イルファ

golbee2001

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タイムスリップ

イルファの洞窟

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──明治初期──

沙流川さるがわ流域には、九戸の小さなアイヌ集落があった。老若男女四十人足らずのアイヌ人たちがひっそり暮らしている。

明治政府が設置した「開拓使」は北海道内各地のアイヌ民族を安価な労働力として使い未開の地を農地や住宅地として切り開く作業を開始していた。 

満月の夜、月の光は妖しく地面を照らしていた。上流の川べりにある洞窟はうっそうとした森に囲まれている。樹木の隙間からわずかな月光が降り注ぎ、山の湧き水で濡れてゴツゴツとした岩肌を浮き彫りにしていた。

洞窟の入り口の平らな岩の上に若い男がうつぶせで倒れている。

顔は半分山の雪解け水に浸り、ワイシャツやズボンは水と泥にまみれていた。髪は濡れて額に張りついている。


遠くで狼の遠吠えが聞こえた。


朝、若い娘が茅葺かやぶきの家の入口から家の中に向けて大きな声を出した。

「チパパぁ! 『イルファの洞窟』の前で、流人るにんが倒れてるよ!」

 チパパと呼ばれた白髪にあご鬚の老人が、ゆっくりと茅葺(かやぶき)屋根の家から出てきた。

 老人は左右対称の文様もんようが入ったアットゥシ織の着物を着ている。

「レラ! またあの洞窟へ行ったのか? あれほど近づいてはだめだと言ったじゃろう。しょうがないやつだ! お前は二カ月後の月夜に子を産むんだぞ。もう少しおとなしくしてなさい」

「はあい」

 レラという娘は、大きなお腹に両手を添えながら舌を出して笑った。腰に巻いた前掛けにはシンメトリーの模様が入っている。

「さあさあ、まだこの季節は寒いから、中に入って温まりなさい」

 チパパに促されながら、レラは入り口にかかっている茅のすだれをくぐった。

 それほど上背はないが、少しふくよかな体つきからは天真爛漫な気性が伺える。

レラは、口の前で両手を重ねて息を吹き込み「寒い寒い」と言いながら屋内に入った。低い気温が頬を赤く染めている。鹿の皮と樹皮で織り込んだ肩掛けを木の枝にかけると、薄茶色のアットゥシを脱いで襦袢だけになり居間の中央にある大きな囲炉裏いろりの脇に腰を下ろした。

囲炉裏の中央で焚かれている火にしばらく手を当てると、途中まで織り込んだアットゥシ織の器具を引き寄せて織物を再開する。

 レラは大きな二重瞼の黒い瞳に丸い顔が愛らしく村では評判の美人だった。愛嬌のある話し方で優しく面倒見も良いので、特に村の子どもたちから人気がある。

「ジュンジはどうした?」

 囲炉裏の脇に座るレラを見ながらチパパは彼女と反対側のゴザに腰を下ろした。

「朝早く、川に出かけたままだよ」
 レラは忙しく手を動かしている。

「そうか……。ところでレラ、流人はどんな格好だった?」

 チパパは、古い手帳を取り出し筆で何か書き始めた。

 ──また満月の夜か……。

 レラが織物の手を止めた。

「変な衣装来てた。みんなが着てる着物じゃないよ」

チパパは黙々とレラの言うことを筆で描き込んで、手帳を閉じ立ち上がると「ちょっと出てくる」と言ってクマの毛皮を羽織って出ていった。

家の前で何人かの若者を呼び止めたチパパが何か話している。器用に手を動かして説明しながら、彼らに「イルファの洞窟」へ行くように指示していた。

「いいか、まちがっても洞窟の中を覗いたり、入ったりしてはならんぞ」 

 
しばらくして、村の若者が若い男を担いで帰って来た。

チパパは、男を家の中に入れるように指示しレラに寝床の準備をさせた。

白いワイシャツに黒いズボンをはいた流人がずぶ濡れでぐったりしている。手がわずかに震えていた。顔は青ざめ紫色の唇がガチガチという音を立てている。

「レラ、湯を沸かしてくれ、それから手拭いで身体を拭いてやれ」

 チパパが村の若者たちに手を上げる。数人の若者は何度も後ろを振り返り口々に何か話しながら出ていった。

レラは、立ち上がって台所から大きな鍋に水を入れて囲炉裏のそばに来ると、鍋を中央の焚き木の上に置く。

湯がわくまでの時間、ゴザの脇に座ったレラは、意識を失っている流人の衣服を脱がせて乾いた手拭いで身体を拭き始めた。

「あれ? チパパ、何か入ってる」

 興味深くポケットの中のプラスティックケースを取り出した。

「変わった入れ物ね」

 チパパはケースをレラから受け取り、中に入っているカードをしばらく眺めた。

『北海大学 学生証 一ノ瀬春樹』

「それは? なあに?」レラが興味深げにチパパの手元を見ている。

「自分がどこの誰かを示す札じゃよ。和人のものだ」

 チパパからプラスティックケースを受け取ったレラが目の高さに持ち上げて眺める。

「へえ……じゃあ、この人は和人なの?」

 チパパが微笑みながら「そうだ」と言うと、レラからケースを受け取り自分の手帳に学生証を挟んだ。


 一ノ瀬春樹は夢を見ていた。



深い湖の底を泳いでいて身体は凍えそうな寒さで震えている。

しばらくすると目の前にポッカリと口を開けた黒い洞窟のようなものが見えた。
 
洞窟の中は淡い光で照らされている。

女の声が聞こえた「ハルキ」と自分の名前を呼んでいるようだ。洞窟に入るとそこは水の中ではなかった。

立ち上がってよろよろと歩いていると、光に包まれた美しい女の顔が見えた。数メートル先で微笑んでいる。

光のハレーションではっきり見えないが女は全裸だった。春樹はその美しさに魅了されて引き寄せられるように光に向かって歩く。

突然気が遠くなって膝をついた。

薄れていく意識の中で女の言葉が何度も繰り返されて響く。

「ワタシはイルファ……」


 囲炉裏(いろり)の脇で寝ていた春樹の意識がだんだんと戻って来た。

 薄目を開けると目の前に女の顔がある。丸顔の黒い瞳がじっと覗いていた。

 ──誰だ?

「チパパ! 気がついたみたいよ!」

 女が大きな声で叫んだ。

「あっ!」と声を出して起き上がろうとするが、激しい頭痛に襲われ再び寝床に身体を沈めた。

目の前に見た顔は夢に出てきた女の顔によく似ていた。

「まだ、無理をしてはだめだ。しばらく寝ていると良い」

 女の脇で白髪の老人が優しそうな眼をして話しかけた。

 春樹は目を閉じて深く呼吸をする。


 ──様子がおかしい。ここはどこなんだ? 俺はどうしてここに寝ているんだろう。


 もうろうとした意識が次第にはっきりしてきた。引き換えにさっきまで見ていた夢が徐々に記憶から消えていく。ただ、全裸の女だけは不思議と脳裏に残った。

 ──そうだ! 俺は事故でダムに転落したんだ。

 春樹は、アイヌの歴史に関する卒業論文を仕上げ、大学を去る日を目前に控えていた。
長い間捜し歩いたが、父の一ノ瀬純二には会えていない。諦めきれない春樹は、福岡に
帰る前にもう一度二風谷にぶたにで父の消息を探る手掛かりを掴もうとした。

 何度も訪れた平取町びらとりちょうでは、街の人とすっかり馴染みになっていた。春樹は二風谷ダムの周辺でいろんな話を訊いたが、肝心なことを知る人にはやはり会えない。

これといった情報は手に入らないまま、半ば諦めの境地でダムの周囲を車で走っているとき、突然意識がとんで運転している車がガードレールを突き抜けた。
 
そこまで思い出して、また深い眠りに落ちていった……。

「ジュンジ、遅いわね」

 レラは織物を中断して夕食の準備に取り掛かっていた。

「どこまで行ったんだ? レラ、ジュンジは何か言ってなかったか?」

「うん、砂金を採りに行くって言ってた」

「砂金? 最近は和人が砂金採りにこのあたりまで来ているらしい、奴らと会って争いごとに巻き込まれなければいいんだが──」

 チパパがあごに手をやり心配そうな顔をする。

 沙流川で砂金が採れることを発見したのは、この集落のアイヌの若者だった。当時砂金は和人との交易手段として重宝されたが、和人がどこからかその情報を入手し沙流川を占拠し始めた。

「大丈夫よ、ジュンジなら和人の言葉も話せるし……。それに争いは嫌いだから」

 レラが笑顔で答えたとき、がっしりした体格に優しい目をした男が入って来た。
 
「あっ、ジュンジお帰り。遅かったね」

「うん、川で和人と出会ってね。しばらく話し込んでた」

 ジュンジと呼ばれた男は雨除けの蓑を自分の肩から外した。

「和人?」チパパが囲炉裏の脇に座ったまま顔を上げて心配そうな顔をした。

「ジュンジ、和人との話っていったいなんじゃ?」

 ジュンジはチパパを見ながら囲炉裏の脇に座った。喫煙具にタバコを差し込んで吸い始める。レラが立ち上がってお茶の準備を始めた。

「最初はたわいもない話をしてたんだけど、そいつが俺を交易の通訳に誘ってきたんだ」

 チパパは興味深げに脇に置いてある手帳を手に取った。

「きっと、和人の言葉が通じるのが珍しかったんじゃろ?」

「そうらしい……。断ったけどね。和人の思いどおりにこき使われるのはたまらん」

 荷物の中から砂金の入った袋を出してチパパに渡した。

 当時のアイヌは、和人との物々交換による交易を生業なりわいの一つとしていた。取引の条件はアイヌにとって不利なものだったが、苦情を申し出た者はいない。

「俺と話した男は、松前から来たって言ってた」

「松前? 和人はそんな遠くから砂金を採りに来ているのか……」とチパパは不安げな顔をした。

「ああ、若くてなかなかいいやつでね。お上から言われたままに取引するのがつらいって嘆いてたよ。そいつから江戸末期の人身御供ひとみごくうの話を聴いたんだ」

「人身御供? 矢越岬やごしみさきの伝説の話か?」
 チパパの目が光る。

「そうだ、それでチパパ、明日からしばらく旅に出るよ」

チパパが手帳を見ながら座りなおした。

「人身御供の話を確かめに行くんじゃな?」

「そのとおりだ。伝説が真実なのか確かめたい。そいつからもっと詳しく話も訊きたいし実際に自分の目で見てみたい」ジュンジが勢い込んでチパパに顔を向けた。

「またぁ、ジュンジの悪い癖ね。ちょっと興味がわくと確かめずにはいられない」

 レラがお茶を出しながら男の顔を伺い小さく笑った。

「そう。レラの言うとおりだ」
 ジュンジは笑いながらレラを見た。

「どうやって行くんじゃ? 矢越岬は松前の先じゃが?」
 チパパが問うと、ジュンジは笑顔で返した。

「今日会ったやつが船で案内してくれるらしい。大丈夫、そいつは人を騙すようなやつじゃない。朝、日が昇る前に発つから……。心配しないでいいよ」

 沙流川のある二風谷から松前まではかなりの距離がある。陸地を伝って行くには一か月はかかるだろう。当然、熊などの獣にも注意が必要で安全な旅ではない。こういうチャンスでもなければ安易に行動には移せない。

「そうか……まあ、それでも和人には気をつけてな」

チパパが念を押した。ジュンジは「ああ、心配ない」と答え視線を部屋の隅に向けた。

「レラ? また流人か?」
「うん。今朝洞窟の前で倒れてたよ」

「洞窟? レラ、イルファの洞窟に行ったのか? 気をつけろよ、身重なんだからあんまり外を出歩かないようにしなきゃ」

「ジュンジもチパパと同じようなこと言うのね」
レラは舌を出しておどけて見せた。

 ジュンジは流人を見て、自分も同じように「流人」としてこの世界に迷い込んだ過去を思い出していた。黙って左手の薬指から指輪を抜くとじっと眺める。
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