「さらら」~茶房物語~

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◆7杯目

~昆布茶とコンブ茶~

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 夕方までまだ少し時間がある三時過ぎ、茶房「茶螺々(さらら)」の窓際の座敷席で静かにお茶を飲みながら読書をする一人の女性客の姿があった。
 彼女の前には紅茶が入ったティーサーバーとティーセットが置かれており、読書の合間に思い出したようにティーカップに口をつけては、本のページを静かにめくる。
 そんな女性客に対して榛名は迷惑そうにする様子もなく、カウンターの棚に並べている各種のお茶が入っているキャニスター缶の中身の残量を確認していた。
 穏やかで静かな時間が流れる店内に常連客の結城一馬がふらりと入って来ると、いつもの指定席に腰を下ろす。
「…おつかれさん」
 榛名がそう言いながらお冷とおしぼりを置くと、店内を見回していた一馬が意外そうな表情を浮かべて口を開いた。
「窓際のあの子、駅前の大衆居酒屋の香奈ちゃんだよね? ここよく来るの?」
「ん?…一馬君の知り合い?」
「知り合いっていうか、俺ちょくちょく居酒屋には飲みに行くからね」
「へぇ、そうなのか。僕はあんまり居酒屋とかには行かないからなぁ…彼女、駅前の大衆居酒屋の子だったのか…」
「あの子、愛想が良くていい子なんだよな…お茶を飲みながら読書をするタイプだとは思わなかったから、ちょっと意外…」
 一馬はそう言うと、昆布茶を注文した。
 榛名が昆布茶を入れていると、読書をしていた女性客——白原香奈は読んでいた本を閉じ、ティーカップに残っていた紅茶を飲もうとして、自分の様子を見ていた一馬の視線に気が付き「…あ」と小さな声を漏らす。
「こんなところで遇うなんて奇遇だね」
 手を軽く上げて一馬は香奈に声をかけると、香奈はにっこりと笑みを浮かべながら頷いた。
「…こんにちは」
「今夜は休み?」
「いえ、今から出勤です」
 香奈は一馬にそう答えると、本をカバンの中に入れて席を立つ。
「開店時間までまだ結構あるのに?」
「開店前の仕込みがあるんで」
 伝票を手に香奈が一馬に説明をしていると、榛名が昆布茶が入った湯呑とお茶菓子のせんべいを一馬の席に置いた。
「…湯呑…ですか」
 自分と違ってティーセットでお茶が提供されなかったのを見た香奈が不思議そうに呟く。
「…ああ、俺が頼んだの昆布茶だから」
「え…昆布茶⁈」
「あれ? 香奈ちゃん、メニューに昆布茶があるの知らなかった?」
 驚きを隠せない様子の香奈に一馬が訊くと、香奈は大きく頷く。
「緑茶や玄米茶なんかの日本茶があるのはメニューをちらっと見て知ってましたけど、昆布茶があるのは知らなかったです」
 香奈がいつも注文するのは紅茶であったので、他に何があるかまでは興味を持って見ていなかったらしい。
「メニューには出汁茶のカテゴリーに乗せてあるよ」
 榛名が笑いながら説明をすると、一馬がメニュー表を開いて出汁茶のカテゴリーの部分を指さした。
「昆布茶、梅昆布茶、椎茸茶…鰹節茶にトマト茶⁈」
 出汁茶の中に想像がつかないトマト茶の文字を目にした香奈は「トマトジュースじゃなくトマト茶って…」と呟いて困惑の表情を浮かべる。
「…ああ、トマトにはうまみ成分であるグルタミン酸やグアニル酸、グルタミン酸が豊富なんで、乾燥トマトを粉末にしたものを湯で溶いてお茶として扱っているんだ」
「乾燥トマト…」 
「うまみ成分が多い食材は乾燥させると旨味が凝縮されるんだよ――だから昆布や椎茸、鰹節といったものは全部乾物だろ?」
「言われてみれば…」
 榛名の説明に香奈は納得の表情になる。
「旨味を楽しむ食文化は、世界的に和食とフランス料理だけって言われているそうだよ」
「あれ? 海外のセレブとかに昆布茶が流行してるって話をどこかで聞いた様な気が…」
 一馬の言葉を聞いた榛名が笑う。
「それってコンブ茶の事じゃないのか?」
「そそ、それそれ」
「…言っておくけど、コンブ茶と昆布茶は全く別物だぞ」
「え?」
 榛名の言葉の意味が分からないといった様子の一馬を見た香奈は、思わず噴き出した。
「海外セレブに人気のコンブ茶は、お砂糖を入れた紅茶や緑茶にスコビーとかいう菌を入れて発酵させたものって雑誌に書いてありましたよ~」
「え? 昆布入ってないの?」
 一馬の疑問に榛名と香奈は声をそろえる様に「入っていない」と答える。
「コンブ茶自体は元々東モンゴル発祥の発酵ドリンクだからね――ほら、昔、日本でも紅茶キノコってのが流行っただろ? あれが今はコンブ茶という名前で呼ばれているんだ」
「なんでまた紅茶キノコがコンブなんて名前に?」
 意味が分からないといった顔の一馬に榛名が説明をする。
「韓国では菌の事をKOMと発音するそうで、日本でブームだった紅茶キノコが韓国経由でアメリカに渡って菌のお茶って事でKOMTEAーーコンブ茶って名前で呼ばれる様になったそうだよ」
「コンブ茶って美容やダイエットにいいって言われていますからね――韓国と言えば美容大国って印象だからウケたのかも…」
 榛名と香奈の説明を聞いた一馬は「紅茶キノコって名前のママだったら、マズそうな印象だしそんなに人気が出なかったかもな」と複雑な表情を浮かべる。
「紅茶キノコがコンブ茶に名前を変えても発酵食品には変わりが無いんだから、体にいいと思うけどね」
 苦笑する榛名の話を聞いていた香奈が声を上げる。
「あ、発酵食品と言えば…店のぬか床からぬか漬け上げなきゃ古漬けになっちゃう…」
 すっかり忘れる所だったと、香奈はティーチケットで紅茶代の清算を済ませると、バタバタと出て行った。
「へぇ、香奈ちゃんの所の漬物美味いと思っていたら、自家製のぬか床で漬けてたのか…」
 香奈を見送った一馬が感心した様に呟くと、榛名が日本での紅茶キノコブームが終わった理由を説明する。
「自家製の紅茶キノコを飲んで腹を下す人が多くなったのが理由だったらしいよ」
「食中毒で?」
 一馬の質問に榛名は首を振る。
「雑菌繁殖も疑われたけど、学者による検証実験で雑菌の繁殖は認められなかったらしいから。原因はカフェインの量が濃すぎたのか、発酵しすぎて酸が強くなりすぎたのか、発酵で生じるアルコール濃度が高かった可能性もあるとは言われているけれどね」
 それを聞いた一馬は作り方のマニュアルは無かったのかと訊く。
「工場なんかで造られているものならそういうのもあるだろうけど、自家製となればレシピはあっても発酵に重要な温度湿度の管理までは厳密にはできないだろうからね」
「そんなもんなんだ…となると、世の中の漬物名人ってのはすごいんだな」
「勘と経験がものをいう世界なんだろうな…お茶の世界もそうだけれど、それを身に付けるってのはなかなか難しいと僕は思うよ」
 榛名の言葉を聞いて一馬はすっかり冷めてしまった昆布茶を飲み干す。
「この昆布茶みたいに冷めても味わいのある仕事が出来るようになりたいとは思うけど、なかなか難しいな」
「仕事そうだけど、僕は噛めば噛むほど旨味がある人間になりたいね」
 榛名の言葉に一馬は苦笑いを浮かべて頷くしかなかった。
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