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タイムスリップ
古代アイヌの世界
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春樹は寒さに震えて目を覚ました。何日も寝ていたような気がする。すぐに空腹を覚えた。横になったまま家の中を見回したが誰もいないようだ。春樹には、まだ夢を見ているような感覚があった。
「あっ、目が覚めたのね?」
明るい笑い声の先を見るとレラが家の奥で食事の準備をしている。春樹はレラの顔を見て一瞬たじろいだ。そして「ああ、そうか」とため息をつく。
意識が戻ってくると、自分が着ているものが薄い布の襦袢であることに気がつく。その下には何も着ていない。
──どうりで寒いはずだ。
娘が春樹のところに来た。思わず自分の下半身を抑えて見上げると、黒い丸い瞳が春樹の顔を覗き込んだ。
「どう? 具合悪いところはない?」
春樹は慌てて首を横に振る。
「そう、良かった。私はレラ。あなたはなんて言うの?」
「俺は……春樹だ。一ノ瀬春樹……」
「ハルキ? そう、ハルキね」レラはにっこり笑うと、大きいお腹を抱えてゆっくり立ち上がった。薄茶色の着物を着て前掛けのようなものを腰回りに巻いている。
「あの……レラ?」
春樹が恥ずかしそうに呼ぶとレラが振り返った。
「俺の来ていた服は?」
「ああ、ハルキの服は洗って干してあるよ、そろそろ乾いたかなあ……」
レラは外を見るようなしぐさを見せた。
「あの……ひょっとして……君が着替えさせてくれたのか?」
「うん。チパパが『体拭いてやれ』って言ったから、私が服を脱がせて拭いてあげたの。あっ、それ、今着てるやつ、私の襦袢なの、ごめんね。他に着せるものがなくて」
「じゃあ……あの──」春樹の顔が真っ赤になった。
──見られた。全部。
レラはニコニコしていた。自分と同じ年頃の友達が周りにいないレラには春樹の存在そのものが嬉しい。
「あの、もう一人年取った男の人がいたようだけど」
「ああ、チパパね。今ちょっと外に出てる」
起き上がろうとすると激痛が頭を襲った。苦悶の表情でまた横になる。
「無理しちゃだめだよ。ハルキ」
レラが春樹の背中に右手を添えて静かにゴザの上に寝かせた。
春樹は、土の上に敷かれたゴザに横になったまま周囲を見回し観察を始めた。古い家屋のようだが殺風景で生活感がない。季節的には暖房が必須のはずなのに室内に空調設備らしきものは見当たらなかった。だが、不思議と寒さを感じない。
家の中はかなり広く二十畳以上はある。部屋は大きな薄い布で二つの広間に仕切られていた。中央には鳥居の形をした大きな囲炉裏があり、常に火を絶やさないよう注意しているようだ。壁の上部には棚があって槍や釣り竿などが積まれていた。部屋の隅には土器のようなものがいくつも重ねて置かれている。
──間違いない。ここは古代のアイヌ家屋の中だ!
大学で調べた典型的なアイヌの家の造りがそこにあった。目がレラという娘のところで止まる。頭に巻いた鉢巻や着物には、アイヌ独特の模様が刺しゅうされていた。
──俺は、まだ夢を見ているのだろうか?
春樹はそう考えて、また目を閉じた。
チパパが帰って来た。
「おお、目が覚めたか」
防寒着を玄関の木にかけると、春樹のところまできて優しそうに笑う。レラがお茶を運んできた。
「チパパ? どこに行ってたの?」
チパパは囲炉裏のそばに腰を下ろすと、春樹を一瞥してレラに向き直った。
「シリウクのところじゃ。流人の話をしておかんとのぅ」とあごの髭に手を添える。
シリウクとはこの村の長老で、村の一切の秩序を支配していた。アイヌ民族には決まった法律はない。罪を犯した人間には個々の村長の裁量で罰が与えられた。シリウクは平和主義者だったが、村の秩序を乱す行為については厳しく集落から追放された村民も多い。
「レラのときも、もっと早くシリウクに話をしておけばのぅ、あんなことにはならなかったのだが……」下向き加減のチパパに、レラが明るく話しかける。
「チパパ。その話はもういいよ。もう……忘れたから」
チパパは「そうか」とうなずくとゆっくり湯呑を口に運ぶ。
春樹は黙ってチパパとレラのやり取りを聴いている。
しばらくすると、寝ている春樹のところにレラが寄ってきた。
「ねえハルキ、外に出てみない? 服も乾いたみたいだし今日は天気も良いから」
レラは春樹の顔を見ながら立ち上がると、外に出て春樹の服を部屋に持ち込んだ。
「ああ」と立ち上がろうとすると、レラが春樹のトランクスを持ち上げた。
「これは?」と顔の直前に広げたレラは珍しそうに観察している。
春樹は慌ててレラの顔の前のトランクスを掴み取る。自分の顔が真っ赤になるのがわかった。
「どうしたの? ハルキ?」
後ろからチパパが笑いながらレラに向かって話しかけた。
「レラ、それは男たちが身に着けるテパのようなものだ」
「キャッ!」レラは手で顔を覆った。赤くなっている。
「テパ?」春樹がチパパの方を向くと「ふんどしのことじゃよ」と言って笑った。
春樹は首を傾げながら自分の運動靴をはいて外に出た。
屋外に出ると眩しい太陽の光に思わず目をつむる。そして周囲を見回した春樹は呆然とその場に立ち尽くした。
「これは──」と言ったきり言葉が出てこない。
家の背後は原始林に囲まれ、目の前には巨大な川が流れている。
「沙流川よ!」レラが後ろからやってきて春樹に声をかける。
「沙流川?」
沙流川は、大きなうねりのように波を立てながら下流に向かって流れている。川の対岸には、うっそうとした原始林が続いていた。
「じゃあ、ここは? 二風谷なのか?」
「そうよ、二風谷のコタン(村)」
「ダムは? 二風谷ダムはどこだ!」
春樹は走って川べりに立ち下流の方向を眺めたが、ダムのような近代的な建造物の気配がない。
「ダム? ダムって何?」
レラが春樹のそばに寄ってきて同じ方向を眺める。
ダムどころか、ビルや住宅の屋根、アスファルトの道路や車も見えない。ここは春樹の知る「二風谷」ではなかった。
振り返ると、高台に茅葺屋根の家が並んでいる。二風谷の公園にも同じような茅葺の家屋が展示してあるが、目の前に広がる集落のそれとは明らかに大きさが違う。それぞれの家屋には人が住んでいる生活感があった。
「ここには、四十人くらいの人が住んでるの」
春樹はレラの言葉を聞きながら目を閉じて考えた。
──アレを受け入れるしかなさそうだ……。
チパパやレラの服装や、屋内の景観、目の前に広がる沙流川の光景……。
春樹は観念した。何度も考えては「ありえない」と首を振って否定していたが、目で見たものは紛れもない事実だ。
「……タイム……スリップ──」
春樹の小さな声にレラが耳を傾けた。
「え? 何? なんて言ったの? ハルキ?」
春樹は横に立っているレラに顔を向けて苦笑いをした。
──ここは、古代のアイヌ集落──俺は時代を超えて過去に紛れ込んだんだ──。
「なんだか変。ハルキ……おかしいよ。変なことばかり言って……」
春樹は思わず座り込んで足を投げ出すと、レラを見上げた。
「レラ、今はいつの時代だ?」
「私たちには暦がないの。時代のことはよくわからない。でもね、チパパが言うには、今はメージなんだって」
レラも春樹の横に座り込んだ。大きいお腹が窮屈そうだ。
「明治初期──」
春樹は、このレラという娘やチパパと呼ばれる老人が、普通に日本語で会話しているのを不思議に思った。――その時代なら、まだアイヌ人に日本語はそこまで普及していないはずだ。
「レラ、その、和人? の言葉だけど、誰から教わったんだ? 和人からか?」
明治政府は同人化政策を打ち出して、アイヌを日本人と同様に扱った。日本語教育も盛んに行われた歴史がある。
「ううん」レラは首を横に振る。
「和人の言葉はチパパが村の人たちに教えてるの。私はチパパに育てられたから小さいころから使ってるけど……」とにっこり笑った。
「教えてる?」
「そうよ。チパパが言うにはね、いずれ和人と深くつき合う時代がやって来るから、自分の考えを和人の言葉で伝えられるようになった方が良いって。私にはよくわからない。でも、そういう話になるとチパパはいつも真剣な目をしてた」
──そのとおりだ。この先アイヌにはつらい歴史が待っている。
春樹は未来のことを知っているチパパが何者なのか疑問を持った。
レラは、また春樹の顔を覗き込んだ。
「ここは、ハルキが住んでるとこの景色とは違うの?」
レラが興味津々で春樹を見た。
「ああ、かなり違う」
春樹は覚悟を決めた。
──仮に過去の世界に迷い込んだとしても、元の時代に帰る手段が必ずあるはずだ。
二人のところに、かなり年配の女が近づいてきた。
「レラ!」
「ああ、オタマイ、こんにちは」
「レラ、もうじきだね。身体、大丈夫かい?」
「うん」
オタマイという老女は、笑いながら「その日になったら娘と一緒に行くからね」と声をかけて去って行った。
レラが手を振る。
「ね、ハルキ、ご飯にしようよ」
レラが服についた土を払いながら立ち上がった。
「そうだな、チパパにもっと話を訊いてみたい」
家の中では、チパパが囲炉裏のそばで手帳に何か書き込んでいる。春樹はチパパの横に胡坐をかいて座った。
チパパは、春樹の表情が変わったことに気がついた。
「ハルキ、外を見たか? びっくりしただろう」
「ああ、何もかも、わからないことだらけだ」
囲炉裏の火が、明るく二人の顔を照らしている。
「わしも、そうじゃった……」
「チパパも?」
──やはり、チパパも自分と同じように未来から来たのか。
「最初は何が起こったのかわからんじゃったが、徐々にタイムスリップして過去に来てしまったことに気がついたんじゃ」
「過去……レラが言ってたが、今は明治時代なのか?」
「たぶんそうじゃ……」
「どうしてそんなことがわかるんだ? レラは暦がないって言ってた……」
チパパはしばらく黙った。
「和人じゃよ。この間、和人(わじん)がこの土地にやって来たんじゃ……。奴らは『開拓使』と名乗った……」
「開拓使?」
春樹は卒論のために調べたアイヌの歴史を思い出す。
「確かに、開拓使は明治の時代に設置された官僚組織だが、こんなところまで足を踏み入れてきたのか?」
「そうじゃ。最近のことじゃ」
自分の体験を話すチパパの声には、何ともいえない説得力があった。
「チパパ、あんたはいつこの時代にやって来たんだ?」
春樹の問いにチパパは手帳をめくりながら顔を上げた。
「もう、二十年以上になる……」
「二十年? そんなに……。家族は心配してるだろうな」
チパパは苦笑いしながら「そんな人はいない」と答えた。
「わしはひとりものじゃったからのぅ」
チパパの笑みがこぼれる。
春樹はタイムスリップした人間が自分だけじゃないことに少し安心した。
「チパパ、俺もあんたも、何かのきっかけでこの時代に来たとしたら、もう一度タイムスリップして元の時代に戻れるんじゃないか? あんたも戻りたいだろう」
「わしはもういい。この先もそんなに長くないし、この時代で自然と一緒に暮らすのも楽しい人生じゃ……じゃが──」
チパパが、急に真顔で春樹に向き直った。
「お前にはまだ戻れる可能性が残されておるかもしれん」
春樹の目が輝いた。
「何か、考えがあるのか?」
──チパパはもう二十年以上もこの時代にいる。何か知ってるかもしれない。
「洞窟の中で光に包まれた女を見ただろう。美しい顔をした全裸の女じゃ」
春樹の脳裏にもその美しさがしっかりと残っている。
「ああ、眩しい美しさに見とれてしまった――」
「その女は『イルファ』じゃ」
「イルファ?」
チパパはまた手帳をめくり始める。あるページで指を止めたチパパが、この地方に言い伝えられる伝説を話し始めた。
「イルファの伝説は、村人が話してたんじゃが、何年も前に神の怒りを鎮めるために、生贄となったアイヌ女の亡霊が今も彷徨っていて若い男を惑わせるというんじゃ」
「亡霊? その若い男たちはどうなったんだ?」
「気が触れて死んでしまうとか、行方がわからなくなるといわれておるが、それはどうやら少し誇張されておるようじゃ……ただ──」
「──ただ?」
「今までにここに現れた何人かの流人は、口々に美しい裸の女を見たと言っていた」
「じゃあタイムスリップしてこの時代に来た人間は、みんなそのイルファを見たと?」
「十分考えられる。タイムスリップにイルファが関係しているらしいということじゃ」
チパパは自分のあご髭を撫でながら囲炉裏の焚き木を見ていた。
「その……俺たち以外の流人たちは今どうしてるんだ?」
チパパは少し苦い顔をした。
「わからん。みんな行方不明になった。和人に連れて行かれた者もおるじゃろう……」
「行方不明になった流人の中にはこの時代から他の時代へタイムスリップした人間もいるんじゃないのか?」
「ああ、その可能性はある。イルファの洞窟へ行ってイルファに会ったかもしれん」
「じゃあ、その洞窟へ行けば……」
「それは……まだわからん。わしは何度も洞窟へ行ったが何も起こらんじゃった」
チパパは下を向いた。
「ハルキ、イルファの謎を解くことができれば、お前も元の時代に戻れるかもしれん。やつが帰ってきたらみんなで話し合おう」
「やつ? この家にはまだ住人がいるのか?」
春樹が問いかけたとき、レラの声が耳に入ってきた。
「さあ、ご飯の準備ができたわよ」
レナの明るい声がチパパを笑顔にした。春樹の顔もほころぶ。
当時のアイヌの主食は、魚や肉を煮込んだ薄い塩味の汁物である。レラは、チパパから米の炊き方を教わっていたので、雑穀米の粥も出された。
「あっ、目が覚めたのね?」
明るい笑い声の先を見るとレラが家の奥で食事の準備をしている。春樹はレラの顔を見て一瞬たじろいだ。そして「ああ、そうか」とため息をつく。
意識が戻ってくると、自分が着ているものが薄い布の襦袢であることに気がつく。その下には何も着ていない。
──どうりで寒いはずだ。
娘が春樹のところに来た。思わず自分の下半身を抑えて見上げると、黒い丸い瞳が春樹の顔を覗き込んだ。
「どう? 具合悪いところはない?」
春樹は慌てて首を横に振る。
「そう、良かった。私はレラ。あなたはなんて言うの?」
「俺は……春樹だ。一ノ瀬春樹……」
「ハルキ? そう、ハルキね」レラはにっこり笑うと、大きいお腹を抱えてゆっくり立ち上がった。薄茶色の着物を着て前掛けのようなものを腰回りに巻いている。
「あの……レラ?」
春樹が恥ずかしそうに呼ぶとレラが振り返った。
「俺の来ていた服は?」
「ああ、ハルキの服は洗って干してあるよ、そろそろ乾いたかなあ……」
レラは外を見るようなしぐさを見せた。
「あの……ひょっとして……君が着替えさせてくれたのか?」
「うん。チパパが『体拭いてやれ』って言ったから、私が服を脱がせて拭いてあげたの。あっ、それ、今着てるやつ、私の襦袢なの、ごめんね。他に着せるものがなくて」
「じゃあ……あの──」春樹の顔が真っ赤になった。
──見られた。全部。
レラはニコニコしていた。自分と同じ年頃の友達が周りにいないレラには春樹の存在そのものが嬉しい。
「あの、もう一人年取った男の人がいたようだけど」
「ああ、チパパね。今ちょっと外に出てる」
起き上がろうとすると激痛が頭を襲った。苦悶の表情でまた横になる。
「無理しちゃだめだよ。ハルキ」
レラが春樹の背中に右手を添えて静かにゴザの上に寝かせた。
春樹は、土の上に敷かれたゴザに横になったまま周囲を見回し観察を始めた。古い家屋のようだが殺風景で生活感がない。季節的には暖房が必須のはずなのに室内に空調設備らしきものは見当たらなかった。だが、不思議と寒さを感じない。
家の中はかなり広く二十畳以上はある。部屋は大きな薄い布で二つの広間に仕切られていた。中央には鳥居の形をした大きな囲炉裏があり、常に火を絶やさないよう注意しているようだ。壁の上部には棚があって槍や釣り竿などが積まれていた。部屋の隅には土器のようなものがいくつも重ねて置かれている。
──間違いない。ここは古代のアイヌ家屋の中だ!
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──俺は、まだ夢を見ているのだろうか?
春樹はそう考えて、また目を閉じた。
チパパが帰って来た。
「おお、目が覚めたか」
防寒着を玄関の木にかけると、春樹のところまできて優しそうに笑う。レラがお茶を運んできた。
「チパパ? どこに行ってたの?」
チパパは囲炉裏のそばに腰を下ろすと、春樹を一瞥してレラに向き直った。
「シリウクのところじゃ。流人の話をしておかんとのぅ」とあごの髭に手を添える。
シリウクとはこの村の長老で、村の一切の秩序を支配していた。アイヌ民族には決まった法律はない。罪を犯した人間には個々の村長の裁量で罰が与えられた。シリウクは平和主義者だったが、村の秩序を乱す行為については厳しく集落から追放された村民も多い。
「レラのときも、もっと早くシリウクに話をしておけばのぅ、あんなことにはならなかったのだが……」下向き加減のチパパに、レラが明るく話しかける。
「チパパ。その話はもういいよ。もう……忘れたから」
チパパは「そうか」とうなずくとゆっくり湯呑を口に運ぶ。
春樹は黙ってチパパとレラのやり取りを聴いている。
しばらくすると、寝ている春樹のところにレラが寄ってきた。
「ねえハルキ、外に出てみない? 服も乾いたみたいだし今日は天気も良いから」
レラは春樹の顔を見ながら立ち上がると、外に出て春樹の服を部屋に持ち込んだ。
「ああ」と立ち上がろうとすると、レラが春樹のトランクスを持ち上げた。
「これは?」と顔の直前に広げたレラは珍しそうに観察している。
春樹は慌ててレラの顔の前のトランクスを掴み取る。自分の顔が真っ赤になるのがわかった。
「どうしたの? ハルキ?」
後ろからチパパが笑いながらレラに向かって話しかけた。
「レラ、それは男たちが身に着けるテパのようなものだ」
「キャッ!」レラは手で顔を覆った。赤くなっている。
「テパ?」春樹がチパパの方を向くと「ふんどしのことじゃよ」と言って笑った。
春樹は首を傾げながら自分の運動靴をはいて外に出た。
屋外に出ると眩しい太陽の光に思わず目をつむる。そして周囲を見回した春樹は呆然とその場に立ち尽くした。
「これは──」と言ったきり言葉が出てこない。
家の背後は原始林に囲まれ、目の前には巨大な川が流れている。
「沙流川よ!」レラが後ろからやってきて春樹に声をかける。
「沙流川?」
沙流川は、大きなうねりのように波を立てながら下流に向かって流れている。川の対岸には、うっそうとした原始林が続いていた。
「じゃあ、ここは? 二風谷なのか?」
「そうよ、二風谷のコタン(村)」
「ダムは? 二風谷ダムはどこだ!」
春樹は走って川べりに立ち下流の方向を眺めたが、ダムのような近代的な建造物の気配がない。
「ダム? ダムって何?」
レラが春樹のそばに寄ってきて同じ方向を眺める。
ダムどころか、ビルや住宅の屋根、アスファルトの道路や車も見えない。ここは春樹の知る「二風谷」ではなかった。
振り返ると、高台に茅葺屋根の家が並んでいる。二風谷の公園にも同じような茅葺の家屋が展示してあるが、目の前に広がる集落のそれとは明らかに大きさが違う。それぞれの家屋には人が住んでいる生活感があった。
「ここには、四十人くらいの人が住んでるの」
春樹はレラの言葉を聞きながら目を閉じて考えた。
──アレを受け入れるしかなさそうだ……。
チパパやレラの服装や、屋内の景観、目の前に広がる沙流川の光景……。
春樹は観念した。何度も考えては「ありえない」と首を振って否定していたが、目で見たものは紛れもない事実だ。
「……タイム……スリップ──」
春樹の小さな声にレラが耳を傾けた。
「え? 何? なんて言ったの? ハルキ?」
春樹は横に立っているレラに顔を向けて苦笑いをした。
──ここは、古代のアイヌ集落──俺は時代を超えて過去に紛れ込んだんだ──。
「なんだか変。ハルキ……おかしいよ。変なことばかり言って……」
春樹は思わず座り込んで足を投げ出すと、レラを見上げた。
「レラ、今はいつの時代だ?」
「私たちには暦がないの。時代のことはよくわからない。でもね、チパパが言うには、今はメージなんだって」
レラも春樹の横に座り込んだ。大きいお腹が窮屈そうだ。
「明治初期──」
春樹は、このレラという娘やチパパと呼ばれる老人が、普通に日本語で会話しているのを不思議に思った。――その時代なら、まだアイヌ人に日本語はそこまで普及していないはずだ。
「レラ、その、和人? の言葉だけど、誰から教わったんだ? 和人からか?」
明治政府は同人化政策を打ち出して、アイヌを日本人と同様に扱った。日本語教育も盛んに行われた歴史がある。
「ううん」レラは首を横に振る。
「和人の言葉はチパパが村の人たちに教えてるの。私はチパパに育てられたから小さいころから使ってるけど……」とにっこり笑った。
「教えてる?」
「そうよ。チパパが言うにはね、いずれ和人と深くつき合う時代がやって来るから、自分の考えを和人の言葉で伝えられるようになった方が良いって。私にはよくわからない。でも、そういう話になるとチパパはいつも真剣な目をしてた」
──そのとおりだ。この先アイヌにはつらい歴史が待っている。
春樹は未来のことを知っているチパパが何者なのか疑問を持った。
レラは、また春樹の顔を覗き込んだ。
「ここは、ハルキが住んでるとこの景色とは違うの?」
レラが興味津々で春樹を見た。
「ああ、かなり違う」
春樹は覚悟を決めた。
──仮に過去の世界に迷い込んだとしても、元の時代に帰る手段が必ずあるはずだ。
二人のところに、かなり年配の女が近づいてきた。
「レラ!」
「ああ、オタマイ、こんにちは」
「レラ、もうじきだね。身体、大丈夫かい?」
「うん」
オタマイという老女は、笑いながら「その日になったら娘と一緒に行くからね」と声をかけて去って行った。
レラが手を振る。
「ね、ハルキ、ご飯にしようよ」
レラが服についた土を払いながら立ち上がった。
「そうだな、チパパにもっと話を訊いてみたい」
家の中では、チパパが囲炉裏のそばで手帳に何か書き込んでいる。春樹はチパパの横に胡坐をかいて座った。
チパパは、春樹の表情が変わったことに気がついた。
「ハルキ、外を見たか? びっくりしただろう」
「ああ、何もかも、わからないことだらけだ」
囲炉裏の火が、明るく二人の顔を照らしている。
「わしも、そうじゃった……」
「チパパも?」
──やはり、チパパも自分と同じように未来から来たのか。
「最初は何が起こったのかわからんじゃったが、徐々にタイムスリップして過去に来てしまったことに気がついたんじゃ」
「過去……レラが言ってたが、今は明治時代なのか?」
「たぶんそうじゃ……」
「どうしてそんなことがわかるんだ? レラは暦がないって言ってた……」
チパパはしばらく黙った。
「和人じゃよ。この間、和人(わじん)がこの土地にやって来たんじゃ……。奴らは『開拓使』と名乗った……」
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春樹は卒論のために調べたアイヌの歴史を思い出す。
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「チパパ、あんたはいつこの時代にやって来たんだ?」
春樹の問いにチパパは手帳をめくりながら顔を上げた。
「もう、二十年以上になる……」
「二十年? そんなに……。家族は心配してるだろうな」
チパパは苦笑いしながら「そんな人はいない」と答えた。
「わしはひとりものじゃったからのぅ」
チパパの笑みがこぼれる。
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「チパパ、俺もあんたも、何かのきっかけでこの時代に来たとしたら、もう一度タイムスリップして元の時代に戻れるんじゃないか? あんたも戻りたいだろう」
「わしはもういい。この先もそんなに長くないし、この時代で自然と一緒に暮らすのも楽しい人生じゃ……じゃが──」
チパパが、急に真顔で春樹に向き直った。
「お前にはまだ戻れる可能性が残されておるかもしれん」
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「何か、考えがあるのか?」
──チパパはもう二十年以上もこの時代にいる。何か知ってるかもしれない。
「洞窟の中で光に包まれた女を見ただろう。美しい顔をした全裸の女じゃ」
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「ああ、眩しい美しさに見とれてしまった――」
「その女は『イルファ』じゃ」
「イルファ?」
チパパはまた手帳をめくり始める。あるページで指を止めたチパパが、この地方に言い伝えられる伝説を話し始めた。
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「気が触れて死んでしまうとか、行方がわからなくなるといわれておるが、それはどうやら少し誇張されておるようじゃ……ただ──」
「──ただ?」
「今までにここに現れた何人かの流人は、口々に美しい裸の女を見たと言っていた」
「じゃあタイムスリップしてこの時代に来た人間は、みんなそのイルファを見たと?」
「十分考えられる。タイムスリップにイルファが関係しているらしいということじゃ」
チパパは自分のあご髭を撫でながら囲炉裏の焚き木を見ていた。
「その……俺たち以外の流人たちは今どうしてるんだ?」
チパパは少し苦い顔をした。
「わからん。みんな行方不明になった。和人に連れて行かれた者もおるじゃろう……」
「行方不明になった流人の中にはこの時代から他の時代へタイムスリップした人間もいるんじゃないのか?」
「ああ、その可能性はある。イルファの洞窟へ行ってイルファに会ったかもしれん」
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「それは……まだわからん。わしは何度も洞窟へ行ったが何も起こらんじゃった」
チパパは下を向いた。
「ハルキ、イルファの謎を解くことができれば、お前も元の時代に戻れるかもしれん。やつが帰ってきたらみんなで話し合おう」
「やつ? この家にはまだ住人がいるのか?」
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「さあ、ご飯の準備ができたわよ」
レナの明るい声がチパパを笑顔にした。春樹の顔もほころぶ。
当時のアイヌの主食は、魚や肉を煮込んだ薄い塩味の汁物である。レラは、チパパから米の炊き方を教わっていたので、雑穀米の粥も出された。
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