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◆9杯目
~工芸茶~
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その日の茶房「茶螺々(さらら)」の店内は珍しく混みあっていた。
店内にある座敷席はすべて埋まっていて、店に入って来た男性客はカウンター席に少し空席がある状態に入り口付近で立ち止まり目を丸くする。
そんな男性客——常連客である森田悟の姿に気が付いた榛名がカウンターの中から声をかけた。
「いらっしゃい――カウンター席しか空いてないけどいいかい?」
「あ…はい。大丈夫です」
森田はそう答えると、空いているカウンター席に腰を下ろす。
「…今日はどうしたんです? これ?」
いつもは客の方が心配になるほど暇そうな店なので、驚きを隠せない様子で森田が榛名に尋ねた。
「猛暑が続いているせいかな? ここ数日、この時間帯は結構混みあうんだよ」
お冷と冷たいおしぼりを森田の前に置きながら榛名が答える。
「…ああ、外は灼熱地獄ですからねぇ」
森田が店内を見回すと、多くの客が冷たいお茶やかき氷、ところてんなどを注文して涼んでいるのが見て取れた。
「——かき氷比率高めですね」
「ここまで暑いと、さっぱりしている冷たいものが欲しくなるからね」
榛名がそう言いながら笑うと、森田は頷き返してメニュー表を手に取った。
「…決まったら呼んで」
席を立った座敷席の客の会計をする為に榛名は森田にそう言うと、レジに向かう。
何を注文しようかと森田がメニュー表を見ていると、新たな客が入って来て榛名が慌てて客が帰ったばかりの座敷席のかたずけをして客を案内しているのが聞こえてきた。
――マスターひとりじゃ大変だな…。
いつもと違っててんてこ舞いになっている榛名の様子に苦笑いしていると、自分の斜め後ろに気配を感じて森田は振り返った。
「あれ…花田さん?」
森田の背後に立っていたのは森田が勤務する塾の生徒——花田由宇で、自分の存在に気が付いたのが嬉しかったのか、目が合った瞬間満面の笑顔を浮かべる。
「…どうしてこんなところに?」
森田が怪訝な表情を浮かべていると、座敷席の方から由宇の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「由宇——お席空いたわよ。こっち」
「はぁい」
由宇は声の主——母親の香織に返事だけして、森田に「先生、休憩?」と訊く。
「…まあ、そんなところだよ。花田さんも?」と返すと由宇は大きく頷いた。
先程、やって来た新しい客は花田母子だったのかと森田が思っていると、なかなか席に来ない由宇のところに香織がやってくる。
「何ぐずぐずしてるのよ。こっちって…」
強い口調で娘の腕を引こうとした香織は、娘の側にいた森田と目が合った瞬間、その場で一瞬固まった。
「こんにちは」
にこやかに挨拶をした森田に香織は慌てて会釈を返し「いつも娘がお世話になっています」と言った後、娘を叱ろうとしていた所をみられたせいかバツが悪そうな表情を浮かべる。
「こんなところでお会いするなんて奇遇ですね――外、暑いから避難ですか?」
香織の気まずそうな様子を払拭する様に森田がそう言うと、由宇が嬉しそうに「かき氷食べにきたの」と答えた。
「そうか。かき氷冷たくておいしいもんね」
森田は由宇に微笑みながらそう言うと、香織が遠慮がちに「先生はこちらに良く来られるんですか?」と尋ねてくる。
「まあ、ちょくちょく…」と答えた森田は、花田母子の為のお冷とおしぼりを用意した榛名が、会話の邪魔をしない様に静かに待っている事に気が付いた。
「——あ、すみません」
森田が榛名に謝り、通路を塞ぐ形で立っていた花田母子に「話は席に着いてからにしませんか?」と提案をする。
「あ…気が付かなくてごめんなさい」
慌てた様子で香織は榛名に頭を下げると、由宇の手を引いて座敷席の方へ向かった。
「…僕、席をあちらに引っ越しします」
榛名に森田はそう言うと、自分のお冷とおしぼりを持って花田母子が座る座敷席に移動をする。
「…お邪魔します。改めましてこんにちは」
香織の対面の由宇の横に座る事になった森田が挨拶をすると、由宇は元気に「こんにちは」と挨拶を返し、香織は軽く頭を下げた。
そこに注文を取りに来た榛名に森田はジャスミンティー、香織はアイスのブレンドハーブティー、由宇はミルク抹茶のかき氷を注文をすると、榛名が「ジャスミンティーはアイス? ホット?」と訊いてくる。
「工芸茶のジャスミンティーある?」
「ああ、あるよ」
「じゃあ、それで」
「あいよ」
伝票に注文を書きつけてカウンターの中に榛名が戻って行くのを見送っていた森田に、香織が口を開いた。
「アイスかホットかって言われていたのに、工芸茶って言っただけでマスター行っちゃいましたけど、大丈夫ですか?」
それを聞いた森田は「ああ」といった表情を浮かべる。
「大丈夫。工芸茶はホットで飲むのが基本だから、マスターはちゃんとわかっています」
「工芸茶が何かよく分からないですけど、そうなんですね…。先生ってお茶にお詳しいみたいですけどお好きなんですか?」
「詳しいって程ではないとは思いますが、お茶は好きなのでここにはちょくちょく立ち寄ってます」と、はにかんだ笑顔を浮かべる森田に、香織は自分は最近この店の存在を知って気に入ったのだと言って微笑んだ。
「この店を気に入ったって事は、花田さんのお母さんもお茶好きなんですか?」
「はい。コーヒーとか紅茶とか外国の飲み物ってあまり好きではないし――よく変わっているってよく言われるんですけど、私、ケーキとかの生クリームが苦手なので、ここのお店って私には本当にありがたいお店なんです」
それを聞いた森田は自分も似たようなものだと言って笑う。
「一応、このお店でもコーヒーは飲めるけど、他の店では飲めないようなお茶のラインナップがここはすごいからね」
「それにご飯も美味しかったですし」
「ああ、ここのおにぎりとかお茶漬けも人気らしいですね」
「土鍋で炊いてるってマスターからお聞きして、私、感動しちゃって…」
すっかりこの店のファンになってしまったという話を香織がしていると、榛名が先に飲み物を運んできた。
香織の前にコースターを置いて、その上にアイスブレンドハーブティーが入ったグラスを乗せるとストローを添え、次に灰色の小さなピンポン玉の様なものが入った耐熱ガラス製のティーポットとカップ&ソーサーを森田の前に置いた。
「…中にボールが入ってるよ?」
森田の横に座って居た由宇が不思議そうな顔で首を傾げる。そんな由宇に森田は「これにお湯を入れたら不思議な事が起きるから」といって微笑んだ。
榛名は「——お嬢さん、これにお湯を入れたらすぐかき氷を作るから、もう少し待っていてね」と由宇に語り掛けると、森田の前に置かれたティーポットに熱湯を注ぎ入れ、カウンターの中に戻って行く。
ティーポットの中に注がれた熱湯は最初透明であったが、中に入っていた球体の周りが少しずつ黄色っぽい色に変わっていく。それと同時に球体は水分を含んで少しずつ膨張していくのが見て取れた。
「ボール大きくなってきた…」
お目当てのかき氷が来るまで球体の様子を観察する事に決めたのか、ティーポットの中を凝視していた由宇が呟く。
観察を続けていると、膨張した球体は時間が経つと共に少しずつ上部の方から剥がれていき、それは本来の姿——花がポットの中で咲いた。
「わぁ…お花だぁ。きれい~」
ティーポットの中に咲いた花に由宇は目を輝かせながら声を上げる。
「これは工芸茶と言ってね、こうやって花開いていくのを楽しむお茶なんだよ」
由宇に説明をすると、森田は花が咲いているポットから抽出した茶をカップに注ぎ入れた。
「先生ってお洒落なお茶をご存知なんですね…」
工芸茶の存在を初めて知ったのか、香織が意外そうな表情を浮かべて対面に座る森田の顔を見る。
「工芸茶は僕がお茶にハマりだした頃に偶然出会ったお茶で、初めて出会った時に、こんな芸術的なお茶があるんだと衝撃を受けた印象深いお茶なんです」と言って森田は笑った。
「お茶が芸術的…」
森田の表現がおかしかったのか香織はクスクス笑う。
「僕、変な事言いました?」
「…いえ、面白い表現をされるなぁって思っただけですから」
「?」
自分の言葉の何が面白い表現なのか解らず森田がきょとんとしていると、榛名が由宇が注文したミルク抹茶のかき氷を運んできた。
「わぁ、おっきぃ」
由宇は待ちかねたとばかりかき氷にスプーンを入れ、口に運ぶ。
「ちゅべたい…おいしい」
幸せといった表情を浮かべてかき氷を食べる娘に香織は微笑みを浮かべた。
しばしの沈黙の後、ポットの底に沈んでいる花を見た香織が疑問を口にする。
「あの…どうしてこれ、花茶じゃなく工芸茶って名前なんですか?」
「工芸茶も花茶の一種なんだけど、花茶ってのは花の香りを茶葉に移したものや、乾燥させた花びらと茶葉を混ぜ込んだもの、花びらそのものを煮出したものは全部花茶と呼ばれているみたいです」
ジャスミンティーはジャスミンの花の香りを茶葉に移したものか、乾燥させたジャスミンの花びらを茶葉と混ぜてあるのが一般的ではあるが、お土産やプレゼントなどで工芸茶のジャスミン茶は人気なのだと森田は言う。
「工芸茶ってのは、茶葉の中に乾燥させた花を糸で組み入れいるお茶なので…加工を重ねている事を表す為に「工芸」という言葉で説明しているんだと思うんですが…」
「そういう事だったんですね――お花が咲くお茶がある事すら知らなかったから、私、そんな違いがあるなんて知らなくて…」
「産地の中国でも工芸茶の存在を知らない人が多いんだから、日本人が知らなくて当然だと思います」
「本場の方達も知らないだなんて…なんだか不思議な感じですね」
意外といった表情を浮かべた香織に森田は「僕たちだって外国人に人気の日本の工芸品を全て知っている訳じゃないですから、それと同じかもしれないですね」と言って笑った。
そんな大人たちの会話をかき氷を食べながら聞いていた由宇が、食べる手を止めて森田にポットの中の花はどうするのかと尋ねる。
「え…どうするって…」
思いもよらぬ質問に森田は困惑する。
――今まで、花が咲く様子を楽しんでお茶を飲むだけで、底に残った花はそのまま捨ててたけど…本当にそれで良かった…の…か?
それまで飲み終わった後の花をどうするかなんて考えた事もなく、何の疑問も抱いていなかった森田は、教え子に自信を持ってどうするか答えられない事に愕然とした。
――捨てないとすれば、食べるって事か? …お茶に入っているって事は毒はないだろうけど、この花って食べられるんだろうか?
若干混乱気味に森田が思考を巡らせていると、食べ終わったかき氷の器を下げに来た榛名に由宇が同じ質問をぶつける。
「——ん? このポットの底のお花を最後どうするかだって?」
「うん、どうしちゃうの?」
そんな子供の素朴な疑問に榛名の答えは明快だった。
「お花さんお仕事をして疲れちゃったみたいだから、後で土に帰ってもらって休んでもらうんだ」
「土?」
「そう。植物にとって土はおうちだからね。お嬢さんだって学校が終わったらおうちに帰って休むだろ? それと同じさ」
「そっかー。おうちに帰るんだ」
榛名の説明に納得したのか由宇はそう言うと、役目を終えた花に話しかける。
「よかったね。もう少ししたらお家に帰って寝られるんだって」
その様子を見ていた森田と香織は顔を見合わせた後、榛名に説明を求める様な視線を送った。
「…ああ、うちじゃ茶葉とかの出がらしや生ごみはコンポストに入れて肥料にしてるんで、土に還してるってのは本当」
苦笑しながら説明をする榛名の言葉を聞いて、ようやく「土に帰ってもらう」という言葉の意味を森田と香織は理解をする。
「そっかぁ…僕は最後に食べるのかもしれないとか考えちゃってたんで、そうじゃなくて良かったです」
ホッとした表情の森田に榛名が笑う。
「食茶といって茶殻を食べる事もあるけど、この花は食べられなくはないだろうけど美味くはないと思うよ」
「…でしょうね」
我ながら馬鹿な事を真剣に悩んでいたと自嘲気味に嗤う森田に、「うちの子の質問に真面目な顔で返答を考えてるみたいだなって思ってたら、そんな事考えてたんだ」と香織は笑いをかみ殺すように呟いた。
「まいったなぁ――天然なのバレちゃいました?」
笑ってごまかそうとしている森田の様子がおかしかったのか、香織は笑いを我慢できなくなり噴き出す。
「…ママ、何がおかしいの?」
母が笑っている理由がわからないといった様子で由宇が訊くと、香織は涙目を拭いながら説明をする。
「由宇の塾の先生、怖い先生だったらちょっと嫌だなって思ってたけど、面白い先生で安心しちゃった」
「うん。森田先生は塾でも人気の先生だよ」
よくわかんない事呟いて一人で百面相してる変な先生なんだ…と由宇が付け加えて笑う。それを聞いた香織と榛名が笑い出した。
「ちょっ…森田さん」
保護者には優しくて真面目な先生という評判で通っている自分の塾内での奇行を暴露された森田は慌てる。そんな森田に榛名が「子供は正直だねぇ」と言って笑った。
――とほほ。
工芸茶の紹介や花茶のうんちくで株を上げたはずだったのに、気が付けば面白くて変な先生という印象を持たれてしまった森田は情けない表情を浮かべため息を吐いた。
店内にある座敷席はすべて埋まっていて、店に入って来た男性客はカウンター席に少し空席がある状態に入り口付近で立ち止まり目を丸くする。
そんな男性客——常連客である森田悟の姿に気が付いた榛名がカウンターの中から声をかけた。
「いらっしゃい――カウンター席しか空いてないけどいいかい?」
「あ…はい。大丈夫です」
森田はそう答えると、空いているカウンター席に腰を下ろす。
「…今日はどうしたんです? これ?」
いつもは客の方が心配になるほど暇そうな店なので、驚きを隠せない様子で森田が榛名に尋ねた。
「猛暑が続いているせいかな? ここ数日、この時間帯は結構混みあうんだよ」
お冷と冷たいおしぼりを森田の前に置きながら榛名が答える。
「…ああ、外は灼熱地獄ですからねぇ」
森田が店内を見回すと、多くの客が冷たいお茶やかき氷、ところてんなどを注文して涼んでいるのが見て取れた。
「——かき氷比率高めですね」
「ここまで暑いと、さっぱりしている冷たいものが欲しくなるからね」
榛名がそう言いながら笑うと、森田は頷き返してメニュー表を手に取った。
「…決まったら呼んで」
席を立った座敷席の客の会計をする為に榛名は森田にそう言うと、レジに向かう。
何を注文しようかと森田がメニュー表を見ていると、新たな客が入って来て榛名が慌てて客が帰ったばかりの座敷席のかたずけをして客を案内しているのが聞こえてきた。
――マスターひとりじゃ大変だな…。
いつもと違っててんてこ舞いになっている榛名の様子に苦笑いしていると、自分の斜め後ろに気配を感じて森田は振り返った。
「あれ…花田さん?」
森田の背後に立っていたのは森田が勤務する塾の生徒——花田由宇で、自分の存在に気が付いたのが嬉しかったのか、目が合った瞬間満面の笑顔を浮かべる。
「…どうしてこんなところに?」
森田が怪訝な表情を浮かべていると、座敷席の方から由宇の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「由宇——お席空いたわよ。こっち」
「はぁい」
由宇は声の主——母親の香織に返事だけして、森田に「先生、休憩?」と訊く。
「…まあ、そんなところだよ。花田さんも?」と返すと由宇は大きく頷いた。
先程、やって来た新しい客は花田母子だったのかと森田が思っていると、なかなか席に来ない由宇のところに香織がやってくる。
「何ぐずぐずしてるのよ。こっちって…」
強い口調で娘の腕を引こうとした香織は、娘の側にいた森田と目が合った瞬間、その場で一瞬固まった。
「こんにちは」
にこやかに挨拶をした森田に香織は慌てて会釈を返し「いつも娘がお世話になっています」と言った後、娘を叱ろうとしていた所をみられたせいかバツが悪そうな表情を浮かべる。
「こんなところでお会いするなんて奇遇ですね――外、暑いから避難ですか?」
香織の気まずそうな様子を払拭する様に森田がそう言うと、由宇が嬉しそうに「かき氷食べにきたの」と答えた。
「そうか。かき氷冷たくておいしいもんね」
森田は由宇に微笑みながらそう言うと、香織が遠慮がちに「先生はこちらに良く来られるんですか?」と尋ねてくる。
「まあ、ちょくちょく…」と答えた森田は、花田母子の為のお冷とおしぼりを用意した榛名が、会話の邪魔をしない様に静かに待っている事に気が付いた。
「——あ、すみません」
森田が榛名に謝り、通路を塞ぐ形で立っていた花田母子に「話は席に着いてからにしませんか?」と提案をする。
「あ…気が付かなくてごめんなさい」
慌てた様子で香織は榛名に頭を下げると、由宇の手を引いて座敷席の方へ向かった。
「…僕、席をあちらに引っ越しします」
榛名に森田はそう言うと、自分のお冷とおしぼりを持って花田母子が座る座敷席に移動をする。
「…お邪魔します。改めましてこんにちは」
香織の対面の由宇の横に座る事になった森田が挨拶をすると、由宇は元気に「こんにちは」と挨拶を返し、香織は軽く頭を下げた。
そこに注文を取りに来た榛名に森田はジャスミンティー、香織はアイスのブレンドハーブティー、由宇はミルク抹茶のかき氷を注文をすると、榛名が「ジャスミンティーはアイス? ホット?」と訊いてくる。
「工芸茶のジャスミンティーある?」
「ああ、あるよ」
「じゃあ、それで」
「あいよ」
伝票に注文を書きつけてカウンターの中に榛名が戻って行くのを見送っていた森田に、香織が口を開いた。
「アイスかホットかって言われていたのに、工芸茶って言っただけでマスター行っちゃいましたけど、大丈夫ですか?」
それを聞いた森田は「ああ」といった表情を浮かべる。
「大丈夫。工芸茶はホットで飲むのが基本だから、マスターはちゃんとわかっています」
「工芸茶が何かよく分からないですけど、そうなんですね…。先生ってお茶にお詳しいみたいですけどお好きなんですか?」
「詳しいって程ではないとは思いますが、お茶は好きなのでここにはちょくちょく立ち寄ってます」と、はにかんだ笑顔を浮かべる森田に、香織は自分は最近この店の存在を知って気に入ったのだと言って微笑んだ。
「この店を気に入ったって事は、花田さんのお母さんもお茶好きなんですか?」
「はい。コーヒーとか紅茶とか外国の飲み物ってあまり好きではないし――よく変わっているってよく言われるんですけど、私、ケーキとかの生クリームが苦手なので、ここのお店って私には本当にありがたいお店なんです」
それを聞いた森田は自分も似たようなものだと言って笑う。
「一応、このお店でもコーヒーは飲めるけど、他の店では飲めないようなお茶のラインナップがここはすごいからね」
「それにご飯も美味しかったですし」
「ああ、ここのおにぎりとかお茶漬けも人気らしいですね」
「土鍋で炊いてるってマスターからお聞きして、私、感動しちゃって…」
すっかりこの店のファンになってしまったという話を香織がしていると、榛名が先に飲み物を運んできた。
香織の前にコースターを置いて、その上にアイスブレンドハーブティーが入ったグラスを乗せるとストローを添え、次に灰色の小さなピンポン玉の様なものが入った耐熱ガラス製のティーポットとカップ&ソーサーを森田の前に置いた。
「…中にボールが入ってるよ?」
森田の横に座って居た由宇が不思議そうな顔で首を傾げる。そんな由宇に森田は「これにお湯を入れたら不思議な事が起きるから」といって微笑んだ。
榛名は「——お嬢さん、これにお湯を入れたらすぐかき氷を作るから、もう少し待っていてね」と由宇に語り掛けると、森田の前に置かれたティーポットに熱湯を注ぎ入れ、カウンターの中に戻って行く。
ティーポットの中に注がれた熱湯は最初透明であったが、中に入っていた球体の周りが少しずつ黄色っぽい色に変わっていく。それと同時に球体は水分を含んで少しずつ膨張していくのが見て取れた。
「ボール大きくなってきた…」
お目当てのかき氷が来るまで球体の様子を観察する事に決めたのか、ティーポットの中を凝視していた由宇が呟く。
観察を続けていると、膨張した球体は時間が経つと共に少しずつ上部の方から剥がれていき、それは本来の姿——花がポットの中で咲いた。
「わぁ…お花だぁ。きれい~」
ティーポットの中に咲いた花に由宇は目を輝かせながら声を上げる。
「これは工芸茶と言ってね、こうやって花開いていくのを楽しむお茶なんだよ」
由宇に説明をすると、森田は花が咲いているポットから抽出した茶をカップに注ぎ入れた。
「先生ってお洒落なお茶をご存知なんですね…」
工芸茶の存在を初めて知ったのか、香織が意外そうな表情を浮かべて対面に座る森田の顔を見る。
「工芸茶は僕がお茶にハマりだした頃に偶然出会ったお茶で、初めて出会った時に、こんな芸術的なお茶があるんだと衝撃を受けた印象深いお茶なんです」と言って森田は笑った。
「お茶が芸術的…」
森田の表現がおかしかったのか香織はクスクス笑う。
「僕、変な事言いました?」
「…いえ、面白い表現をされるなぁって思っただけですから」
「?」
自分の言葉の何が面白い表現なのか解らず森田がきょとんとしていると、榛名が由宇が注文したミルク抹茶のかき氷を運んできた。
「わぁ、おっきぃ」
由宇は待ちかねたとばかりかき氷にスプーンを入れ、口に運ぶ。
「ちゅべたい…おいしい」
幸せといった表情を浮かべてかき氷を食べる娘に香織は微笑みを浮かべた。
しばしの沈黙の後、ポットの底に沈んでいる花を見た香織が疑問を口にする。
「あの…どうしてこれ、花茶じゃなく工芸茶って名前なんですか?」
「工芸茶も花茶の一種なんだけど、花茶ってのは花の香りを茶葉に移したものや、乾燥させた花びらと茶葉を混ぜ込んだもの、花びらそのものを煮出したものは全部花茶と呼ばれているみたいです」
ジャスミンティーはジャスミンの花の香りを茶葉に移したものか、乾燥させたジャスミンの花びらを茶葉と混ぜてあるのが一般的ではあるが、お土産やプレゼントなどで工芸茶のジャスミン茶は人気なのだと森田は言う。
「工芸茶ってのは、茶葉の中に乾燥させた花を糸で組み入れいるお茶なので…加工を重ねている事を表す為に「工芸」という言葉で説明しているんだと思うんですが…」
「そういう事だったんですね――お花が咲くお茶がある事すら知らなかったから、私、そんな違いがあるなんて知らなくて…」
「産地の中国でも工芸茶の存在を知らない人が多いんだから、日本人が知らなくて当然だと思います」
「本場の方達も知らないだなんて…なんだか不思議な感じですね」
意外といった表情を浮かべた香織に森田は「僕たちだって外国人に人気の日本の工芸品を全て知っている訳じゃないですから、それと同じかもしれないですね」と言って笑った。
そんな大人たちの会話をかき氷を食べながら聞いていた由宇が、食べる手を止めて森田にポットの中の花はどうするのかと尋ねる。
「え…どうするって…」
思いもよらぬ質問に森田は困惑する。
――今まで、花が咲く様子を楽しんでお茶を飲むだけで、底に残った花はそのまま捨ててたけど…本当にそれで良かった…の…か?
それまで飲み終わった後の花をどうするかなんて考えた事もなく、何の疑問も抱いていなかった森田は、教え子に自信を持ってどうするか答えられない事に愕然とした。
――捨てないとすれば、食べるって事か? …お茶に入っているって事は毒はないだろうけど、この花って食べられるんだろうか?
若干混乱気味に森田が思考を巡らせていると、食べ終わったかき氷の器を下げに来た榛名に由宇が同じ質問をぶつける。
「——ん? このポットの底のお花を最後どうするかだって?」
「うん、どうしちゃうの?」
そんな子供の素朴な疑問に榛名の答えは明快だった。
「お花さんお仕事をして疲れちゃったみたいだから、後で土に帰ってもらって休んでもらうんだ」
「土?」
「そう。植物にとって土はおうちだからね。お嬢さんだって学校が終わったらおうちに帰って休むだろ? それと同じさ」
「そっかー。おうちに帰るんだ」
榛名の説明に納得したのか由宇はそう言うと、役目を終えた花に話しかける。
「よかったね。もう少ししたらお家に帰って寝られるんだって」
その様子を見ていた森田と香織は顔を見合わせた後、榛名に説明を求める様な視線を送った。
「…ああ、うちじゃ茶葉とかの出がらしや生ごみはコンポストに入れて肥料にしてるんで、土に還してるってのは本当」
苦笑しながら説明をする榛名の言葉を聞いて、ようやく「土に帰ってもらう」という言葉の意味を森田と香織は理解をする。
「そっかぁ…僕は最後に食べるのかもしれないとか考えちゃってたんで、そうじゃなくて良かったです」
ホッとした表情の森田に榛名が笑う。
「食茶といって茶殻を食べる事もあるけど、この花は食べられなくはないだろうけど美味くはないと思うよ」
「…でしょうね」
我ながら馬鹿な事を真剣に悩んでいたと自嘲気味に嗤う森田に、「うちの子の質問に真面目な顔で返答を考えてるみたいだなって思ってたら、そんな事考えてたんだ」と香織は笑いをかみ殺すように呟いた。
「まいったなぁ――天然なのバレちゃいました?」
笑ってごまかそうとしている森田の様子がおかしかったのか、香織は笑いを我慢できなくなり噴き出す。
「…ママ、何がおかしいの?」
母が笑っている理由がわからないといった様子で由宇が訊くと、香織は涙目を拭いながら説明をする。
「由宇の塾の先生、怖い先生だったらちょっと嫌だなって思ってたけど、面白い先生で安心しちゃった」
「うん。森田先生は塾でも人気の先生だよ」
よくわかんない事呟いて一人で百面相してる変な先生なんだ…と由宇が付け加えて笑う。それを聞いた香織と榛名が笑い出した。
「ちょっ…森田さん」
保護者には優しくて真面目な先生という評判で通っている自分の塾内での奇行を暴露された森田は慌てる。そんな森田に榛名が「子供は正直だねぇ」と言って笑った。
――とほほ。
工芸茶の紹介や花茶のうんちくで株を上げたはずだったのに、気が付けば面白くて変な先生という印象を持たれてしまった森田は情けない表情を浮かべため息を吐いた。
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