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タイムスリップ
もう一人の男
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「ところでレラ? チパパは、まだあの家に一緒に住んでいる人がいるようなことを言ってたけど……誰のこと?」
「住人? あ、ジュンジのことかもしれない」
「ジュンジ?」
春樹は仰天した。思いがけない名前を聞いたことに期待と疑念が同時に膨らむ。そんな都合の良い偶然はないだろう、とレラを見た。長い間捜し求めた男の名前に胸の高鳴りが治まらない。
「ハルキ?」
突然春樹の表情が変化したことにレラが驚く。
「その、ジュンジって? 苗字は? 一ノ瀬って言ってなかったか?」
春樹が突然大きな声を出したのでレラは一瞬身を引いた。
「イチノセ……ってのは、わからないけど、ジュンジは一緒に住んでるよ。ちょうどハルキが来たときに旅に出たから、ハルキはまだ会ってないわね」
レラは、そう話しながら春樹の手元のスマートフォンを眺めている。
「ジュンジがどうかしたの?」
「いや、何でもない」
──同じ名前の男なのかもしれない。冷静になろう。
レラが、自分の頭を春樹の肩に載せた。
「ハルキの世界に行ってみたい──」頭の重みが愛おしい。
「レラ──」
「──なあに?」
レラが頭を肩に乗せたまま春樹を見た。
「いや──」
春樹は『一緒に未来で暮らそう』と言いかけて、慌てて言葉を飲み込んだ。
夜、食事の後チパパが春樹を呼んだ。
「ハルキ、体力が回復してきたら、元の時代へ戻ることを考えないといかんな」
春樹はお茶を飲みながら後片づけをするレラの方を見ている。
「そのことだけど、チパパ。もう少しこの世界にいたいんだ」
もちろん、レラとしばらく一緒に暮らしていたい気持ちもあるが、それ以上に昼間レラが話していた「ジュンジ」という男が気になる。
「何か気になることでもあるのか?」
チパパが春樹の顔を見て目を細める。
「ああ、今日、ジュンジという男がここにいると聞いたんだ……レラからね」
「ジュンジ? ハルキにはジュンジの話はしてなかったかな? ジュンジもイルファに誘われてこの時代に移り住んだ男だ。てっきり話したものと思っていた。歳を取るとダメじゃのう」とチパパが力なく笑う。
「その男は『一ノ瀬』と名乗っていなかったか? もしそうなら俺が捜している父親なんだ──」
春樹が真顔でチパパに訴えた。
「何だと? 父親を捜している? どういう意味だ?」チパパが驚きの表情を見せる。
春樹は、チパパの疑問に応えて自分が消息不明の父親を捜していることを伝えた。長い間北海道中を捜し歩いたことや、もし会えたらどうしても聞き出したいことがある、と熱を込めて話した。
「そうか……イチノセか、よく覚えておらんがジュンジとしか言わなかったと思う」
「……なんだか、その『イルファ』は、父さんに会わせるために俺を呼んだんじゃないかって思い始めたんだ」
「そりゃまた奇遇な話じゃのう……。ジュンジもそろそろ帰ってくるころじゃ。本人から訊いてみるが良い。確かに、元の世界に戻りたいと毎日のように言っておったわ」
「その男も洞窟の前に倒れていたのか? 俺のときと同じように……」
「どうだったかのう? かなり昔のことなんでね」
――数日後――
「お帰り! ジュンジ」
その日朝早く帰ってきたジュンジをレラが笑顔で迎えた。
「ああ、レラ、ただいま。チパパは? 奥か?」
レラは家の中に向かって「ジュンジが帰ってきたよ!」と大声を出した。
「おお、ジュンジ帰ってきたか、疲れたろう」
チパパは笑顔でジュンジを囲炉裏端に座らせた。
「それで? 何か収穫はあったか?」
チパパの問いにジュンジは下を向いて少し笑い、荷物の中から布の袋を二つ出した。
部屋の隅には若い男が囲炉裏(いろり)に背中を向けて寝ている。ジュンジは一瞬視線を向けたが「あのときの流人か?」と言ってあまり関心を持たずに視線をチパパに戻した。
「ああ、松前から来ていた相原という男は思ったとおりいいやつだった」
ジュンジは、松前で経験した話を始めた。囲炉裏を挟んで反対側で寝ていた春樹はあたりの気配で目が覚めたがしばらくは寝たふりをしていた。
息を呑んでジュンジと呼ばれる男の話に集中する。
──この男は父さんなのかもしれない。
「チパパ、矢越岬の人身御供の話が良くわかった」
「あの伝説の話か?」
チパパはひと口白湯を飲んで、興味深げにジュンジを見た。
「そうだ、伝説は実話だったらしい。沈められた女たちは全員アイヌだったんだ。相原という男は、実際にことを起こした藩の役人の息子だった」
「アイヌ? やはりそうだったんじゃな。何となく感じておったが……」
ジュンジは船で波の荒い矢越岬をとおりがかったことや、相原からその日の夜聞いた話をした。
「まさか、そのイルシカという女が『イルファ』だというのか?」とチパパが大きな声を出した。
「うん。話の流れから、俺にはそうとしか思えない。イルシカが時代を経てイルファと呼ばれるようになった……どうだ?」
ジュンジは自分で考えた仮説を話しチパパの同意を求めた。
「その説が正しいとすると、その女の亡霊は何の目的で、数々の流人をこの世界に導いたんじゃろう?」チパパがあご髭を手で撫でた。
「その女が抱いていた赤子のことも気になる。母親の情念のようなものを感じるよ」
チパパは手帳を取り出して、自分がメモした矢越岬伝説のページを探している。
「でも、赤子も女も刀で斬られたんじゃろう? そのまま海に沈められたんじゃ助からんのう」
ジュンジは袋の中から、アイヌ文様が入った小さな木片を取り出した。
「ただ、そのときこの木片を女が投げつけたんで、赤子を斬りつけようとした男の手元が狂ったそうだ」
「お守り……にしては変わった形じゃの」
そう言いながら、チパパはジュンジの手元を興味深く眺めた。
レラが、洗濯物を干し終わって部屋に入ってきた。
「ジュンジ、どうだったの? 今回の旅は」
レラが囲炉裏端に座って問いかけた。
「ああ、いろんな話を聴いた。今チパパと話していたところだ」
レラはチパパの手元にある木片を興味深げに見た。
「それは……なあに? ひょっとしてお土産?」とニコニコしている。
「お土産? いや、ジュンジが和人からもらったらしい。こんな文様が入ったものを和人が持ってるなんてのぅ」と言いながら、チパパは木片をレラに渡した。
レラは木片の模様を自分の目の高さで確認していた。
そのとき、春樹がおもむろに立ち上がった。
「あ、ハルキ、目が覚めたのね?」
レラの声に反応してジュンジが振り返る。
「ハルキ?」
「ああ、この間流れ着いた流人の名じゃよ」
チパパは春樹に向かってこっちに来いと手招きした。ジュンジの目はゆっくり囲炉裏端に歩いてくる春樹を追っている。
「どうした? ジュンジ」
「いや……まさか──」
ジュンジはチパパに向かって笑いながら手を横に振った。
「ハルキ、この男がジュンジじゃ。どうだ? お前が捜していた男か?」
「捜していた? 俺を?」
ジュンジは隣に座った春樹をじっと見つめた「ハルキ」という名前には覚えがある。春樹がゆっくり顔を上げ視線をジュンジの顔に合わせた。
「お前──」
ジュンジが大きく目を見開いて春樹を見る。
二十年もの間この世界で生きてきたジュンジは、ひとときも元の時代に残してきた家族を忘れたことはなかった。家族に会いたい一心で時代を超える方法を探していたのだ。
チパパは手帳から春樹の学生証を手に取ってジュンジに見せる。
『一ノ瀬春樹』
ジュンジの目が潤んできた。顔が紅潮する。
「一ノ瀬……春樹──春樹なのか? お前は春樹なのか?」
春樹の目からも雫が流れた。
「父さん……」
チパパが笑顔で二人を見ている。
「父さん! 父さんなんだね!」
ジュンジの両手が春樹の二つの腕を掴んだ。
「なんてことだ! 神様は……俺を見捨ててなんかいなかった。こんな奇跡を準備してくれるなんて!」
成長しすっかり大人の姿になった息子の顔が頼もしく思える。ジュンジの記憶に、幼少期の春樹が無邪気に笑う姿が蘇った。
「よかったのうジュンジ。これで長い間の苦労も報われる」チパパの笑い声が響く。
レラが走って春樹のそばに座って両手を肩にかけた。
「ハルキ! ジュンジはハルキのお父さんだったの?」
春樹がレラの顔を見て何度も首を縦に振る。目から涙がこぼれた。
「よかった! ハルキ」
レラは背後から春樹の肩に顔をうずめ、泣き声とも笑い声ともわからない声を出した。
ジュンジは春樹の両腕を掴んでまっすぐに目を見た。
「春樹、奈津美は? 母さんは元気なのか?」
春樹は無言でうなずいた。
「そうか……良かった、良かった! 俺はそれだけが、それだけが……」ジュンジが目を閉じて涙が流れるのを我慢している。
春樹はジュンジの表情を目の当たりにして父に対する感情の変化を感じていた。
ジュンジに会うまでは、行方不明になった父を恨んでいた。
もしも会えたなら、母の苦労がどれだけ大変だったかを訴えるつもりだったが、実際に探し求めていた男を目の前にして、今までの憤怒の感情が「出会いの喜び」に覆い隠された。
後から後から涙があふれてくる。暖かい開放感と感動が春樹の胸を熱くした。
チパパが、春樹の肩を抱いているレラに声をかける。
「レラ! 祝いじゃ! 鹿肉でも食おう!」
チパパが立ち上がって奥で醸造していた酒の桶を取り出した。守り刀を取って囲炉裏のそばまで運ぶ。
「親子の対面じゃ、こんなめでたいことはない」
チパパは嬉しそうに二つの盃に酒を注ぎハルキとジュンジに渡した。自分も専用の器に酒を注ぐ。
「チパパ! 朝からお酒飲むなんて! どうなっても知らないわよ」
レラが笑って立ち上がり、鹿の干し肉を調理し始めた。
「親子の対面に」チパパが杯を上げる。
ジュンジの気持ちの中から、家族に対する心配と今までの苦労が徐々に消えていった。
「俺がこの時代に迷い込んだときは、まだ春樹は三歳だったな」
ジュンジは盃を傾けながら遠くを見るように微笑した。白い歯がこぼれる。
「あっ! そうだ! 写真撮ろう」
春樹がスマートフォンのレンズを向けた。レラも手を止めてチパパの横に座る。一度シャッターの音はしたがそれきり何も反応しない。
「ちぇっ! 充電切れだ」
チパパから笑みがこぼれた。
「使えなくなったんだな。そうなるとただの石じゃの」
大きな声で笑いながらジュンジの肩をたたく。
ジュンジは笑いながら「春樹! 母さんを大切にな!」と言うと干した鹿肉を口に運んだ。「うまい!」とまた笑う。
春樹は元の時代に戻る方法さえわかれば、と考えていた。一気に盃の中の酒をあおる。かなり強い酒が喉を潤した。
チパパが春樹の考えを察したかのように時代を超える方法について語り始めた。
「ひょっとすると、月の満ち欠けとイルファの出現に関係があるのかもしれん」
チパパは二人の顔を交互に見ながら手帳を開いた。
「月の満ち欠けって? たとえば、満月とか三日月とか……」春樹がチパパを用心深く見る。
「昔から、青い満月の夜は何か特別なことが起こるとの言い伝えがあるんじゃ」
「ブルームーンのことか?」ジュンジがチパパに話しかけた。
昔から伝えられている月の不思議な影響についてはいろいろな説がある。特にブルームーンは奇妙な現象が起こる夜として語り継がれている。
「月が青く光るのか?」
春樹は二人の言っていることがよくわからなかった。
チパパは話を続けた。流人が発見されるのが決まって満月の夜で、次の満月の夜に姿を消している。しかも、流人が姿を消す満月は年に何度もないブルームーンの夜らしい。
アイヌには暦の概念がないので月の満ち欠けで季節の移り変わりを感じるのだとチパパは言った。
チパパは手帳を日記代わりに、夜の月の状態を細かく記録していた。
「ハルキがこの家にやって来たのは満月の夜じゃ。あくまでも、わしの考えじゃが、次の満月の夜に元の世界に戻れる可能性がある」
「でも、それだと俺はどうなる?」
ジュンジがチパパに異議を唱えた。ジュンジはこの時代に来てからというもの何度もイルファに洞窟に足を運んでいる。
「俺は……何度もイルファの洞窟に行ってみたがイルファには会えていない」
「ジュンジは、満月の夜に洞窟に行ったことはあったか?」と言うチパパにジュンジは少し考え込んで「確かに……」と自分のあごを撫でた。
「……当時は夜になるとクマや狼が出るのであまり出歩くなと言われていたから、恐ろしくてとても洞窟へは行けなかった──」
「もしも、わしが満月のことにもっと早く気がついていたら、ジュンジも苦労することはなかったかもしれん」チパパが悔しそうな顔をする。
「いや、俺のことはもういい、春樹が無事に元の時代に戻れるなら、それが一番だ」
ジュンジは、自分の中でモヤモヤしているものを吹っ切るように話し笑顔を見せた。
「そうか、わかった。この次の満月にハルキが戻れるよう準備しよう」
春樹はチパパの言葉に、少し暗い顔をした。
──このまま、元に戻ってもいいのか? それが俺の望む答えなのか?
「なあに、三人でこそこそ話して」
食事の後片づけを終えたレラが話しながら近づいてきた。
「ハルキのことを話してたんじゃよ」とチパパが顔を上げて答える。
レラが春樹の横に座って、春樹の顔を見た。
ジュンジが「春樹は次の満月の夜に向こうの世界へ戻れるかもしれない」と笑顔でレラに伝えた。
レラの顔が一瞬曇ったが「そう、ハルキ、行っちゃうんだ」と無理に笑った。
「なんじゃレラ、ハルキがいなくなるのが寂しいのか?」
チパパがからかうように言うと、レラは真っ赤な顔をした。
「もう! チパパったら! 知らない!」と言うなり立ち上がって奥へ行った。
「住人? あ、ジュンジのことかもしれない」
「ジュンジ?」
春樹は仰天した。思いがけない名前を聞いたことに期待と疑念が同時に膨らむ。そんな都合の良い偶然はないだろう、とレラを見た。長い間捜し求めた男の名前に胸の高鳴りが治まらない。
「ハルキ?」
突然春樹の表情が変化したことにレラが驚く。
「その、ジュンジって? 苗字は? 一ノ瀬って言ってなかったか?」
春樹が突然大きな声を出したのでレラは一瞬身を引いた。
「イチノセ……ってのは、わからないけど、ジュンジは一緒に住んでるよ。ちょうどハルキが来たときに旅に出たから、ハルキはまだ会ってないわね」
レラは、そう話しながら春樹の手元のスマートフォンを眺めている。
「ジュンジがどうかしたの?」
「いや、何でもない」
──同じ名前の男なのかもしれない。冷静になろう。
レラが、自分の頭を春樹の肩に載せた。
「ハルキの世界に行ってみたい──」頭の重みが愛おしい。
「レラ──」
「──なあに?」
レラが頭を肩に乗せたまま春樹を見た。
「いや──」
春樹は『一緒に未来で暮らそう』と言いかけて、慌てて言葉を飲み込んだ。
夜、食事の後チパパが春樹を呼んだ。
「ハルキ、体力が回復してきたら、元の時代へ戻ることを考えないといかんな」
春樹はお茶を飲みながら後片づけをするレラの方を見ている。
「そのことだけど、チパパ。もう少しこの世界にいたいんだ」
もちろん、レラとしばらく一緒に暮らしていたい気持ちもあるが、それ以上に昼間レラが話していた「ジュンジ」という男が気になる。
「何か気になることでもあるのか?」
チパパが春樹の顔を見て目を細める。
「ああ、今日、ジュンジという男がここにいると聞いたんだ……レラからね」
「ジュンジ? ハルキにはジュンジの話はしてなかったかな? ジュンジもイルファに誘われてこの時代に移り住んだ男だ。てっきり話したものと思っていた。歳を取るとダメじゃのう」とチパパが力なく笑う。
「その男は『一ノ瀬』と名乗っていなかったか? もしそうなら俺が捜している父親なんだ──」
春樹が真顔でチパパに訴えた。
「何だと? 父親を捜している? どういう意味だ?」チパパが驚きの表情を見せる。
春樹は、チパパの疑問に応えて自分が消息不明の父親を捜していることを伝えた。長い間北海道中を捜し歩いたことや、もし会えたらどうしても聞き出したいことがある、と熱を込めて話した。
「そうか……イチノセか、よく覚えておらんがジュンジとしか言わなかったと思う」
「……なんだか、その『イルファ』は、父さんに会わせるために俺を呼んだんじゃないかって思い始めたんだ」
「そりゃまた奇遇な話じゃのう……。ジュンジもそろそろ帰ってくるころじゃ。本人から訊いてみるが良い。確かに、元の世界に戻りたいと毎日のように言っておったわ」
「その男も洞窟の前に倒れていたのか? 俺のときと同じように……」
「どうだったかのう? かなり昔のことなんでね」
――数日後――
「お帰り! ジュンジ」
その日朝早く帰ってきたジュンジをレラが笑顔で迎えた。
「ああ、レラ、ただいま。チパパは? 奥か?」
レラは家の中に向かって「ジュンジが帰ってきたよ!」と大声を出した。
「おお、ジュンジ帰ってきたか、疲れたろう」
チパパは笑顔でジュンジを囲炉裏端に座らせた。
「それで? 何か収穫はあったか?」
チパパの問いにジュンジは下を向いて少し笑い、荷物の中から布の袋を二つ出した。
部屋の隅には若い男が囲炉裏(いろり)に背中を向けて寝ている。ジュンジは一瞬視線を向けたが「あのときの流人か?」と言ってあまり関心を持たずに視線をチパパに戻した。
「ああ、松前から来ていた相原という男は思ったとおりいいやつだった」
ジュンジは、松前で経験した話を始めた。囲炉裏を挟んで反対側で寝ていた春樹はあたりの気配で目が覚めたがしばらくは寝たふりをしていた。
息を呑んでジュンジと呼ばれる男の話に集中する。
──この男は父さんなのかもしれない。
「チパパ、矢越岬の人身御供の話が良くわかった」
「あの伝説の話か?」
チパパはひと口白湯を飲んで、興味深げにジュンジを見た。
「そうだ、伝説は実話だったらしい。沈められた女たちは全員アイヌだったんだ。相原という男は、実際にことを起こした藩の役人の息子だった」
「アイヌ? やはりそうだったんじゃな。何となく感じておったが……」
ジュンジは船で波の荒い矢越岬をとおりがかったことや、相原からその日の夜聞いた話をした。
「まさか、そのイルシカという女が『イルファ』だというのか?」とチパパが大きな声を出した。
「うん。話の流れから、俺にはそうとしか思えない。イルシカが時代を経てイルファと呼ばれるようになった……どうだ?」
ジュンジは自分で考えた仮説を話しチパパの同意を求めた。
「その説が正しいとすると、その女の亡霊は何の目的で、数々の流人をこの世界に導いたんじゃろう?」チパパがあご髭を手で撫でた。
「その女が抱いていた赤子のことも気になる。母親の情念のようなものを感じるよ」
チパパは手帳を取り出して、自分がメモした矢越岬伝説のページを探している。
「でも、赤子も女も刀で斬られたんじゃろう? そのまま海に沈められたんじゃ助からんのう」
ジュンジは袋の中から、アイヌ文様が入った小さな木片を取り出した。
「ただ、そのときこの木片を女が投げつけたんで、赤子を斬りつけようとした男の手元が狂ったそうだ」
「お守り……にしては変わった形じゃの」
そう言いながら、チパパはジュンジの手元を興味深く眺めた。
レラが、洗濯物を干し終わって部屋に入ってきた。
「ジュンジ、どうだったの? 今回の旅は」
レラが囲炉裏端に座って問いかけた。
「ああ、いろんな話を聴いた。今チパパと話していたところだ」
レラはチパパの手元にある木片を興味深げに見た。
「それは……なあに? ひょっとしてお土産?」とニコニコしている。
「お土産? いや、ジュンジが和人からもらったらしい。こんな文様が入ったものを和人が持ってるなんてのぅ」と言いながら、チパパは木片をレラに渡した。
レラは木片の模様を自分の目の高さで確認していた。
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「あ、ハルキ、目が覚めたのね?」
レラの声に反応してジュンジが振り返る。
「ハルキ?」
「ああ、この間流れ着いた流人の名じゃよ」
チパパは春樹に向かってこっちに来いと手招きした。ジュンジの目はゆっくり囲炉裏端に歩いてくる春樹を追っている。
「どうした? ジュンジ」
「いや……まさか──」
ジュンジはチパパに向かって笑いながら手を横に振った。
「ハルキ、この男がジュンジじゃ。どうだ? お前が捜していた男か?」
「捜していた? 俺を?」
ジュンジは隣に座った春樹をじっと見つめた「ハルキ」という名前には覚えがある。春樹がゆっくり顔を上げ視線をジュンジの顔に合わせた。
「お前──」
ジュンジが大きく目を見開いて春樹を見る。
二十年もの間この世界で生きてきたジュンジは、ひとときも元の時代に残してきた家族を忘れたことはなかった。家族に会いたい一心で時代を超える方法を探していたのだ。
チパパは手帳から春樹の学生証を手に取ってジュンジに見せる。
『一ノ瀬春樹』
ジュンジの目が潤んできた。顔が紅潮する。
「一ノ瀬……春樹──春樹なのか? お前は春樹なのか?」
春樹の目からも雫が流れた。
「父さん……」
チパパが笑顔で二人を見ている。
「父さん! 父さんなんだね!」
ジュンジの両手が春樹の二つの腕を掴んだ。
「なんてことだ! 神様は……俺を見捨ててなんかいなかった。こんな奇跡を準備してくれるなんて!」
成長しすっかり大人の姿になった息子の顔が頼もしく思える。ジュンジの記憶に、幼少期の春樹が無邪気に笑う姿が蘇った。
「よかったのうジュンジ。これで長い間の苦労も報われる」チパパの笑い声が響く。
レラが走って春樹のそばに座って両手を肩にかけた。
「ハルキ! ジュンジはハルキのお父さんだったの?」
春樹がレラの顔を見て何度も首を縦に振る。目から涙がこぼれた。
「よかった! ハルキ」
レラは背後から春樹の肩に顔をうずめ、泣き声とも笑い声ともわからない声を出した。
ジュンジは春樹の両腕を掴んでまっすぐに目を見た。
「春樹、奈津美は? 母さんは元気なのか?」
春樹は無言でうなずいた。
「そうか……良かった、良かった! 俺はそれだけが、それだけが……」ジュンジが目を閉じて涙が流れるのを我慢している。
春樹はジュンジの表情を目の当たりにして父に対する感情の変化を感じていた。
ジュンジに会うまでは、行方不明になった父を恨んでいた。
もしも会えたなら、母の苦労がどれだけ大変だったかを訴えるつもりだったが、実際に探し求めていた男を目の前にして、今までの憤怒の感情が「出会いの喜び」に覆い隠された。
後から後から涙があふれてくる。暖かい開放感と感動が春樹の胸を熱くした。
チパパが、春樹の肩を抱いているレラに声をかける。
「レラ! 祝いじゃ! 鹿肉でも食おう!」
チパパが立ち上がって奥で醸造していた酒の桶を取り出した。守り刀を取って囲炉裏のそばまで運ぶ。
「親子の対面じゃ、こんなめでたいことはない」
チパパは嬉しそうに二つの盃に酒を注ぎハルキとジュンジに渡した。自分も専用の器に酒を注ぐ。
「チパパ! 朝からお酒飲むなんて! どうなっても知らないわよ」
レラが笑って立ち上がり、鹿の干し肉を調理し始めた。
「親子の対面に」チパパが杯を上げる。
ジュンジの気持ちの中から、家族に対する心配と今までの苦労が徐々に消えていった。
「俺がこの時代に迷い込んだときは、まだ春樹は三歳だったな」
ジュンジは盃を傾けながら遠くを見るように微笑した。白い歯がこぼれる。
「あっ! そうだ! 写真撮ろう」
春樹がスマートフォンのレンズを向けた。レラも手を止めてチパパの横に座る。一度シャッターの音はしたがそれきり何も反応しない。
「ちぇっ! 充電切れだ」
チパパから笑みがこぼれた。
「使えなくなったんだな。そうなるとただの石じゃの」
大きな声で笑いながらジュンジの肩をたたく。
ジュンジは笑いながら「春樹! 母さんを大切にな!」と言うと干した鹿肉を口に運んだ。「うまい!」とまた笑う。
春樹は元の時代に戻る方法さえわかれば、と考えていた。一気に盃の中の酒をあおる。かなり強い酒が喉を潤した。
チパパが春樹の考えを察したかのように時代を超える方法について語り始めた。
「ひょっとすると、月の満ち欠けとイルファの出現に関係があるのかもしれん」
チパパは二人の顔を交互に見ながら手帳を開いた。
「月の満ち欠けって? たとえば、満月とか三日月とか……」春樹がチパパを用心深く見る。
「昔から、青い満月の夜は何か特別なことが起こるとの言い伝えがあるんじゃ」
「ブルームーンのことか?」ジュンジがチパパに話しかけた。
昔から伝えられている月の不思議な影響についてはいろいろな説がある。特にブルームーンは奇妙な現象が起こる夜として語り継がれている。
「月が青く光るのか?」
春樹は二人の言っていることがよくわからなかった。
チパパは話を続けた。流人が発見されるのが決まって満月の夜で、次の満月の夜に姿を消している。しかも、流人が姿を消す満月は年に何度もないブルームーンの夜らしい。
アイヌには暦の概念がないので月の満ち欠けで季節の移り変わりを感じるのだとチパパは言った。
チパパは手帳を日記代わりに、夜の月の状態を細かく記録していた。
「ハルキがこの家にやって来たのは満月の夜じゃ。あくまでも、わしの考えじゃが、次の満月の夜に元の世界に戻れる可能性がある」
「でも、それだと俺はどうなる?」
ジュンジがチパパに異議を唱えた。ジュンジはこの時代に来てからというもの何度もイルファに洞窟に足を運んでいる。
「俺は……何度もイルファの洞窟に行ってみたがイルファには会えていない」
「ジュンジは、満月の夜に洞窟に行ったことはあったか?」と言うチパパにジュンジは少し考え込んで「確かに……」と自分のあごを撫でた。
「……当時は夜になるとクマや狼が出るのであまり出歩くなと言われていたから、恐ろしくてとても洞窟へは行けなかった──」
「もしも、わしが満月のことにもっと早く気がついていたら、ジュンジも苦労することはなかったかもしれん」チパパが悔しそうな顔をする。
「いや、俺のことはもういい、春樹が無事に元の時代に戻れるなら、それが一番だ」
ジュンジは、自分の中でモヤモヤしているものを吹っ切るように話し笑顔を見せた。
「そうか、わかった。この次の満月にハルキが戻れるよう準備しよう」
春樹はチパパの言葉に、少し暗い顔をした。
──このまま、元に戻ってもいいのか? それが俺の望む答えなのか?
「なあに、三人でこそこそ話して」
食事の後片づけを終えたレラが話しながら近づいてきた。
「ハルキのことを話してたんじゃよ」とチパパが顔を上げて答える。
レラが春樹の横に座って、春樹の顔を見た。
ジュンジが「春樹は次の満月の夜に向こうの世界へ戻れるかもしれない」と笑顔でレラに伝えた。
レラの顔が一瞬曇ったが「そう、ハルキ、行っちゃうんだ」と無理に笑った。
「なんじゃレラ、ハルキがいなくなるのが寂しいのか?」
チパパがからかうように言うと、レラは真っ赤な顔をした。
「もう! チパパったら! 知らない!」と言うなり立ち上がって奥へ行った。
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第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。
◇◇◇◇
飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。
仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。
退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。
他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。
おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。

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