「さらら」~茶房物語~

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◆11杯目

~お茶仙人~

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 榛名が店を開店作業を終えたのとほぼ同時に店へやって来たのは、大きな紙袋を抱えたマダム——松井さゆみであった。
「おはようございます」
 さゆみは店に入って来てカウンターの中で作業をしていた榛名に挨拶をすると、カウンターに紙袋を置いてそのままカウンター席に腰を下ろす。
「いらっしゃいませ」
 榛名はさゆみに挨拶をした後、お冷とおしぼりをさゆみの前に置いた。
「あの…ハルさん、ちょっと教えて頂きたい事があるんですけど…」
 さゆみが遠慮がちに榛名にそう言うと、榛名は一瞬戸惑った様な表情を浮かべる。
「ええ…っと、何でしょうか?」
「これの使い方がわからないんで、教えていただければと思い、持って来たんですけど…」
 そう言いながらさゆみは、紙袋の中から美しい模様が入った二段重ねのポットを取り出した。それを見た榛名が目を丸くする。
「チャダインルックじゃないですか…どうしたんですかこれ?」
「主人が海外出張のお土産として買ってきてくれたんですけど、二段重ねのポットなんて初めてで…結衣に相談したら、さららのハルさんなら知ってるかもしれないって言っていたので、持って来たんです」とさゆみは事情説明をした。
「結衣…ああ、花屋の結衣ちゃんの事か――あ、思い出した。お客さん、前に結衣ちゃんと韓国旅行のお土産を一緒に持って来てくれたお友達でしたよね」
 ようやく自分の過去の記憶と目の前にいるさゆみが一致して、榛名がホッとした様な表情を浮かべた。
「ええ、そうです。思い出してくださってありがとうございます」
 さゆみが笑顔を浮かべると、榛名は「確か旦那さんが大学教授とか言ってましたっけ?」と訊く。
「はい、その主人が国際学会に出掛けて、お土産としてこれを買ってきてくれたんですけど、これの使い方がわからなくって…」
 困り顔のさゆみに榛名は「なるほど…」と呟くと、二段重ねのポットがどういったものなのか説明を始めた。
「これはトルコチャイ用のポットで、名前をチャイダンルックといいます」
「チャイダン…ルック…」
 さゆみはカバンから手帳を取り出すと、すかさずメモを取る。
「下のやかんで湯を沸かして、上のやかんで紅茶を抽出するんです」
 下のやかんは加熱をやめた後も余熱で上の紅茶が冷めにくくさせる役目があったり、抽出した紅茶を飲む時には、下のやかんの湯で好みの濃さに薄めるのだと榛名は言う。
「…紅茶を薄めるんですか?」
 不思議そうな顔をするさゆみに榛名は頷く。
「20~30分ほどかけて紅茶を抽出するかなり濃厚な紅茶なんで、飲みやすくする為にお湯で薄めるんです」
 榛名はそう言うと、ティーカップが並ぶ棚から美しい模様の高さ10㎝弱の小さなチューリップの形をしたグラスを取り出すと、さゆみの前に置いた。
「可愛いらしいグラスですね…これは?」
「チャイバルダックという、トルコチャイを飲む時に使うグラスです」
「へぇ…、トルコの人達って、ティーカップやマグカップに比べてかなり小さいグラスで紅茶を飲むんですね…」
 異国情緒あふれる模様が入った小さなグラスをしげしげと見ながらさゆみが呟く。
「トルコチャイはかなり渋くて苦いんで、この小さなグラスに紅茶を入れた後、角砂糖2個ほど入れて飲むのが一般的なんですよ。多い時にはこれで一日に20~30杯飲む事もあるとか」
「そんなにたくさん⁈ …あ、でも小さなグラスだから、続けて飲まなければ飲めない事はないか…」
「イスタンブールなんかの大都市だと、チャイバルダックじゃなく、マグカップで飲む事も多いらしいですがね」と榛名はそう言うと、「時間があるならこれで実際にトルコ式の紅茶を飲んでみますか?」とさゆみに提案をした。
「いいんですか?」
「うちは一向に構いませんよ――ただ飲むのに少なくとも2、30分は掛かりますが…」と言って榛名はさゆみを見る。
「時間に余裕はありますし、トルコチャイって飲んだ事が無いので、お願いできますか?」
 さゆみの言葉に榛名は頷くと、チャダインルックを手にした。
「このチャダインルックはきれいな模様が入っているんで、使わず飾っておくのも悪くはないですけど…いいんですね?」
 念のため榛名が確認をすると、さゆみは「こんな大きいものを飾る場所なんてうちにはありませんから」と言って朗らかに笑う。
「そういう事でしたら…」
 榛名はそう言うと、トルコチャイを入れる為の作業にとりかかった.

「トルコって言ったらトルココーヒーが有名なんで、トルコチャイなんてものがあるなんて私知らなかったわ…」
 チャダインルックで紅茶を抽出している間、スマホをいじっていたさゆみが独り言とも、話しかけているとも思える様な呟きを漏らすと、グラス磨きをしていた榛名がさゆみを見る。
「トルココーヒーというのは和製英語で、英語ではターキッシュ・コーヒーですね。――トルコで紅茶を日常的に飲む様になったのは第一次世界大戦が終わってからという話を聞いた事があります」
「第一次世界大戦の後から?」
「ええ、戦争でコーヒーの価格が高騰したり、オスマン帝国が崩壊してコーヒーの産地だった帝国の南東部を失った事もあって、コーヒーの代わりに紅茶を飲む様になったって話です」
 コーヒー1杯の価格でチャイなら4杯は飲めるほど、コーヒーは高級品だったのだという。
「そんなにも価格差があったなら、確かに安いチャイを選んじゃいますね」
 なるほどといった様子のさゆみに榛名は「黒海沿岸にリゼ県という紅茶の産地があったから、紅茶の入手が容易だったというのが大きかったんでしょう」と言う。
「チャイってインドの紅茶の事だとばかり思っていたから、トルコでも紅茶の事をチャイって言うのは不思議な感じですね」
 正直な感想を漏らすさゆみに、榛名はああ…といった表情を浮かべる。
「世界ではお茶を発音するのは「チャ」系統と「テー」系統に分かれるんですよ――中国を取り巻くアジア圏にある国では中国の北京語や広東語である「チャ」を使う事が多くて、ヨーロッパ圏にある国々では中国の福建省で使われている「テー」というお茶を意味する言葉を中国からお茶をヨーロッパに持ち込んだオランダ人によって広まったらしいです」
「じゃあ、どちらも元々は中国語だったんですね?」
「ええ…ただし、中国の国土は広いし少数民族も多いんで方言というか、地域によってさまざまな言葉があるんで、お茶を意味する言葉と言っても全く違うものになってしまったんでしょうね」
 それを聞いたさゆみは「日本の方言でも北と南では全然違う言葉ですもんね」と言って笑う。
「今では共通語としての標準語がテレビなんかを通して周知されているんで、言葉が通じないというトラブルは少なくなったみたいですけど、大昔はそんなものもなかったですからね」と榛名も笑った。
「チャイはチャ系統ってのはわかりましたが、チャイの「イ」はどこから来たんですか?」
 素朴な疑問を口にするさゆみに榛名が「それがよく分からないらしいんです」といって苦笑いを浮かべる。
「モンゴル語、ウイグル語、ヒンディー語(インドの北から中部地域で使われている言葉)、トルコ語、ペルシャ語、ロシア語はチャイ系統の音なんですが、どこでイが加わったのかは言語学者も解らないだそうで…」
「学者が何でも知っている訳じゃないですもんね」と言ってさゆみはクスッと笑った。
 そんな会話をしている間に紅茶の抽出開始時にセットしていたキッチンタイマーのアラームが鳴り始める。榛名はアラームを止めると、チャイダンルックの上のやかんの中の抽出した紅茶の状態を確認して、下のポットからお湯を注ぎ入れて濃度調整をする。
「とりあえず、角砂糖2個を入れて飲むのがスタンダードなんで添えておきますが、足りなかったら言って下さいね」と言いながら、チャイバルダックに入れたトルコチャイをさゆみの前に置いた。
「普通の紅茶に比べて香りも強いし、きれいな濃い赤色の紅茶ですね」
「現地ではタヴジャン・カヌ…うさぎの血のチャイというらしいです」
 それを聞いたさゆみは目を丸くする。
「うさぎの血の様に赤いと例えているだけで、実際に入っている訳じゃないから大丈夫です」
「…びっくりした」
 さゆみはそう言うと、とりあえず角砂糖を入れずにそっとチャイを口に含んだ。
「…あ、確かにこれはお砂糖を入れた方がいいかも」
 そう言うと、さゆみは添えられていた角砂糖を二つ小さなグラスの中に入れてスプーンでかき混ぜる。
「なるほど、すごく甘い紅茶になっちゃったけど、この方が確かに飲みやすいですね」
 そんな感想を口にしたさゆみに榛名が「現地では、これとすごく甘いお茶菓子でいただくうですよ」と言うと、さゆみは困惑した様に「お砂糖摂りすぎで太りそう…」と呟いた。
「確かに…健康が気になる人は砂糖を入れずに飲むらしいんで、その辺はお好みじゃないかな?」と榛名は言う。
「これミルクとかレモンを加えたりしないんですか?」
「トルコチャイの飲み方はストレートで入れるとしても砂糖だけなんで、現地でミルクティーやレモンティーを注文すると変な顔をされるそうです」
 それを聞いたさゆみはクスクス笑う。
「私、そういうの知らずに頼んで、変な顔されるタイプだから気を付けなきゃ」
「一言でお茶と言っても、国によって飲み方はいろいろありますからね――その違いを知るのも結構面白いものです」
 そう言って榛名は口元に微笑みを浮かべた。
「ハルさんって、お茶文化の先生になれるんじゃありません?」
 この店で世界のお茶文化の講座とかをすればいいのに…と言うさゆみに、榛名は笑いながら首を左右に振る。
「僕はそのチャイバルダックぐらいの小さな器の人間なんで、先生なんて柄じゃないですからね」
 しがない下町のお茶愛好家の親父でしかないと榛名は言う。
「ちょっと残念…ハルさんが講義する世界のお茶文化講座があれば、私、絶対受講するのに」
 本気で残念そうなさゆみに榛名は苦笑する。
「わざわざ講座なんて開かなくても、今日みたいに来てくれれば、僕が知っている事ならいつでもお教えしますよ」
「ハルさんってほんと変わってますよね…世の中、いかにして儲けるかしか考えていない人ばかりなのに」
 半分呆れたといった様子のさゆみに榛名は笑う。
「僕は雨風しのげる場所があって、今日食べていければそれで充分――今は大好きなお茶に囲まれて過ごせているのだから、これ以上の幸せはないですからね」
「ハルさんって仙人みたい」
「仙人いいですね――僕、お茶仙人目指そうかな」
 それを聞いたさゆみは声をたてて笑う。
「やっぱりハルさん変な人」
 茶房「茶螺々(さらら)」のマスターは、今でも十分お茶仙人だと思わずにはいられないさゆみであった。
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