15 / 31
タイムスリップ
イルファの洞窟
しおりを挟む
──明治初期──
沙流川流域には、九戸の小さなアイヌ集落があった。老若男女四十人足らずのアイヌ人たちがひっそり暮らしている。
明治政府が設置した「開拓使」は北海道内各地のアイヌ民族を安価な労働力として使い未開の地を農地や住宅地として切り開く作業を開始していた。
満月の夜、月の光は妖しく地面を照らしていた。上流の川べりにある洞窟はうっそうとした森に囲まれている。樹木の隙間からわずかな月光が降り注ぎ、山の湧き水で濡れてゴツゴツとした岩肌を浮き彫りにしていた。
洞窟の入り口の平らな岩の上に若い男がうつぶせで倒れている。
顔は半分山の雪解け水に浸り、ワイシャツやズボンは水と泥にまみれていた。髪は濡れて額に張りついている。
遠くで狼の遠吠えが聞こえた。
朝、若い娘が茅葺の家の入口から家の中に向けて大きな声を出した。
「チパパぁ! 『イルファの洞窟』の前で、流人が倒れてるよ!」
チパパと呼ばれた白髪にあご鬚の老人が、ゆっくりと茅葺(かやぶき)屋根の家から出てきた。
老人は左右対称の文様が入ったアットゥシ織の着物を着ている。
「レラ! またあの洞窟へ行ったのか? あれほど近づいてはだめだと言ったじゃろう。しょうがないやつだ! お前は二カ月後の月夜に子を産むんだぞ。もう少しおとなしくしてなさい」
「はあい」
レラという娘は、大きなお腹に両手を添えながら舌を出して笑った。腰に巻いた前掛けにはシンメトリーの模様が入っている。
「さあさあ、まだこの季節は寒いから、中に入って温まりなさい」
チパパに促されながら、レラは入り口にかかっている茅のすだれをくぐった。
それほど上背はないが、少しふくよかな体つきからは天真爛漫な気性が伺える。
レラは、口の前で両手を重ねて息を吹き込み「寒い寒い」と言いながら屋内に入った。低い気温が頬を赤く染めている。鹿の皮と樹皮で織り込んだ肩掛けを木の枝にかけると、薄茶色のアットゥシを脱いで襦袢だけになり居間の中央にある大きな囲炉裏の脇に腰を下ろした。
囲炉裏の中央で焚かれている火にしばらく手を当てると、途中まで織り込んだアットゥシ織の器具を引き寄せて織物を再開する。
レラは大きな二重瞼の黒い瞳に丸い顔が愛らしく村では評判の美人だった。愛嬌のある話し方で優しく面倒見も良いので、特に村の子どもたちから人気がある。
「ジュンジはどうした?」
囲炉裏の脇に座るレラを見ながらチパパは彼女と反対側のゴザに腰を下ろした。
「朝早く、川に出かけたままだよ」
レラは忙しく手を動かしている。
「そうか……。ところでレラ、流人はどんな格好だった?」
チパパは、古い手帳を取り出し筆で何か書き始めた。
──また満月の夜か……。
レラが織物の手を止めた。
「変な衣装来てた。みんなが着てる着物じゃないよ」
チパパは黙々とレラの言うことを筆で描き込んで、手帳を閉じ立ち上がると「ちょっと出てくる」と言ってクマの毛皮を羽織って出ていった。
家の前で何人かの若者を呼び止めたチパパが何か話している。器用に手を動かして説明しながら、彼らに「イルファの洞窟」へ行くように指示していた。
「いいか、まちがっても洞窟の中を覗いたり、入ったりしてはならんぞ」
しばらくして、村の若者が若い男を担いで帰って来た。
チパパは、男を家の中に入れるように指示しレラに寝床の準備をさせた。
白いワイシャツに黒いズボンをはいた流人がずぶ濡れでぐったりしている。手がわずかに震えていた。顔は青ざめ紫色の唇がガチガチという音を立てている。
「レラ、湯を沸かしてくれ、それから手拭いで身体を拭いてやれ」
チパパが村の若者たちに手を上げる。数人の若者は何度も後ろを振り返り口々に何か話しながら出ていった。
レラは、立ち上がって台所から大きな鍋に水を入れて囲炉裏のそばに来ると、鍋を中央の焚き木の上に置く。
湯がわくまでの時間、ゴザの脇に座ったレラは、意識を失っている流人の衣服を脱がせて乾いた手拭いで身体を拭き始めた。
「あれ? チパパ、何か入ってる」
興味深くポケットの中のプラスティックケースを取り出した。
「変わった入れ物ね」
チパパはケースをレラから受け取り、中に入っているカードをしばらく眺めた。
『北海大学 学生証 一ノ瀬春樹』
「それは? なあに?」レラが興味深げにチパパの手元を見ている。
「自分がどこの誰かを示す札じゃよ。和人のものだ」
チパパからプラスティックケースを受け取ったレラが目の高さに持ち上げて眺める。
「へえ……じゃあ、この人は和人なの?」
チパパが微笑みながら「そうだ」と言うと、レラからケースを受け取り自分の手帳に学生証を挟んだ。
一ノ瀬春樹は夢を見ていた。
深い湖の底を泳いでいて身体は凍えそうな寒さで震えている。
しばらくすると目の前にポッカリと口を開けた黒い洞窟のようなものが見えた。
洞窟の中は淡い光で照らされている。
女の声が聞こえた「ハルキ」と自分の名前を呼んでいるようだ。洞窟に入るとそこは水の中ではなかった。
立ち上がってよろよろと歩いていると、光に包まれた美しい女の顔が見えた。数メートル先で微笑んでいる。
光のハレーションではっきり見えないが女は全裸だった。春樹はその美しさに魅了されて引き寄せられるように光に向かって歩く。
突然気が遠くなって膝をついた。
薄れていく意識の中で女の言葉が何度も繰り返されて響く。
「ワタシはイルファ……」
囲炉裏(いろり)の脇で寝ていた春樹の意識がだんだんと戻って来た。
薄目を開けると目の前に女の顔がある。丸顔の黒い瞳がじっと覗いていた。
──誰だ?
「チパパ! 気がついたみたいよ!」
女が大きな声で叫んだ。
「あっ!」と声を出して起き上がろうとするが、激しい頭痛に襲われ再び寝床に身体を沈めた。
目の前に見た顔は夢に出てきた女の顔によく似ていた。
「まだ、無理をしてはだめだ。しばらく寝ていると良い」
女の脇で白髪の老人が優しそうな眼をして話しかけた。
春樹は目を閉じて深く呼吸をする。
──様子がおかしい。ここはどこなんだ? 俺はどうしてここに寝ているんだろう。
もうろうとした意識が次第にはっきりしてきた。引き換えにさっきまで見ていた夢が徐々に記憶から消えていく。ただ、全裸の女だけは不思議と脳裏に残った。
──そうだ! 俺は事故でダムに転落したんだ。
春樹は、アイヌの歴史に関する卒業論文を仕上げ、大学を去る日を目前に控えていた。
長い間捜し歩いたが、父の一ノ瀬純二には会えていない。諦めきれない春樹は、福岡に
帰る前にもう一度二風谷で父の消息を探る手掛かりを掴もうとした。
何度も訪れた平取町では、街の人とすっかり馴染みになっていた。春樹は二風谷ダムの周辺でいろんな話を訊いたが、肝心なことを知る人にはやはり会えない。
これといった情報は手に入らないまま、半ば諦めの境地でダムの周囲を車で走っているとき、突然意識がとんで運転している車がガードレールを突き抜けた。
そこまで思い出して、また深い眠りに落ちていった……。
「ジュンジ、遅いわね」
レラは織物を中断して夕食の準備に取り掛かっていた。
「どこまで行ったんだ? レラ、ジュンジは何か言ってなかったか?」
「うん、砂金を採りに行くって言ってた」
「砂金? 最近は和人が砂金採りにこのあたりまで来ているらしい、奴らと会って争いごとに巻き込まれなければいいんだが──」
チパパがあごに手をやり心配そうな顔をする。
沙流川で砂金が採れることを発見したのは、この集落のアイヌの若者だった。当時砂金は和人との交易手段として重宝されたが、和人がどこからかその情報を入手し沙流川を占拠し始めた。
「大丈夫よ、ジュンジなら和人の言葉も話せるし……。それに争いは嫌いだから」
レラが笑顔で答えたとき、がっしりした体格に優しい目をした男が入って来た。
「あっ、ジュンジお帰り。遅かったね」
「うん、川で和人と出会ってね。しばらく話し込んでた」
ジュンジと呼ばれた男は雨除けの蓑を自分の肩から外した。
「和人?」チパパが囲炉裏の脇に座ったまま顔を上げて心配そうな顔をした。
「ジュンジ、和人との話っていったいなんじゃ?」
ジュンジはチパパを見ながら囲炉裏の脇に座った。喫煙具にタバコを差し込んで吸い始める。レラが立ち上がってお茶の準備を始めた。
「最初はたわいもない話をしてたんだけど、そいつが俺を交易の通訳に誘ってきたんだ」
チパパは興味深げに脇に置いてある手帳を手に取った。
「きっと、和人の言葉が通じるのが珍しかったんじゃろ?」
「そうらしい……。断ったけどね。和人の思いどおりにこき使われるのはたまらん」
荷物の中から砂金の入った袋を出してチパパに渡した。
当時のアイヌは、和人との物々交換による交易を生業の一つとしていた。取引の条件はアイヌにとって不利なものだったが、苦情を申し出た者はいない。
「俺と話した男は、松前から来たって言ってた」
「松前? 和人はそんな遠くから砂金を採りに来ているのか……」とチパパは不安げな顔をした。
「ああ、若くてなかなかいいやつでね。お上から言われたままに取引するのがつらいって嘆いてたよ。そいつから江戸末期の人身御供の話を聴いたんだ」
「人身御供? 矢越岬の伝説の話か?」
チパパの目が光る。
「そうだ、それでチパパ、明日からしばらく旅に出るよ」
チパパが手帳を見ながら座りなおした。
「人身御供の話を確かめに行くんじゃな?」
「そのとおりだ。伝説が真実なのか確かめたい。そいつからもっと詳しく話も訊きたいし実際に自分の目で見てみたい」ジュンジが勢い込んでチパパに顔を向けた。
「またぁ、ジュンジの悪い癖ね。ちょっと興味がわくと確かめずにはいられない」
レラがお茶を出しながら男の顔を伺い小さく笑った。
「そう。レラの言うとおりだ」
ジュンジは笑いながらレラを見た。
「どうやって行くんじゃ? 矢越岬は松前の先じゃが?」
チパパが問うと、ジュンジは笑顔で返した。
「今日会ったやつが船で案内してくれるらしい。大丈夫、そいつは人を騙すようなやつじゃない。朝、日が昇る前に発つから……。心配しないでいいよ」
沙流川のある二風谷から松前まではかなりの距離がある。陸地を伝って行くには一か月はかかるだろう。当然、熊などの獣にも注意が必要で安全な旅ではない。こういうチャンスでもなければ安易に行動には移せない。
「そうか……まあ、それでも和人には気をつけてな」
チパパが念を押した。ジュンジは「ああ、心配ない」と答え視線を部屋の隅に向けた。
「レラ? また流人か?」
「うん。今朝洞窟の前で倒れてたよ」
「洞窟? レラ、イルファの洞窟に行ったのか? 気をつけろよ、身重なんだからあんまり外を出歩かないようにしなきゃ」
「ジュンジもチパパと同じようなこと言うのね」
レラは舌を出しておどけて見せた。
ジュンジは流人を見て、自分も同じように「流人」としてこの世界に迷い込んだ過去を思い出していた。黙って左手の薬指から指輪を抜くとじっと眺める。
沙流川流域には、九戸の小さなアイヌ集落があった。老若男女四十人足らずのアイヌ人たちがひっそり暮らしている。
明治政府が設置した「開拓使」は北海道内各地のアイヌ民族を安価な労働力として使い未開の地を農地や住宅地として切り開く作業を開始していた。
満月の夜、月の光は妖しく地面を照らしていた。上流の川べりにある洞窟はうっそうとした森に囲まれている。樹木の隙間からわずかな月光が降り注ぎ、山の湧き水で濡れてゴツゴツとした岩肌を浮き彫りにしていた。
洞窟の入り口の平らな岩の上に若い男がうつぶせで倒れている。
顔は半分山の雪解け水に浸り、ワイシャツやズボンは水と泥にまみれていた。髪は濡れて額に張りついている。
遠くで狼の遠吠えが聞こえた。
朝、若い娘が茅葺の家の入口から家の中に向けて大きな声を出した。
「チパパぁ! 『イルファの洞窟』の前で、流人が倒れてるよ!」
チパパと呼ばれた白髪にあご鬚の老人が、ゆっくりと茅葺(かやぶき)屋根の家から出てきた。
老人は左右対称の文様が入ったアットゥシ織の着物を着ている。
「レラ! またあの洞窟へ行ったのか? あれほど近づいてはだめだと言ったじゃろう。しょうがないやつだ! お前は二カ月後の月夜に子を産むんだぞ。もう少しおとなしくしてなさい」
「はあい」
レラという娘は、大きなお腹に両手を添えながら舌を出して笑った。腰に巻いた前掛けにはシンメトリーの模様が入っている。
「さあさあ、まだこの季節は寒いから、中に入って温まりなさい」
チパパに促されながら、レラは入り口にかかっている茅のすだれをくぐった。
それほど上背はないが、少しふくよかな体つきからは天真爛漫な気性が伺える。
レラは、口の前で両手を重ねて息を吹き込み「寒い寒い」と言いながら屋内に入った。低い気温が頬を赤く染めている。鹿の皮と樹皮で織り込んだ肩掛けを木の枝にかけると、薄茶色のアットゥシを脱いで襦袢だけになり居間の中央にある大きな囲炉裏の脇に腰を下ろした。
囲炉裏の中央で焚かれている火にしばらく手を当てると、途中まで織り込んだアットゥシ織の器具を引き寄せて織物を再開する。
レラは大きな二重瞼の黒い瞳に丸い顔が愛らしく村では評判の美人だった。愛嬌のある話し方で優しく面倒見も良いので、特に村の子どもたちから人気がある。
「ジュンジはどうした?」
囲炉裏の脇に座るレラを見ながらチパパは彼女と反対側のゴザに腰を下ろした。
「朝早く、川に出かけたままだよ」
レラは忙しく手を動かしている。
「そうか……。ところでレラ、流人はどんな格好だった?」
チパパは、古い手帳を取り出し筆で何か書き始めた。
──また満月の夜か……。
レラが織物の手を止めた。
「変な衣装来てた。みんなが着てる着物じゃないよ」
チパパは黙々とレラの言うことを筆で描き込んで、手帳を閉じ立ち上がると「ちょっと出てくる」と言ってクマの毛皮を羽織って出ていった。
家の前で何人かの若者を呼び止めたチパパが何か話している。器用に手を動かして説明しながら、彼らに「イルファの洞窟」へ行くように指示していた。
「いいか、まちがっても洞窟の中を覗いたり、入ったりしてはならんぞ」
しばらくして、村の若者が若い男を担いで帰って来た。
チパパは、男を家の中に入れるように指示しレラに寝床の準備をさせた。
白いワイシャツに黒いズボンをはいた流人がずぶ濡れでぐったりしている。手がわずかに震えていた。顔は青ざめ紫色の唇がガチガチという音を立てている。
「レラ、湯を沸かしてくれ、それから手拭いで身体を拭いてやれ」
チパパが村の若者たちに手を上げる。数人の若者は何度も後ろを振り返り口々に何か話しながら出ていった。
レラは、立ち上がって台所から大きな鍋に水を入れて囲炉裏のそばに来ると、鍋を中央の焚き木の上に置く。
湯がわくまでの時間、ゴザの脇に座ったレラは、意識を失っている流人の衣服を脱がせて乾いた手拭いで身体を拭き始めた。
「あれ? チパパ、何か入ってる」
興味深くポケットの中のプラスティックケースを取り出した。
「変わった入れ物ね」
チパパはケースをレラから受け取り、中に入っているカードをしばらく眺めた。
『北海大学 学生証 一ノ瀬春樹』
「それは? なあに?」レラが興味深げにチパパの手元を見ている。
「自分がどこの誰かを示す札じゃよ。和人のものだ」
チパパからプラスティックケースを受け取ったレラが目の高さに持ち上げて眺める。
「へえ……じゃあ、この人は和人なの?」
チパパが微笑みながら「そうだ」と言うと、レラからケースを受け取り自分の手帳に学生証を挟んだ。
一ノ瀬春樹は夢を見ていた。
深い湖の底を泳いでいて身体は凍えそうな寒さで震えている。
しばらくすると目の前にポッカリと口を開けた黒い洞窟のようなものが見えた。
洞窟の中は淡い光で照らされている。
女の声が聞こえた「ハルキ」と自分の名前を呼んでいるようだ。洞窟に入るとそこは水の中ではなかった。
立ち上がってよろよろと歩いていると、光に包まれた美しい女の顔が見えた。数メートル先で微笑んでいる。
光のハレーションではっきり見えないが女は全裸だった。春樹はその美しさに魅了されて引き寄せられるように光に向かって歩く。
突然気が遠くなって膝をついた。
薄れていく意識の中で女の言葉が何度も繰り返されて響く。
「ワタシはイルファ……」
囲炉裏(いろり)の脇で寝ていた春樹の意識がだんだんと戻って来た。
薄目を開けると目の前に女の顔がある。丸顔の黒い瞳がじっと覗いていた。
──誰だ?
「チパパ! 気がついたみたいよ!」
女が大きな声で叫んだ。
「あっ!」と声を出して起き上がろうとするが、激しい頭痛に襲われ再び寝床に身体を沈めた。
目の前に見た顔は夢に出てきた女の顔によく似ていた。
「まだ、無理をしてはだめだ。しばらく寝ていると良い」
女の脇で白髪の老人が優しそうな眼をして話しかけた。
春樹は目を閉じて深く呼吸をする。
──様子がおかしい。ここはどこなんだ? 俺はどうしてここに寝ているんだろう。
もうろうとした意識が次第にはっきりしてきた。引き換えにさっきまで見ていた夢が徐々に記憶から消えていく。ただ、全裸の女だけは不思議と脳裏に残った。
──そうだ! 俺は事故でダムに転落したんだ。
春樹は、アイヌの歴史に関する卒業論文を仕上げ、大学を去る日を目前に控えていた。
長い間捜し歩いたが、父の一ノ瀬純二には会えていない。諦めきれない春樹は、福岡に
帰る前にもう一度二風谷で父の消息を探る手掛かりを掴もうとした。
何度も訪れた平取町では、街の人とすっかり馴染みになっていた。春樹は二風谷ダムの周辺でいろんな話を訊いたが、肝心なことを知る人にはやはり会えない。
これといった情報は手に入らないまま、半ば諦めの境地でダムの周囲を車で走っているとき、突然意識がとんで運転している車がガードレールを突き抜けた。
そこまで思い出して、また深い眠りに落ちていった……。
「ジュンジ、遅いわね」
レラは織物を中断して夕食の準備に取り掛かっていた。
「どこまで行ったんだ? レラ、ジュンジは何か言ってなかったか?」
「うん、砂金を採りに行くって言ってた」
「砂金? 最近は和人が砂金採りにこのあたりまで来ているらしい、奴らと会って争いごとに巻き込まれなければいいんだが──」
チパパがあごに手をやり心配そうな顔をする。
沙流川で砂金が採れることを発見したのは、この集落のアイヌの若者だった。当時砂金は和人との交易手段として重宝されたが、和人がどこからかその情報を入手し沙流川を占拠し始めた。
「大丈夫よ、ジュンジなら和人の言葉も話せるし……。それに争いは嫌いだから」
レラが笑顔で答えたとき、がっしりした体格に優しい目をした男が入って来た。
「あっ、ジュンジお帰り。遅かったね」
「うん、川で和人と出会ってね。しばらく話し込んでた」
ジュンジと呼ばれた男は雨除けの蓑を自分の肩から外した。
「和人?」チパパが囲炉裏の脇に座ったまま顔を上げて心配そうな顔をした。
「ジュンジ、和人との話っていったいなんじゃ?」
ジュンジはチパパを見ながら囲炉裏の脇に座った。喫煙具にタバコを差し込んで吸い始める。レラが立ち上がってお茶の準備を始めた。
「最初はたわいもない話をしてたんだけど、そいつが俺を交易の通訳に誘ってきたんだ」
チパパは興味深げに脇に置いてある手帳を手に取った。
「きっと、和人の言葉が通じるのが珍しかったんじゃろ?」
「そうらしい……。断ったけどね。和人の思いどおりにこき使われるのはたまらん」
荷物の中から砂金の入った袋を出してチパパに渡した。
当時のアイヌは、和人との物々交換による交易を生業の一つとしていた。取引の条件はアイヌにとって不利なものだったが、苦情を申し出た者はいない。
「俺と話した男は、松前から来たって言ってた」
「松前? 和人はそんな遠くから砂金を採りに来ているのか……」とチパパは不安げな顔をした。
「ああ、若くてなかなかいいやつでね。お上から言われたままに取引するのがつらいって嘆いてたよ。そいつから江戸末期の人身御供の話を聴いたんだ」
「人身御供? 矢越岬の伝説の話か?」
チパパの目が光る。
「そうだ、それでチパパ、明日からしばらく旅に出るよ」
チパパが手帳を見ながら座りなおした。
「人身御供の話を確かめに行くんじゃな?」
「そのとおりだ。伝説が真実なのか確かめたい。そいつからもっと詳しく話も訊きたいし実際に自分の目で見てみたい」ジュンジが勢い込んでチパパに顔を向けた。
「またぁ、ジュンジの悪い癖ね。ちょっと興味がわくと確かめずにはいられない」
レラがお茶を出しながら男の顔を伺い小さく笑った。
「そう。レラの言うとおりだ」
ジュンジは笑いながらレラを見た。
「どうやって行くんじゃ? 矢越岬は松前の先じゃが?」
チパパが問うと、ジュンジは笑顔で返した。
「今日会ったやつが船で案内してくれるらしい。大丈夫、そいつは人を騙すようなやつじゃない。朝、日が昇る前に発つから……。心配しないでいいよ」
沙流川のある二風谷から松前まではかなりの距離がある。陸地を伝って行くには一か月はかかるだろう。当然、熊などの獣にも注意が必要で安全な旅ではない。こういうチャンスでもなければ安易に行動には移せない。
「そうか……まあ、それでも和人には気をつけてな」
チパパが念を押した。ジュンジは「ああ、心配ない」と答え視線を部屋の隅に向けた。
「レラ? また流人か?」
「うん。今朝洞窟の前で倒れてたよ」
「洞窟? レラ、イルファの洞窟に行ったのか? 気をつけろよ、身重なんだからあんまり外を出歩かないようにしなきゃ」
「ジュンジもチパパと同じようなこと言うのね」
レラは舌を出しておどけて見せた。
ジュンジは流人を見て、自分も同じように「流人」としてこの世界に迷い込んだ過去を思い出していた。黙って左手の薬指から指輪を抜くとじっと眺める。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
凪の始まり
Shigeru_Kimoto
ライト文芸
佐藤健太郎28歳。場末の風俗店の店長をしている。そんな俺の前に16年前の小学校6年生の時の担任だった満島先生が訪ねてやってきた。
俺はその前の5年生の暮れから学校に行っていなかった。不登校っていう括りだ。
先生は、今年で定年になる。
教師人生、唯一の心残りだという俺の不登校の1年を今の俺が登校することで、後悔が無くなるらしい。そして、もう一度、やり直そうと誘ってくれた。
当時の俺は、毎日、家に宿題を届けてくれていた先生の気持ちなど、考えてもいなかったのだと思う。
でも、あれから16年、俺は手を差し伸べてくれる人がいることが、どれほど、ありがたいかを知っている。
16年たった大人の俺は、そうしてやり直しの小学校6年生をすることになった。
こうして動き出した俺の人生は、新しい世界に飛び込んだことで、別の分かれ道を自ら作り出し、歩き出したのだと思う。
今にして思えば……
さあ、良かったら、俺の動き出した人生の話に付き合ってもらえないだろうか?
長編、1年間連載。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
琥珀と二人の怪獣王 建国の怪獣聖書
なべのすけ
SF
琥珀と二人の怪獣王の続編登場!
前作から数か月後、蘭と秀人、ゴリアスは自分たちがしてしまった事に対する、それぞれの償いをしていた。その中で、古代日本を研究している一人の女子大生と三人は出会うが、北方領土の火山内から、巨大怪獣が現れて北海道に上陸する!戦いの中で、三人は日本国の隠された真実を知ることになる!
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
冬の水葬
束原ミヤコ
青春
夕霧七瀬(ユウギリナナセ)は、一つ年上の幼なじみ、凪蓮水(ナギハスミ)が好き。
凪が高校生になってから疎遠になってしまっていたけれど、ずっと好きだった。
高校一年生になった夕霧は、凪と同じ高校に通えることを楽しみにしていた。
美術部の凪を追いかけて美術部に入り、気安い幼なじみの間柄に戻ることができたと思っていた――
けれど、そのときにはすでに、凪の心には消えない傷ができてしまっていた。
ある女性に捕らわれた凪と、それを追いかける夕霧の、繰り返す冬の話。
INNER NAUTS(インナーノーツ) 〜精神と異界の航海者〜
SunYoh
SF
ーー22世紀半ばーー
魂の源とされる精神世界「インナースペース」……その次元から無尽蔵のエネルギーを得ることを可能にした代償に、さまざまな災害や心身への未知の脅威が発生していた。
「インナーノーツ」は、時空を超越する船<アマテラス>を駆り、脅威の解消に「インナースペース」へ挑む。
<第一章 「誘い」>
粗筋
余剰次元活動艇<アマテラス>の最終試験となった有人起動試験は、原因不明のトラブルに見舞われ、中断を余儀なくされたが、同じ頃、「インナーノーツ」が所属する研究機関で保護していた少女「亜夢」にもまた異変が起こっていた……5年もの間、眠り続けていた彼女の深層無意識の中で何かが目覚めようとしている。
「インナースペース」のエネルギーを解放する特異な能力を秘めた亜夢の目覚めは、即ち、「インナースペース」のみならず、物質世界である「現象界(この世)」にも甚大な被害をもたらす可能性がある。
ーー亜夢が目覚める前に、この脅威を解消するーー
「インナーノーツ」は、この使命を胸に<アマテラス>を駆り、未知なる世界「インナースペース」へと旅立つ!
そこで彼らを待ち受けていたものとは……
※この物語はフィクションです。実際の国や団体などとは関係ありません。
※SFジャンルですが殆ど空想科学です。
※セルフレイティングに関して、若干抵触する可能性がある表現が含まれます。
※「小説家になろう」、「ノベルアップ+」でも連載中
※スピリチュアル系の内容を含みますが、特定の宗教団体等とは一切関係無く、布教、勧誘等を目的とした作品ではありません。
心の落とし物
緋色刹那
ライト文芸
・完結済み(2024/10/12)。また書きたくなったら、番外編として投稿するかも
・第4回、第5回ライト文芸大賞にて奨励賞をいただきました!!✌︎('ω'✌︎ )✌︎('ω'✌︎ )
〈本作の楽しみ方〉
本作は読む喫茶店です。順に読んでもいいし、興味を持ったタイトルや季節から読んでもオッケーです。
知らない人、知らない設定が出てきて不安になるかもしれませんが、喫茶店の常連さんのようなものなので、雰囲気を楽しんでください(一応説明↓)。
〈あらすじ〉
〈心の落とし物〉はありませんか?
どこかに失くした物、ずっと探している人、過去の後悔、忘れていた夢。
あなたは忘れているつもりでも、心があなたの代わりに探し続けているかもしれません……。
喫茶店LAMP(ランプ)の店長、添野由良(そえのゆら)は、人の未練が具現化した幻〈心の落とし物(こころのおとしもの)〉と、それを探す生き霊〈探し人(さがしびと)〉に気づきやすい体質。
ある夏の日、由良は店の前を何度も通る男性に目を止め、声をかける。男性は数年前に移転した古本屋を探していて……。
懐かしくも切ない、過去の未練に魅せられる。
〈主人公と作中用語〉
・添野由良(そえのゆら)
洋燈町にある喫茶店LAMP(ランプ)の店長。〈心の落とし物〉や〈探し人〉に気づきやすい体質。
・〈心の落とし物(こころのおとしもの)〉
人の未練が具現化した幻。あるいは、未練そのもの。
・〈探し人(さがしびと)〉
〈心の落とし物〉を探す生き霊で、落とし主。当人に代わって、〈心の落とし物〉を探している。
・〈未練溜まり(みれんだまり)〉
忘れられた〈心の落とし物〉が行き着く場所。
・〈分け御霊(わけみたま)〉
生者の後悔や未練が物に宿り、具現化した者。込められた念が強ければ強いほど、人のように自由意志を持つ。いわゆる付喪神に近い。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる