化身

堂月稀葉

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「最近、増えたね」
 壊れた賽銭箱の前で熱心に手を合わせた村人が、鳥居をくぐって行くのを岩陰から見送った少女はようやく口を開いた。
 みおがこの村で迎える、3度目の夏が来た。相も変わらず社に通う少女の言葉に、泉の辺に座って足だけ水に浸していた童は「そうじゃの」と村人が去った方をちらと見遣る。
「日頃からああして信心しておれば、我にも今少し力が宿ったものを」
 璃卯は己の足の動きが作り出す波紋に、視線を落としたままだ。
「信心しておればって、神様みたいなこと言うね」
「おまえ……」
 こちらを見つめてふたつほど瞬きした彼は、「我をなんだと思っていたのじゃ?」と眉をひそめた。その顔を凝視しながら考える。
 いつも泉の近くにいて、時々は村を散歩している気ままな存在。優しいことはあまり言ってくれないけれど思いやりがあって、冷たい手はいつだってみおを温めてくれる。そして、出逢った時と少しも変わらないその姿は、自分とは決定的に違う時間を生きている証だ。それにしたって、まさか神様だなんて、これまで考えてもみなかったことだ。
「本当に、神様なの?」
「知らぬまま、ノコノコとここに通っていたのか。我が人喰いでなかったのを、せいぜい有り難く思うのだな」
 ため息をつく璃卯の気配を感じながら、(神様かぁ……)とみおも内心こっそりため息を落とす。 
 そうでなくとも遠い存在が、ますます遠のいたような心地になりながら「璃卯がそんなことしないってことは、知ってるもん」と唇を尖らせた。
 ふて腐れたように言うみおに、璃卯は口を開きかけて、結局なにも言わずにそのままごろりと体を横たえた。泉に足を入れたまま、草の上に横になる存在が神様というのは、どうも実感がわかない。
「ねぇ。みんながお社をちゃんと拝んでたら、どうなったの?」
「村の者らが今少し信心深ければ、井戸は枯れなかったろう。先代の神が隠れたのは、村の衆がここを奉り捨てたからじゃ」
「だったら、もしもみんなが毎日ちゃんと拝んでたら、今でもここには前の神様がいて、璃卯はここに来なかったってこと?」
「無論。先代の神がおれば、我は天帝に呼ばれなかったからの」
 みんなが信心深くなくてよかった、とこっそり思う。村人がこの社を放って置くようになったからこそ、みおは璃卯と出逢えたのだ。
「信じる者が減り奉り捨てられれば、加護する力は減る一方じゃ。力が減れば己の身をすり減らし、やがては消える。社の主とはそういうものじゃ」
「璃卯も? みんながちゃんと拝んでいないと、璃卯も消えちゃう?」
「消える。今、この社と深く結びついておるのは我じゃからの。もっとも、この身がすり減るより先に、社が朽ち落ちて、道連れになる方が先やも知れぬがの」
「そんな……」
 そういえばあの雪の日も、璃卯はそんなことを言っていた。

『我がここからいなくなるのは、消えてなくなる時くらいじゃ』
 
『おまえが生きてるうちは平気じゃろ。この社を壊してなくすことでもない限り、そんなことも起こらぬわ』

「祈りは力になる。力が増えれば、この地と我との結びつきも強まり、井戸を涌かせるくらい造作もないんだがの」
 璃卯が消えてしまう。考えただけで、体が震えそうになる。みおが生きているうちは平気だと言ったって、本当に大丈夫かはわからない。璃卯がいなくなってしまったら、ひとりぼっちになってしまう。
(──違う)
 ひとりぼっちになってしまうからじゃない。ただ、彼が消えてしまうのが嫌なのだ。
「聞いておるのか?」
 立ち尽くすみおを不審に思ったのか、璃卯が身を起こした。水底のように深い青がじっとこちらを見ているのに気付き、うん、と頷いた。
「もっと早く教えてくれてたら、私も来るたび祈ったのに」
 ここにはもう数え切れないほど通ったけれど、考えてみれば社に手を合わせたことは1度もない。たったひとりの祈りなんてささやかかもしれないけれど、それでも、今までそうしてこなかったことが口惜しい。
「みおはよいのじゃ」
「なんで? 私だって」
「祈るかたちはどうでもよいのじゃ。たとえ社に足を運ばずとも、ただ心に我を置き、思う心があればそれでよい」
 言いながら、璃卯は再びその身を地面に横たえた。そんな彼の顔を覗き込むように、少女は白銀の髪の傍らに跪く。
「だったら……だったら私はいつもとっても想っているよ?」
 想いを込めて囁くと、一瞬目を瞠った璃卯は少し困ったように笑んで、「そうか」と寝そべったまま少女の肩に零れる黒髪にさらりと触れた。
 璃卯は、時々こんな表情をする。だから、いつも結局それ以上のことが言えないのだ。
 それでも、こんな言葉なら困らせずに済むだろうか。
「すごく、想ってるよ」
「そうか」
「すごくすごく……」
「わかった、わかった。拝まずとも、ここに通うのはおまえくらいだったからの。どれ、試しに願い事を言うてみよ」
 寝そべったままグンと伸びをした璃卯は、ころりと体を反転させると少女から身を離すようにして体を起こした。後ろ手に地面についた手に体重を預けるようにして、首だけ巡らせた神様はそう言って軽く口の端を引き上げた。
「叶えてくれるの?」
「聞くだけ聞いてやろう」
 穏やかな声音に、とくんと鼓動が跳ねる。聞いて欲しいことなら、ある。
 大好き、とただ伝えたい。璃卯が人でなくとも、同じ時間を生きられなくても、それでも傍にいたい。
 乾く唇をそっと舐めて、みおは恐る恐る口にした。
「聞いたら、叶えてくれなくちゃいけないんだよ」
「ならば──……ならば聞かずにおこう」
 一度仰向いて空を見遣った神様は、喉で笑って再び己の足が作り出す波紋に視線を落とした。
 少女の胸に灯った希望は、瞬く間に消え去る。けれど、そこに残ったのは安堵だ。もしも伝えたら、彼はもう二度と姿を見せてくれなくなるような気がするからだ。
 震えそうになる声を抑え、「そんな神様ってない」と目一杯ふくれて見せれば、「なんでもかんでも叶うものか。我らの身がもたぬわ」と璃卯は肩を竦めて答えた。
「いいよ」
 聞いてくれなくていい。伝えられなくたっていい。ただこんな時間が続くのならば、それでいい。
「なんにも叶えてくれなくていいから、だから、きっとずっとここに居てね?」
「消えない限りは、どこにも行きようがないからの」
「約束だよ?」
「おまえが嫁に行き、子を産んで、その子供の子供も、ずっと我が見ていてやる」
 ああ、まただ、と思う。彼はことあるごとに、こんなことを口にする。それはまるで、想い続けることすら許されないと言われているようで、胸をぎゅっと掴まれた心地になる。
 みおは泣きそうになるのを堪えて、無理に笑った。その笑顔が、どれほど痛々しく映るかなど考える余裕があるはずもない。
「だったら、私が嫁に行かなかったら? 貰い手がいなかったら、それでもずっといてくれる?」
「貰い手がいなければ、その時は、我が」
「……」
「我が、相手を探してやろう」
「そこは……そこは貰ってやろう、じゃないの?」
「貰って、欲しいのか?」
 いつもより低く、真剣な声が響く。息を呑んで璃卯を見れば、彼の眼差しは変わらず水面に向けられていた。
 喉に張り付いた声を押し出そうと口を開いた瞬間「冗談じゃ」と笑み含んだ声で言われ、みおはただ黙るしかない。
 いつだって、想っているのは私ばかりだ。きっと璃卯は、ある日突然私がいなくなったって、いつも通りの平気な顔でここいるのだろう。少し前までは、そう考えていた。
 けれど鱗を与えられ、名前を教えられてからは、もしかしたら、と思うようになった。呼びかければ応えてくれる璃卯が、時に手を繋いだり、頭を撫でたり、ささやかでも優しいふれあいを許してくれる彼が、本当は少しだけ、ほんの欠片程度くらいは、自分を想ってくれているのではないか、と。
 それでも口にできない理由があるとしたら、それはふたりに決定的な違いがあるからだ。
「我は、人ではないからの」
「……うん。大丈夫。ちゃんとわかってるよ」
 気持ちを切り替えるようにひとつ深呼吸したみおは「繋いでいい?」と問いながら彼の手を指した。
「水汲みくらい、手なぞ繋がなくとも平気であろう?」
 彼の言うとおり、最近は水への恐怖心が和らいだのか、川で水汲みをすることも増えた。あの鱗を飲んだおかげで、もしも落ちても璃卯を呼べばいいのだと、安心できるせいかもしれない。だから今は、その為に繋ぎたいんじゃない。
「水汲みじゃないよ。ちょっと水に入ってみようと思って」
「ほぉ、どういう風の吹き回しじゃ?」
「だって」
(そう言わなければ、手を繋ぐ理由がないから。って言ったら、また困った顔をする?)
「だって、暑いから」
「大丈夫じゃ。落ちたら助けてやる」
 暗に、だから繋がなくても平気だろう、と言われた気がした少女は諦めて頷くと、泉の縁ににじり寄る。
(やっぱり、ちょっと怖いかも)
 そろりと手を伸ばし、璃卯の白い袖をそっと掴む。恐る恐る両足を泉に浸せば、汗ばむ体が途端に涼やかになった。それでもやはり地につかない足先は心もとなく、みおは着物を掴む指先に力を込めた。
 ふいにその手に、冷たい掌が重なる。そっと横顔を窺っても、深青色の瞳は変わらず水面に注がれていた。だからみおも揺れる水面に視線を戻しながら、その指先を絡めてみる。拒まれなかったことにホッとして、指先にきゅっと力を入れると同じように握り返された。
「そんなに強う握らずとも、離しはせぬ」
「だって……怖いんだよ」
 璃卯がいてくれるのは心強くて、みおの心をいつだって温めてくれた。
 けれど、と思う。想う心は育つほどに、怖さや不安や、時に痛みも生むものらしい。それでもやっぱり、好きなものは好きなのだから仕方ない。
 ぱしゃと足で軽く水を蹴ってみる。広がる水紋の下は、底のない水が深く深く続いている。
(考えなければ、いいのかな)
 目を閉じたみおは、ただ水の冷たさと、繋いだ指先だけを感じていた。
 
 それから半月あまり。
 雨期にろくに降らずに迎えた夏は、盛りの今となっても夕立すらない。
 鳴き立てる蝉は相変わらずの姦しさだったが、いつもなら水を湛えて夏雲を映す田んぼは、申し訳程度の水たまりが点在するだけの有様になっていた。
 みおの畑もせっせと水を撒いてはいたが、このままでは収穫に漕ぎ着けるのは去年の3分の1にも満たないであろうほどに作物が弱っている。それはみおの畑だけでなく、村のどこでも同じ様子だった。
 夏はまだいい。実りがなくとも、山に入れば食べられる草も多く茂っているのだから、腹を満たすに事欠かない。問題は秋の実りだ。このままでは、村中の田畑が枯れ果てかねない。そうなれば、微々たる蓄えなどすぐに底をつき、冬を越すことすらままならないだろう。
「我はしばらくここを離れる」
 いつものように泉を訪れたみおに、璃卯は唐突にそう告げた。
「なんで!?」
「大きな声を出すな」
 岩の向こうで社を拝んでいた女が、怪訝そうな視線をこちらに向けたが、みおがそれを見遣るよりも先に、女は連れていた幼子の手をひいて、そそくさと社を後にした。
「離れるってどういうこと?」
「我は天帝に会うてくる。この地に雨を降らせるよう、願いでる」
「願いでるって、そんなこと出来るの?」
「我らが人の地にいるのは、この地を鎮護する為じゃ。手に余るものは、時にその声を天帝に届ける。叶うかどうかは、天帝の御心しだいでわからぬがの」
 ふと、璃卯が岩の向こうに視線を投げた。倣うようにみおもそちらを見ると、社の石段を数人の童達が駆けあがってきた。それにゆっくりと続く男女は、童らの両親だろうか。鳥居をくぐり、賽銭箱の前に立つと、揃って柏手を打った。
「父ちゃん、神様って居るの?」
「さぁ、いねえのかもしれないなぁ」
「ちょっとアンタ! こんなところで罰あたりなこと言うもんじゃないよ!」
 赤子を背負った女が、男の頭を軽くはたく。
「痛ってえな、おい! 罰を当てるような神さんがいるなら、大歓迎ってもんだ。居るならとっくに雨も降ってるだろうよ」
「いいからせいぜい真面目に拝んどくんだよ。このままじゃ、こっちが干からびちゃうわよ」
「違いねえ」
 もう1度柏手を打った家族は、揃って社を後にする。
 黙って見ていたみおは「勝手ばっかり」とぽつりと言った。これまで村人たちは、朽ちていく社を省みることなく、ましてや拝む者などほとんどいなかったのだ。それが、日照りが続き、いよいよ川まで干上がりそうな今になって、ようやく皆は熱心に社に通い、拝むようになった。みおが神様だったなら、こんな勝手な人たちをどうにかしてやろうだなんてきっと思わないだろう。
「放っておけばいいのに」
「それが我の役割じゃ。だいたい、放っておけば、おまえの畑も干からびるぞ?」
「それは……困るけど」
 このままでは確かに村の全部が干上がって、遠からず皆で飢えることになる。それはわかるけれど、やはりどことも知れぬ場所に彼が行ってしまうのは嫌だった。
「天帝ってどこにいるの? 遠い?」
「その泉に底がないと申したのを覚えておるか?」
「うん」
「そこは龍脈。辿った先は、天つ彼方の天帝がおわす国に繋がっておる」
 言われて、まじまじと水面を見つめる。泉は相変わらず豊かな水を湛えており、村が日照りで乾いているなど、ここに居ると忘れそうになるほどに変わりのない風情だ。
(ここが、龍脈……)
 龍脈とは龍が通る道だと聞いたことがある。それなら璃卯は、龍の神様なのだろうか。
「なんじゃ?」
 ふと、彼の掌──紫の蝶が目に映った。少し前まではみおの顔に張り付いていたそれは、璃卯の掌が当然の住処という顔で彼に寄り添っている。
「いいなぁ」
 蝶はいつでも彼の傍にある。龍脈を辿り、天帝の許に行く時ですら一緒に行くことができるのだ。
「私も蝶だったら、璃卯と一緒に天帝のところに行けるのに」
 そう言って黙り込んだみおに、眉を寄せた璃卯が歩み寄って来る。彼は手を伸べると、みおの柔らかな頬に両手を添えた。鼓動を踊らす少女の心中など知らぬ顔の童は、温度のない指先でみおの頬をつまむと、軽く左右に引っ張った。
「い、いひゃい」
「ふ、面白い顔じゃの」
 満足げに笑った彼は、すべやかな頬をひと撫でしてその手を離すと「蝶では、こんなことも出来ぬであろ」などと言って鼻を鳴らした。
「半月もあれば戻る。それまでせいぜい泉に落ちぬように気をつけよ」
「落ちたら、助けに来てくれる?」
「落ちるなと申しておるのじゃ。おまえが溺れ死ぬ前に辿り着くほどの力を使えば、もう当分は天帝の許に行くことすら叶わぬ。よいな? 泉には近づかずにおれよ?」
「うん」
「……。落ちたら迷わず呼ぶのじゃぞ?」
「大丈夫。落ちないように気をつけるから」
 みおの答えに頷いた『神様』は「ではの」と背を向け、泉に歩み寄る。
「え!? 今行くの?」
「今行ってはならぬか?」
 肩越しに振り返る璃卯は、訝るように目をすがめた。その後ろ髪を束ねるのは、みおがいつか贈った浅葱色の結い紐だ。
「う、ううん」
「行ってくる」
「うん」
 地面に踏み出すのと同じような軽やかさで、水面に踏み出して行こうとした璃卯の袖を、つい掴んでひいた。
 半月などすぐだ。そう自分に言い聞かせてみるのに、どことも知れない彼方に璃卯が行ってしまうのが不安で仕方ないのだ。
「なんじゃ?」
 思わず掴んでしまった袖を離して視線を泳がし、言い訳を見つけられなかったみおは「ごめん、なんでもない」と俯いた。
「すぐに戻る」
「うん」
 顔をあげてもう一度璃卯の顔を見たら、泣いてしまいそうな気がする。そんなことで泣けば、呆れられてしまうかもしれない。
 顔をあげられずにいるみおを、涼やかな匂いがそっと包んだ。
 抱きしめられている。
 そう気づいたのと、頭に手を添えられて、彼の肩口にきゅっと押しつけられたのとは同時だった。
「ほんの半月じゃ」
 璃卯の声が、衣ごしに直接響いた。状況を認識したみおの心臓が、全速力で駆けだす。
「では、行ってくる」
 身を離した璃卯は柔らかに微笑うと、音もたてずに水に飛び込んだ。虹色の鱗の輝きはすぐに水底へと沈んでいき、残されたのは耳元に響く拍動と蝉の声ばかりだった。


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