついたのか「行こう」という言葉を口にした。
食事を続ける巨人に気が付かれないようにそっと二人は移動を始める。建物の外へ出るとエルはひそめていた息を吐きだしてホッとした表情を浮かべる。
「見つからなくて良かった…」
ここは巨人が多いのだから、おいしそうな匂いだからといって勝手に動かないでくれとピリカに釘を刺すと、本来の目的地に向かって移動を始めた。
「龍さんって、巨人よりおっきいのかな?」
「伝説の存在なんだから俺が知る訳ないだろ?」
エルが無邪気な疑問に冷たく答えると、ピリカは「そうだよね」と納得顔になり、何が可笑しいのかクスクス笑う。
「…何が可笑しいんだよ?」
「ん~、つまらない事訊くなって顔してるのが面白いんだもん」
「ピリカの方は何もかもが面白くて仕方がないって顔してるけどな」
「うん、面白いよ」
皮肉を言ったつもりだったのだが、無邪気な妖精にあっけらかんと肯定されたエルは、黙って肩を竦めるしかなかった。
「ここかな?」
巨人よりも大きな赤い柱がそびえたつ場所に辿り着いたピリカは、柱を見上げて小首を傾げる。祖父の話通り、巨大な赤い柱が並び、その間に巨人達の住んでいる建物とも形や雰囲気は全く違う神殿と思しき建物がある場所である。不思議な事にその神殿の様な建物は巨人達の住居よりもかなり小さく、どちらかと言うと妖精が住むのにちょうどいい様なサイズだった。
「ピリカが言っていた、おじいちゃんの話の場所と一致はするみたいだけどな」
周囲を見回した後、エルはピリカを見る。
「とりあえず神殿まで行こ」
とことことピリカが異国の神殿に向かって歩き出す。周囲に巨人たちが居ないのを確認してエルも慌ててその後をついて行く。
「――んと、ここでは水の歌かな?」
神殿の前に立ったピリカはそう言うと、小物ポーチから青い石が付いた指輪を取り出し、それを右手の中指にはめると、静かに深呼吸をしてからおもむろに言葉を紡ぎ始めた。
「天の恵み、地の恵み――穢れ清め流れて時空の移ろいを刻む――ここに溢れる命あり――大いなる水の力に祈りを込めて命満ちん事を――」
歌うような妖精の声が湖に響き、それに合わせるように湖の奥にある島の方から霧が湧き出て、その濃度が少しずつ濃くなっていく。数分も経たないうちにあっという間に辺りは濃い霧に包まれた。
「——青い龍様、いらっしゃいましたらお姿を現して下さい」
湖の奥にまで響くような澄んだピリカの声が響く。彼女の言葉に呼応するように、霧が一か所に集まり、周囲よりもひときわ濃い霧の帯の様なものが姿を現した。帯の形は渦を巻いたり波打ったり、時々刻々とその形を変えてゆく。それの動きを見ていると霧の中から「我を呼ぶそこの小さき者…」という、低いがよく通る声が聞こえてきた。
「…遠い北の地に住むコロボックルのピリカと申します」
丁寧な言葉遣いでピリカは時々刻々とその形を変える霧に自己紹介をすると、霧の中から聞こえる声の主は「北の地のコロボックル…」と、呟くような言葉が聞こえた後、湖の真ん中にある島あたりだけ霧が薄くなり、その中から青い体と目をした長い体の大きな龍が姿を現した。蛇に似たその長い体を目にしたエルにさっと緊張が走る。そんな野ネズミのちょっとした変化を青い龍は見落とす事は無く、おもむろに口をひらいた。
「そこの者、我は蛇では無いので安心せい――」
「…」
龍は全てを見通す事ができるのかと、びっくりしたような表情をエルは浮かべる。
「蛇は二次元、龍は三次元——」
龍が言うように確かに蛇は地を這うのでその動きは二次元であるが、目の前の龍の体は空中に浮かび、その体の動きは三次元であった。
恐縮する野ネズミから小さな妖精に龍は視線を移すと、優しくピリカに語りかける。
「昔、お前と同じ北の地から来たというコロボックルに我は逢った事がある――名前は確か…」
「シクヌです…私の祖父」
「おお、そうか…あの妖精の孫か」
龍は懐かしいものを見るように目を細めてピリカを見た。
「あの者は健在か? それとも身罷ったか?」
龍の質問にピリカは「祖父は元気にしています」と答えてにっこりと微笑む。
「——して、北の地より何用じゃ?」
ピリカは祖父の話を聞き、見聞を広める為にこの黄昏の国に訪れたという説明をすると、龍は「そうか…」と言った後、少し何かを考える様子を見せた。
「百聞は一見に如かずではあるが…今となってはこの地はお前たちの様な小さき者にはいささか危険ではある」
「巨人ですか?」
龍の言葉を聞いてエルが訊ねると、龍は頷いて、今のこの国に住む巨人たちの話を始めた。
「巨人たちは随分変わったのだよ…昔はこの地に住む違う生き物たちとも仲良く暮らしていたのだが、今はこの地の支配者として傲慢な振る舞いが目に余る」
「…シロイルカから巨人は残忍で他の生き物の事など考えないと聞きました」
エルの言葉に龍は困った表情を浮かべる。
「残念だがその通りでな――地や水を毒で汚し、他の生き物を苦しめるだけでは飽き足らず、共食いを始めおった」
「共食い…巨人が巨人を食べるんですか?」
ゾッとした様子でエルは龍を見る。
「…そう言う意味ではなくてな、他の生き物を殺して食べ始めたんだよ」
龍の話によると、神から許された巨人の食べ物は植物なのに、今では他の動物を殺してそれを食べるのだという。
「植物も命だよ?」
話を聞いていたピリカが不思議そうに龍を見る。そんな妖精に龍は動物を生かす為に神が作ったのが植物で、動物とは魂のあり方が違うのだという。
「魂?」
ピリカとエルは顔を見合わせる。
「植物の魂は種族としての集合体なので、葉や実はお前たちで言う髪の毛や爪の様なもの…だから髪の毛や爪の先をいくら動物に食べられたとしても、魂が傷つく訳ではない」
「爪や毛…」
エルの呟きに応える事無く龍は言葉を続ける。
「一方、動物は一つの体に一つの魂が入っているので、巨人たちの食料として殺される時、苦痛や悲しみが伴うのだよ――」
どうやら巨人もまた動物であると龍は言いたいようだった。
「苦しみを与えれば苦しみが返って来るのに、それすら巨人たちは忘れてしまったようだ」という龍は苦々しかった。
「ん~、難しい話はよく分かんないけど、苦しいのや悲しいのは嫌ね」
ピリカがそう言うと、龍の眼が笑う。
「——小さき者、お前たちの一族はいつの世も純粋なのだな」
妖精達は常に自然がなければ、その存在自体が消えてしまう。自然とは支配するものではなく共に生きていく仲間という考えなので、自分のエゴの為に他を苦しませたり悲しみを与えるという事はピリカには考えられない事だった。
「この国の巨人達が悪鬼となりはてているのを知り、危険だと知ってもなお、この国の旅を続けるというのか?」
龍は小さな妖精を見据えて問いかける。その問いに対してピリカは迷うことなく頷いた。
「悪い巨人さんばかりじゃないかもしれないよ? ——それに…」
「それに?」
「悪い子になった理由があるかもしれない。それが判れば元の良い巨人さんになって、またみんなと仲良くできるようになるかも」
ピリカは真っ直ぐに龍を見返してそう言うと、龍は「そうか…」と言った後、何かを思いついたようだった。
「お前たちはこの国は初めて来たのだな?」
龍の問いかけにピリカとエルは頷く。
「どこに何があるのか、何が危険なのすら分かるまい…よし、では我がこの国の案内しよう」
その言葉にピリカは素直に喜び、エルは驚愕の声を上げる。
龍は何かを念じるように目をと閉じると、その長く大きな龍の体が再び濃い霧で覆われ、次に霧が晴れるとピリカ達の目の前に、見た事も無い異国の衣装を身にまとった女巨人が姿を現した。その巨人は自分の体を確かめるように少し動いてからしゃがみ込んで、わくわくが止まらないといった様子のピリカと、驚きで固まってしまったエルに微笑みかける。
「巨人の国では巨人の体の方が何かと便利故、我はこの姿で参る。そなたたちは我に乗っておれ」
そう言って龍は掌をピリカとエルの前に差し出した。
「ありがとう龍さん」
素直にピリカはそう言って掌の上に乗る。一方のエルは掌に乗った後、躊躇しながら龍に問いかける。
「案内をどうして?」
「…この小さき者、面白いのでの。ほんの暇つぶしじゃ」
悪戯っぽく龍は笑い「これより我の事、アオと呼ぶがいい」と言い、二人を自分の肩へ乗せ、思い出したように二人に「巨人の前では出来るだけ人形のようにふるまうのじゃ」と注意を与えた。
龍——アオが言うように、ピリカやエルが動かずにいれば人形を肩に乗せている様にしか見えないので、巨人の世界ではその方が安全ではある。
「では、参ろうかの」
「はーい」
こうして旅に思わぬ案内人が加わる事となり、ピリカは楽しくなりそうだと、小さな胸に大きな期待を抱くのであった。
気温が低い地域だからか針葉樹が生い茂り、その木々の間から暖かい太陽の光が差し込み、背の低い植物たちも光のシャワーを全身に浴びていきいきと背伸びをしているようだった。そんな緑に覆われた森の斜面を小さな旅の妖精、コロボックルのピリカは、相棒の野ネズミ、エルと共に黙々と登っている。
「暑い~」
ピリカが我慢できなくなったように叫び声を上げた。
「こんなに暑いなんて聞いてない~」
駄々っ子の様に文句を言っているピリカの横を歩いていたエルが「僕たちが住んでいた場所に比べたら南にあるんだから、暑いのは当然だと思うよ」としたり顔で言う。
「う~」
ピリカは自分の頭に巻いていた渦模様の鉢巻を取り、腰に巻き付けながら恨めしそうに相棒を見る。
「エルはいいわよね、服着てないんだから」
「自前の毛皮だからね。最近夏毛に生え変わったし快適だよ」
「ずるい」
口を尖らせるとピリカは足を止め「なかなか湖に出ないね」とため息を漏らす。
青い龍が住むという湖を目指して山道を登り続けているが、一向に辿り着く気配がないので、ピリカは不安を覚えてきているようだった。
「今夜も野宿になりそうだね」
黄昏の国に到着してから野宿を繰り返していたが、今のところ脅威となる生き物や巨人とは遭遇はしていないが、知らない土地である以上、夜間は特に危険との隣り合わせなので警戒は怠れなかい。
「安全な場所で寝たいなぁ…」
そう呟くとピリカは再び歩き出した。
自然豊かな場所なので幸い飲み水や食料になる野草やキノコ、植物のタネなどが豊富にあるので困る事はなかったが、安心して眠れる場所を決めるのにいつも迷うピリカである。
しばらく歩みを進めているとエルがピリカに声を掛けた。
「…なんかいいにおいしない?」
「いいにおい?」
「うん…甘酸っぱいおいしそうなにおい」
野ネズミであるエルの嗅覚はピリカより数倍良いからか、エルはそう言うと甘酸っぱい香りの元の方向を鼻をひくつかせて探る。
「…あっち。行ってみる?」
エルの言葉にピリカは頷く。
漂ってくる香りを頼りに雑草の森を進むと、たくさん並ぶ赤い塊が目に飛び込んできた。
「すごい数の野イチゴ!」
エルが声を上げるとピリカははしゃぎ声を上げる。
「エルの鼻はすごいね。お食事にしましょ」
思わぬご馳走にピリカとエルは夢中で野イチゴの実を食べ始めた。良く熟した果実に齧りつくと実がはじけて甘酸っぱい香りのする果汁が飛び出す。
野イチゴの実をはじめ、果実類は寒い地方では夏の短い期間、しかも運よく見つける事が出来なければ口にできないご馳走なだけに、見知らぬ土地で見つけることが出来たのは幸運な事であった。
野イチゴの実は小人の妖精であるピリカにとっては一粒で満腹になるほどの量である。顔の周りを果汁でベタベタにしながらピリカは至福の表情を浮かべた。
ピリカよりは身体が大きいとはいえ野ネズミのエルの方も数個食べると満腹状態になったのか、満足そうに地面に転がる。
「苦しい…もう食べられない」
苦しそうではあるがエルの方も幸せそうである。
満腹状態では動く事もままならないので、成り行きで休憩する事になる。転がったエルの体にピリカはもたれ掛かる様に座るとそのままスヤスヤ寝息を立て始めた。
風に吹かれてざわめく野イチゴの森のささやきをBGMにして惰眠をむさぼっていると、地面を何か引きずる様な音が近ずいてくる事にエルが気が付いた。
「ピリカ、起きて!」
嫌な予感を覚えてエルが慌ててピリカを起こす。
「…うにゃ?」
揺り起こされてピリカは寝ぼけまなこをこすりながらエルに抗議をする。
「なあに? 気持ちよく寝てたのに…」
「目を覚まして。何か来る」
「…ん~?」
緊張感を隠せないエルとは対照的に、まだ頭が寝ているのかピリカはぼんやりとしていると、野イチゴの森が割れて大きなそれが姿を現した。
「蛇‼」
蛇はピリカやエルにとっては大変な脅威の存在である。蛇が口を開けば小さな妖精や野ネズミなどひと飲みされてしまう。
逃げなければと本能が警報を鳴らすが、蛇に睨まれたカエルの様に、恐怖の為か思うように体が動かない。
どうすれば逃げられるのかとエルが頭をフル回転させていると、ピリカがのんびりした声で蛇に話しかけた。
「ごきげんよう蛇さん。私達この山の上にあるという湖に行きたいのだけど、まだ遠いかしら?」
「…ちょっ」
危機感が全くないピリカの言葉にエルは仰天したが、ピリカはそれに構うことなくポーチの中から緑色の石を取り出し左手に乗せると、緑色の石を右手の手で撫でるような仕草をしながら歌うように言葉を紡ぎ始めた。
「大地の精霊よ契約に基ずいて力を貸したまえ…火と水と大地に愛と感謝と祝福を…」
ピリカの声に応えるように緑の石が柔らかい光を発し始め、それをピリカは鎌首をもたげじっとこちらを見つめていた蛇に向かって捧げ持つ。不思議な事に緑色の石に向かって蛇が頭をさげた。
「失礼いたしました…お土の神様のお友達でしたか」
「教えてくれるかしら?」
「はい。このまま登って行けば、あなた方の足だと夜が後二回来たぐらいには湖に着くと思います」
丁寧な言葉で蛇は妖精の質問に答えると、恐縮した様にその場でとどまる。
「ありがとう。もういいわ」
ピリカの言葉にホッとした様子で蛇はズルズルとその体を這わせて野イチゴの森の奥へ姿を消した。それを見届けたエルは緊張が解けたのかその場にへたり込む。
「…行った」
「このまま進んで大丈夫なんだって」
そう言ってピリカは無邪気に笑顔を見せる。
そんな彼女を横目で見ながらエルは複雑な表情で「…実はすごい人?」と自問するように呟く。
相棒の呟きに構うことなく、ピリカは寝ている間にすっかり乾いてベタベタになった野イチゴの実の汁を顔から落そうと躍起になっていた。
「あ~ん、取れない」
情けない表情で半べそをかいている小さな妖精を見ているうちにエルは悩むのがバカバカしくなる。
「ほら水場探すよ」
エルは笑いながらそう言うと、頼りになるのかならないのかよく分からないピリカを促した。そんなエルにピリカはこくんと頷くと黙って歩き出す。
小さな子供の様に素直なピリカを見て――やっぱり放っておけないよな…と自嘲気味に笑うしかなかった。
夏とはいえ、夜になると山の上の気温は一気に下がる。
日暮れ前に今夜野宿する場所を決めたピリカとエルは、集めた葉っぱを数枚重ねて、簡易ベットを作ると、その間に潜り込んで身を寄せ合い寒さをしのいでいた。
「…くしゅん」
ピリカが可愛らしいくしゃみをすると、エルは心配そうに妖精の顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「平気だよ」
ピリカはそう言うとエルの体に身を寄せ、褐色の野ネズミの毛皮に顔を埋め「お日様の香りがする」と幸せそうにつぶやく。
「お日様の香り?」
「うん。お日様に干したお布団みたいな香り」
「ふうん…」
野ネズミであるエルは布団を使う事ないので、彼女が何を言っているかわからないが、どうやら不快なにおいではないようだという事は察していた。
「お星さま見えるね…」
被っていた木の葉の隙間から空を見上げてピリカが呟く。
今夜は月が出ていないのか、木々の間から見える夜空の星はひときわ明るく輝いている様に見えた。空全体を見渡す事が出来ないのでどの星がどの星座のものかはわからなったが、星の瞬きはまるで宝石の様である。
「ねぇ…何かお話して」
エルに甘えるようにピリカが話しかける。
「話?」
「うん…」
「話と言ってもなぁ…」
少し困ったようにエルは考え込むと、昔聞いたという不思議な世界の話を静かに語り始めた。
あるところに一人の若者がいて、洞窟を見つけたので中がどうなっているのか気になったので、洞窟の奥に入って行くと、そこは見た事もない光景が広がっていたという。
「…どんなところだったの?」
ピリカが眠たそうに目をこすりながら尋ねてくる。
「真っ暗な場所のはずなのに、洞窟の中の床や壁、天井にはたくさんの星空が広がっていたんだ」
「お星さまが?」
「…そうお星さまがたくさん。あまりにも美しい光景に若者はそれに見とれていると、星たちの歌が聞こえてきたんだ」
その歌は「魂は箱舟に乗って過去現在未来へと旅を続ける。永遠の命を求めて――愛を力に光となる為に――」という歌詞だったという。
「光となる為…かぁ」
大あくびをしてピリカが小首を傾げる。
「命はみんな光り輝いてるのに…変なの」
歌詞の内容が引っ掛かるのか小さな妖精は歌詞の内容に対して素直な感想を述べると、瞼が重くなってきたのか静かに目を閉じる。
「…ありがと…もう寝るね」
そう言ってピリカはすぐに眠りに落ちた。そんな相棒の安らかな寝顔を見ながらエルはピリカとの出会った時の事を思い出していた。
最初にこの小さな妖精と出会ったのはかなり昔の話である。まだエルはやんちゃ盛りの若い野ネズミで群れの中でも乱暴者として有名だった頃の話である。
喧嘩に明け暮れる毎日だったのだが、ある日他の群れとの衝突があり、エルは集団に取り囲まれて瀕死の重傷を負った。森の中で動けなくなっていたところにまだ幼いピリカが通りかかったのである。
「痛そう」
そう言うと小さな妖精は薬草を探しに行ってくれ、血まみれのエルの怪我の手当をしてくれた。そしてエルが自分で動けるようになるまで毎日のように水や食料を届けてくれたのである。
最初は「自分には構うな」と意地を張っていたエルだったが、何を言っても気に留めず、無邪気なピリカと接しているうちに、固く閉ざしていたエルの心は次第に開き始めた。
「…警戒心ってものがピリカにはないもんな」
赤子の様な無防備なピリカの寝顔を見ながらエルはぼやくように呟く。たまにこの小さな妖精は天使なのか単なる馬鹿なのかわからなくなるのだが、そこが逆に彼女の可愛さでもあった。動けなくなっていた時に看病してくれた恩返しでではないが、それ以来、純粋過ぎて危なっかしいピリカとの付き合いは今も続いており、ついにはるばる異国の地にまで同行する事になったのだから、昔の荒れていた頃の自分の事を考えれば随分お人好しになったものだと思う。
「おかげで退屈しないけどな」
そう呟くとエルは明日に備えて静かに目を閉じた。
青い龍が住むという山の上の湖を目指しての登山は今日も続いていた。
「今日は歩きやすいね」
ピリカは歩きながら笑顔になる。彼女が言うように今日歩いている場所は下映えの草が昨日に比べてかなり少なくなっていたので、今日は効率よく先に進めていた。
「…少ないというより、地面がカチカチだから草が育たないんじゃないかな?」
エルはそう言うと進行方向の先の方に視線を走らせる。
「なんか不自然なんだよな。土がカチカチの場所のすぐ横には草がびっしり生えてるんだけど…」
不自然に見える風景の理由の原因がわからず野ネズミは首を傾げた。
「早く進めるんだからいいんじゃない?」
「なんか気になるんだよな」
無邪気なピリカとは対照的にエルの表情はさえない。
「あんまり悩むと禿るよ?」
からかうように小さな妖精はそう言うと鼻歌交じりに歩を進めた。
「…音聞こえない?」
しばらく歩いていると聞きなれない音がエルの耳に聞こえたので、歩みを止めピリカに尋ねる。
「音?」
「…なんか、ゴーって音…」
「う~ん?」
ピリカも立ち止まって耳を澄ます。風に吹かれて聞こえる木々のざわめきとは別に、エルが言うように聞きなれない何かの音が近ずいているようだった。
「…なんだろ?」
ピリカが不思議そうに首を傾げる。そうしている間にも謎の音が大きくなっている。
「嫌な予感がする…ピリカこっち」
エルはそう言うと、草むらの中に移動するようにピリカを誘導した。ピリカは訳が分からないまま素直にそれに応じて自分の背丈よりも大きな草が生い茂る中に移動する。
「大きな何かが来る」
見た事もないような巨大な塊がすごいスピードで近ずいてくるのを確認して、エルは緊張した面持ちでピリカに警戒を促した。正体不明の塊が草むらに身をひそめた妖精と野ネズミの前にその姿を現した。
「…でかい」
それは彼らの身の丈の数百倍はあると思われ、目の前を通過するとき地面が揺れ、すごい風が吹き抜ける。それは巨人たちが「車」と呼ぶものであったが、ピリカと野ネズミはその事を知る由もなかった。
「…なるほど、あれが通るから土が重みでカチカチになるんだな」
車が通りすぎた後、納得した様子でエルが呟く。
「おっきかったね」
驚きで目を丸くしてピリカがエルを見た。
「なんていう動物だろ?」
動いていたので、ピリカは黒くて大きな塊を動物だと判断したようだった。
「巨人以外にもあんな生き物がいるなんておじいちゃんから聞いた事あったか?」
困惑顔のエルに訊かれてピリカは大きく首を振った。
「そうか…何かはわからないけれど、あんな大きなものに踏まれたらひとたまりもないな」
強大な塊が通り過ぎた所だったのに、既に謎の大きな黒い塊の姿は見えなくなっている事にエルは驚く。
「また見られるかな?」
黄昏の国には知らない事や動物がたくさんいそうであると、ピリカは興奮を隠せない様子のピリカに対して、エルの表情は厳しく、気を引き締めなければと自分に言い聞かせているようであった。
「わぁ」
長い上り坂を昇り切り森が途切れた場所に出ると、今までとは違う光景が目の前に広がりピリカは歓声をあげた。
切り立った山々の斜面が夕日に照らされ赤く染まり、その下には大きな水たまり…いや、湖が広がっていた。
「あれがおじいちゃんが言っていた青い龍が住む湖…かな?」
ピリカが湖を見ながらキラキラと目を輝かせる。その横でやれやれといった風情で「そうだったらいいけどな…そうじゃなきゃ、ここまで登って来たのが無駄になる」とエルが苦笑いを浮かべた。
「大丈夫。青い龍が住む湖には、真ん中に島があるっておじいちゃんが言ってたもん…きっとあれ」
そう言いながら湖の中に浮かぶ小さな島を見てピリカは笑顔を見せた。
「青い龍さんかぁ、仲良くできたらいいな」
「そうだな…ただ今日会うのは無理そうだけど」
二人が話している間にも、どんどん日が落ちていく。暗くなるのも時間の問題だと思われた。とりあえず大きな岩のくぼみを今夜の野営場所に決めて、夕食の準備を始める。道中に摘んだ数種類の草の芽を焚き火で焼き、背負い袋から塩を取り出して焼けた木の芽にかけたものが今夜のごちそうだった。
「おいしい」
香ばしく焼けた木の芽にかぶりつき、ピリカが満足そうに微笑む。そんな相棒の横顔を見ながら「ほんと幸せそうに食べるな」とエルが笑った。
「うん。幸せだもん」とピリカが屈託のない笑顔を浮かべる。
ささやかな幸せを噛み締めながら夕食を楽しんでいたのだが、夜空を見上げていたエルがしきりに首を傾げ始めた。それに気が付いたピリカがどうしたのかと尋ねた。
「…いや、流れ星じゃない光が空を横切っていくんだ」
そう言って点滅を繰り返しながら真っ暗な夜空を横切っていく星を指し示す。
「ほんとだ…何だろうね?」
ピリカも夜空を見上げ首を傾げる。二人で話していても答えが出る訳でもないが、未知の世界の不思議な出来事について話し相手がいるだけでも、正体不明な体験についての不安感が少し和らぎを覚えるのだから不思議なものだった。
「青い龍さんに教えてもらうの」
「知ってるかな?」
「龍の一族はカムイの化身って言われてるからきっと知ってるよ」
自信満々でピリカはそう断言する。
ちなみに「カムイ」とはピリカ達が住む世界の「神様」という言葉で、彼らのカムイはどちらかと言うと万能な人格神と言うよりは、自然法則など、この世界を構成するあらゆるものが神であると信じられていた。化身になってようやく「個」や「人格」が伴ってくる独特の世界観である。
「青い龍さん…怖くなかったらいいな」
無邪気な様子でそう言うピリカにエルが「機嫌を損ねて食べられないようにな」とちゃちゃを入れる。
「ピリカ美味しくないもん」
「…龍の味の好みなんてわからないと思うぞ」
そう言って反論するコロボックルを見ながら、笑いをかみ殺すようにエルは喉を鳴らした。
「エルの意地悪」
手にしていた焼き木の芽を意地悪な野ネズミの口に押し込むとピリカは頬を膨らませてむくれる。
口いっぱいに詰め込まれた焼き木の芽を飲み込んだエルは楽しそうに笑い声をあげた。
こうして今夜も異国の地で過ごす夜は平和に更けてゆく――。
青い龍が住むという湖の水は澄んでいて、標高のせいか非常に冷たかった。
山々から流れ込む栄養豊富な水のおかげか魚たちが泳ぐ姿も見える。
日の出と共に目を覚まし、早い時間に野営地から出発したピリカ達が最初の目的地である湖に到着したのは、お日様が少し傾き始めた頃だった。
「これからどうするつもりなんだ?」
思ったより大きな湖を見渡しながらエルがピリカに尋ねる。
「…んと、たぶんあっち」
青い龍と出会ったのは、湖のほとりにある巨大な赤い柱に挟まれた場所にある異国の神殿という祖父の話を思い出して、ピリカはそれに当てはまりそうな建築物がある方角を指し示した。
山の上では見かける事が無かった巨大な建築物がいくつも湖の周りにそびえたっていて、巨人が動き回っている姿も目にするようになっている。森の木々に比べれば巨人たちは小さかったが、小さな妖精や野ネズミからすれば十分巨大で、その数も非常に多いと感じずにはいられなかった。巨人たちは残忍だと、この黄昏の国に送り届けてくれたシロイルカの話を聞いていたので、巨人に見つからないように移動を心がけていた。
この周辺では山の中で遭遇したすごい速度で移動する大きな塊の数も多く、身体の色やその姿かたちもさまざまである事に興味を持ったピリカは、じっとして動かない大きな塊に見上げるようにそれに声をかけた。
「ねぇ、起きて」
当然のことだが大きな塊は車なので返事をする事はない。
「ねぇ…ってば!」
「ピリカ。こいつ生き物じゃないぞ」
無反応なそれが無機物で固く冷たい事に気が付いたエルは、意地になって呼びかけ続けるピリカを制止すると小さな妖精は不思議そうな表情を浮かべる。
「…生き物じゃない?」
「石じゃないけど…この触った感じは金属?」
ピリカ達もわずかではあるが金属を加工して利用する文化を持っていたので、その存在は知っていたが、ここまで大きな金属の塊と見たり聞いたりした事はなかった。ましてや動く金属の塊など想像もつかないものである。
「…そんなの聞いた事ないよな?」
エルが自問するようにそう言うと首を振った。エンジンの概念すら無い彼らにとっては、金属の塊である車はただ奇妙で不思議な存在としか思えなかった。
「…行こう」
不思議そうに物言わぬ車を見上げているピリカを促して、エルは出来るだけ巨人から身を隠すようにして移動を始めた。さすがに巨人に発見されたり踏まれては危険だと理解しているのか、ピリカも黙ってついてくる。
植物の影や巨大な建造物の影を伝って移動を繰り返していると、香ばしい何かが焼けるにおいに気が付いてピリカが足を止めた。
「いい匂い」
小さな妖精はその香りの元に引き寄せられるようにふらふらと歩き出した。ピリカより鼻のいい野ネズミはその匂いに先に気がついていたが、巨人を警戒して黙っていたのに、ふらふら歩きだしたピリカに仰天して慌ててピリカを制止する。
「おい、ちょっと待て――」
「ん~。おいしそうなものありそうだよ?」
巨人への恐怖より食欲が勝るのか、食いしん坊の妖精は相棒が制止するのもかまわない様子だった。仕方なくエルは巨人の気配を警戒しながら妖精の後をついてゆく。
良い香りは巨人が作ったと思われる建造物の中から漂っていて、屋内外を隔てる巨大な扉が開いていたので、そのままピリカは中に入って行く。エルの方は直感的にそこが巨人の巣であると察して一瞬躊躇したが、ここまで来たらピリカとは一蓮托生である。勇気を出してピリカの後を追い、建物の中に飛び込んだ。
建物の中はひんやり涼しく太陽の光が入らないはずなのに何故か明るい。良い香りは大きな四角い柱が立ち並ぶ上から漂ってくるのだが、柱の上の天井の様なものが邪魔してみる事が出来なかった。
「登れない~」
恨めしそうに柱の上を見上げてピリカが不満そうに口を尖らせる。
「諦めた方がいいって」
「でも…」
諦めきれないのかピリカはその場を動こうとしない。どうやって諦めさせようかとエルが悩んでいると、大きな足音と共に巨人が姿を現した。巨人はピリカやエルの体の数十倍も大きく、巨人が少し動くだけでも大きな音と振動がして小さな妖精や野ネズミにとっては大変な脅威であった。
巨人に見つからないように素早く柱の陰に身をひそめたエルは、あんぐりと口を開けて巨人の大きさに驚いているピリカに隠れるように小声で隠れるように促す。エルの声で我に返った妖精は慌ててエルの傍へやってきた。
「あんなのに見つかったら俺たちじゃどうにもならない…行こうぜ」
声をひそめてエルがそう言うと、ピリカは「こんな大きな生き物がいるんだね」と目を丸くする。
「これだけ大きいんだから、いっぱい食べるんだろうね?」
柱の天井のさらに上にある料理をどうやら食べ始めたらしい巨人を見上げ、誰に問いかける訳でもなくピリカが呟いた。
「何食べてるのかなぁ」
「まだ諦めてないのかよ」
直接巨人が何を食べているのかはわからないが、相変わらずおいしそうな香りが漂ってくるので、指をくわえてぶつぶつ言っているピリカに呆れてエルはため息をついた。
「だっておいしそうな匂いだよ?」
「…確かにいい匂いなのは認めるけど、俺たちが食べる事なんて出来ないんだからさ」
「降ってこないかな?」
「ないない」
悩むことなく否定するエルの言葉にピリカは小さなため息をつくと、ようやく諦めがついたのか「行こう」という言葉を口にした。
食事を続ける巨人に気が付かれないようにそっと二人は移動を始める。建物の外へ出るとエルはひそめていた息を吐きだしてホッとした表情を浮かべる。
「見つからなくて良かった…」
ここは巨人が多いのだから、おいしそうな匂いだからといって勝手に動かないでくれとピリカに釘を刺すと、本来の目的地に向かって移動を始めた。
「龍さんって、巨人よりおっきいのかな?」
「伝説の存在なんだから俺が知る訳ないだろ?」
エルが無邪気な疑問に冷たく答えると、ピリカは「そうだよね」と納得顔になり、何が可笑しいのかクスクス笑う。
「…何が可笑しいんだよ?」
「ん~、つまらない事訊くなって顔してるのが面白いんだもん」
「ピリカの方は何もかもが面白くて仕方がないって顔してるけどな」
「うん、面白いよ」
皮肉を言ったつもりだったのだが、無邪気な妖精にあっけらかんと肯定されたエルは、黙って肩を竦めるしかなかった。
「ここかな?」
巨人よりも大きな赤い柱がそびえたつ場所に辿り着いたピリカは、柱を見上げて小首を傾げる。祖父の話通り、巨大な赤い柱が並び、その間に巨人達の住んでいる建物とも形や雰囲気は全く違う神殿と思しき建物がある場所である。不思議な事にその神殿の様な建物は巨人達の住居よりもかなり小さく、どちらかと言うと妖精が住むのにちょうどいい様なサイズだった。
「ピリカが言っていた、おじいちゃんの話の場所と一致はするみたいだけどな」
周囲を見回した後、エルはピリカを見る。
「とりあえず神殿まで行こ」
とことことピリカが異国の神殿に向かって歩き出す。周囲に巨人たちが居ないのを確認してエルも慌ててその後をついて行く。
「――んと、ここでは水の歌かな?」
神殿の前に立ったピリカはそう言うと、小物ポーチから青い石が付いた指輪を取り出し、それを右手の中指にはめると、静かに深呼吸をしてからおもむろに言葉を紡ぎ始めた。
「天の恵み、地の恵み――穢れ清め流れて時空の移ろいを刻む――ここに溢れる命あり――大いなる水の力に祈りを込めて命満ちん事を――」
歌うような妖精の声が湖に響き、それに合わせるように湖の奥にある島の方から霧が湧き出て、その濃度が少しずつ濃くなっていく。数分も経たないうちにあっという間に辺りは濃い霧に包まれた。
「——青い龍様、いらっしゃいましたらお姿を現して下さい」
湖の奥にまで響くような澄んだピリカの声が響く。彼女の言葉に呼応するように、霧が一か所に集まり、周囲よりもひときわ濃い霧の帯の様なものが姿を現した。帯の形は渦を巻いたり波打ったり、時々刻々とその形を変えてゆく。それの動きを見ていると霧の中から「我を呼ぶそこの小さき者…」という、低いがよく通る声が聞こえてきた。
「…遠い北の地に住むコロボックルのピリカと申します」
丁寧な言葉遣いでピリカは時々刻々とその形を変える霧に自己紹介をすると、霧の中から聞こえる声の主は「北の地のコロボックル…」と、呟くような言葉が聞こえた後、湖の真ん中にある島あたりだけ霧が薄くなり、その中から青い体と目をした長い体の大きな龍が姿を現した。蛇に似たその長い体を目にしたエルにさっと緊張が走る。そんな野ネズミのちょっとした変化を青い龍は見落とす事は無く、おもむろに口をひらいた。
「そこの者、我は蛇では無いので安心せい――」
「…」
龍は全てを見通す事ができるのかと、びっくりしたような表情をエルは浮かべる。
「蛇は二次元、龍は三次元——」
龍が言うように確かに蛇は地を這うのでその動きは二次元であるが、目の前の龍の体は空中に浮かび、その体の動きは三次元であった。
恐縮する野ネズミから小さな妖精に龍は視線を移すと、優しくピリカに語りかける。
「昔、お前と同じ北の地から来たというコロボックルに我は逢った事がある――名前は確か…」
「シクヌです…私の祖父」
「おお、そうか…あの妖精の孫か」
龍は懐かしいものを見るように目を細めてピリカを見た。
「あの者は健在か? それとも身罷ったか?」
龍の質問にピリカは「祖父は元気にしています」と答えてにっこりと微笑む。
「——して、北の地より何用じゃ?」
ピリカは祖父の話を聞き、見聞を広める為にこの黄昏の国に訪れたという説明をすると、龍は「そうか…」と言った後、少し何かを考える様子を見せた。
「百聞は一見に如かずではあるが…今となってはこの地はお前たちの様な小さき者にはいささか危険ではある」
「巨人ですか?」
龍の言葉を聞いてエルが訊ねると、龍は頷いて、今のこの国に住む巨人たちの話を始めた。
「巨人たちは随分変わったのだよ…昔はこの地に住む違う生き物たちとも仲良く暮らしていたのだが、今はこの地の支配者として傲慢な振る舞いが目に余る」
「…シロイルカから巨人は残忍で他の生き物の事など考えないと聞きました」
エルの言葉に龍は困った表情を浮かべる。
「残念だがその通りでな――地や水を毒で汚し、他の生き物を苦しめるだけでは飽き足らず、共食いを始めおった」
「共食い…巨人が巨人を食べるんですか?」
ゾッとした様子でエルは龍を見る。
「…そう言う意味ではなくてな、他の生き物を殺して食べ始めたんだよ」
龍の話によると、神から許された巨人の食べ物は植物なのに、今では他の動物を殺してそれを食べるのだという。
「植物も命だよ?」
話を聞いていたピリカが不思議そうに龍を見る。そんな妖精に龍は動物を生かす為に神が作ったのが植物で、動物とは魂のあり方が違うのだという。
「魂?」
ピリカとエルは顔を見合わせる。
「植物の魂は種族としての集合体なので、葉や実はお前たちで言う髪の毛や爪の様なもの…だから髪の毛や爪の先をいくら動物に食べられたとしても、魂が傷つく訳ではない」
「爪や毛…」
エルの呟きに応える事無く龍は言葉を続ける。
「一方、動物は一つの体に一つの魂が入っているので、巨人たちの食料として殺される時、苦痛や悲しみが伴うのだよ――」
どうやら巨人もまた動物であると龍は言いたいようだった。
「苦しみを与えれば苦しみが返って来るのに、それすら巨人たちは忘れてしまったようだ」という龍は苦々しかった。
「ん~、難しい話はよく分かんないけど、苦しいのや悲しいのは嫌ね」
ピリカがそう言うと、龍の眼が笑う。
「——小さき者、お前たちの一族はいつの世も純粋なのだな」
妖精達は常に自然がなければ、その存在自体が消えてしまう。自然とは支配するものではなく共に生きていく仲間という考えなので、自分のエゴの為に他を苦しませたり悲しみを与えるという事はピリカには考えられない事だった。
「この国の巨人達が悪鬼となりはてているのを知り、危険だと知ってもなお、この国の旅を続けるというのか?」
龍は小さな妖精を見据えて問いかける。その問いに対してピリカは迷うことなく頷いた。
「悪い巨人さんばかりじゃないかもしれないよ? ——それに…」
「それに?」
「悪い子になった理由があるかもしれない。それが判れば元の良い巨人さんになって、またみんなと仲良くできるようになるかも」
ピリカは真っ直ぐに龍を見返してそう言うと、龍は「そうか…」と言った後、何かを思いついたようだった。
「お前たちはこの国は初めて来たのだな?」
龍の問いかけにピリカとエルは頷く。
「どこに何があるのか、何が危険なのすら分かるまい…よし、では我がこの国の案内しよう」
その言葉にピリカは素直に喜び、エルは驚愕の声を上げる。
龍は何かを念じるように目をと閉じると、その長く大きな龍の体が再び濃い霧で覆われ、次に霧が晴れるとピリカ達の目の前に、見た事も無い異国の衣装を身にまとった女巨人が姿を現した。その巨人は自分の体を確かめるように少し動いてからしゃがみ込んで、わくわくが止まらないといった様子のピリカと、驚きで固まってしまったエルに微笑みかける。
「巨人の国では巨人の体の方が何かと便利故、我はこの姿で参る。そなたたちは我に乗っておれ」
そう言って龍は掌をピリカとエルの前に差し出した。
「ありがとう龍さん」
素直にピリカはそう言って掌の上に乗る。一方のエルは掌に乗った後、躊躇しながら龍に問いかける。
「案内をどうして?」
「…この小さき者、面白いのでの。ほんの暇つぶしじゃ」
悪戯っぽく龍は笑い「これより我の事、アオと呼ぶがいい」と言い、二人を自分の肩へ乗せ、思い出したように二人に「巨人の前では出来るだけ人形のようにふるまうのじゃ」と注意を与えた。
龍——アオが言うように、ピリカやエルが動かずにいれば人形を肩に乗せている様にしか見えないので、巨人の世界ではその方が安全ではある。
「では、参ろうかの」
「はーい」
こうして旅に思わぬ案内人が加わる事となり、ピリカは楽しくなりそうだと、小さな胸に大きな期待を抱くのであった。
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✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定)
✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです
✴︎なろうさんにも投稿しています
私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ
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