イルファ

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北へ

絶望と希望

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 翌朝、早く目が覚めた里沙は、テレビの朝のニュースを見ながら手を握りしめていた。

「おはよう、里沙、早いわね」

 一花いちかが眠そうに起き上がり洗面台に向かおうとしたとき、テレビの画面が目に入った。
里沙は画面を凝視している。アナウンサーの無機質な声が聞こえた。

『今朝五時ごろ、二風谷にぶたにでダムに転落したと思われる車が引き上げられました』

 画面にはダムからクレーンで引き上げられる白い車が映っている。

 一花が反射的に里沙の横に腰を下ろした。ベッドが軋む。

『引き上げられた車内の状態から、持ち主は一か月前から行方不明になっている一ノ瀬春樹さんと思われます。警察は、朝から二風谷ダムの捜索を開始しました』

一花は息を呑んでニュースを見ていた。

『事故に巻き込まれた形跡はなく、道警は、一ノ瀬さんが誤って二風谷ダムに転落したものと見て調べています』

 昨日、半透明の赤い視界の中で見た光景が、そのままテレビ画面の中にある。キャスターは、春樹の生存が危ぶまれると言わんばかりの口調でニュース原稿を読んでいた。

里沙は「春樹が事故にって湖に沈んだ」というニュースに衝撃を受けて動けない。

「一花……。昨日言ってたのはこのこと? 予言した……ってこと? 兄さんは車に乗ったままダムの底に沈んだんだわ。……兄さんは……兄さんは……もう――」

一花は里沙の肩を掴んだ。顔を両手で覆っている。

「里沙、大丈夫よ! 捜索中で春樹がまだ見つかってないって言ってるだけ! 信じようよ! 春樹は必ず生きてる!」

 里沙は涙目で大きく首を縦に振った。

『次のニュースです──』

 一花はリモコンでテレビを消して震える里沙の肩を抱き寄せた。

静寂な空気の中に朝を告げる小鳥のさえずりが聞こえる。しばらくして、静かに里沙から離れた一花がスマートフォンを手に取り、父の電話番号をタップした。

「お父さん? 起きてる?」
「なんだ? こんな朝早く……」
 眠そうな裕也の声が聞こえる。

「あ、ごめん……今、ホテルのテレビを見てたらね――」

 一花は、ニュースの内容や里沙がそれにショックを受けていること、自分たちに昨日起こったことを簡潔に説明した。

「父さん、どう思う? 里沙が震えているのは、車ごとダムに沈んだ春樹の寒さが伝わったっていうこと?」
 スマートフォンのスピーカーをオンにした。部屋に響く裕也の声に耳を傾けながら里沙は不安な目をしている。

「うん。多分間違いないだろう。里沙さんがカウンセリングに来た後に少し調べてみた。知人や親しい人の感覚を遠く離れた場所で同時に感じることもあるらしい」

 里沙の顔が少し明るくなる。

「――っていうことは、春樹が感じていることを里沙も感じたってことよね」

「ああ、そうだ」二人は声を聞きながら顔を見合わせた。一花が笑顔になる。

「じゃあ! 春樹はまだ生きてるってことよね!」
「そうなるな……。春樹君もどこかで里沙さんと同じ寒さを感じていることになる。シンクロニシティっていって、よくいう『虫の知らせ』に近い現象だ」

 二人はお互いの顔を見て大きく首を縦に振った。

「それじゃ、あたしのは? 前に目の前が緑色になったって言ったでしょ。今度は赤色になったの」

「赤?」
「そうよ、今度は赤。それでね、赤い背景に車が引き上げられたとこを見たの」

「うん」
「そしたらさ、今朝テレビのニュースで全く同じ映像を見たのよ!」

「えっ? 未来を予言したってことか?」
「そうなの、信じてくれるでしょ?」

「ああ、昔から、おかしなことは言うが嘘はつかない。緑色の場合は過去で、赤色は未来が見えたってことだろう。常識では考えられんが──」裕也の声は心強い。

「そうか、わかった。じゃあね」

一花は電話マークをタップすると里沙を見た。

「里沙、大丈夫よ。あたしの父さんの言うとおりだとすると、里沙の震えは、その、シンクロなんとかっていって春樹が生きている証拠なのよ!」

 里沙が無言のまま一花の目を見た。希望の光が里沙の瞳に宿っている。

そのとたん、里沙のスマートフォンの呼び出し音が響いた。

受話器のマークをタップする。

「里沙! 今ね、大学から連絡がきたの! 春樹の車が見つかったって──」
電話の声は奈津美だった。

「うん! 私もテレビのニュースで今知った。近くにいるから午前中にでも警察に行って詳しいことを訊いてみる」

「春樹は! 春樹はもうだめだったのね。車の事故だなんて……」
 奈津美の狼狽ろうばいぶりが伝わってくる。

「お母さん! 慌てないで! まだ何にもわかってないんだから! とにかく、私からの連絡を待ってて!」

里沙は、うろたえる奈津美を必死でさとした。

横に座っている一花が二風谷管轄の警察を調べていて「これだ!」と顔を上げた。

「里沙、門別もんべつ警察よ、すぐに支度しよう!」
 二人は朝食も取らずにホテルを出た。

 門別警察刑事課の掛川は、困った顔をしてデスクに座っていた。

「遺体が見つからないんじゃ調べようがないな」

「掛川刑事、二風谷ダムの件で一ノ瀬さんの親族の方が見えています」
 部下の白石が受話器を持ったまま話しかける。

「うん? そうか、応接に案内してくれ」

 机の上の捜査書類を持った掛川は、席を立って応接室に向かった。大きな身体は時に威圧的に感じるが性格は繊細で優しい。

掛川は、訪ねてきた親族にどう伝えるかを考えながら廊下を歩いていた。応接室の前には若い二人の女性が神妙な顔で立っている。

「お世話になります」

 一ノ瀬里沙が掛川に会釈する。掛川は自分の名刺を渡して二人を室内に案内し、席に着くように促した。

「ご心配ですね」掛川が椅子に座ってネクタイを少し緩める。

「では、形式的ですみませんが、行方不明者とのご関係からお伺いします」
 笑顔で声をかけた。

 里沙は、北海道の大学に通う自分の兄が、一か月前から行方不明であることを伝えた。自分の身分証明として免許証をテーブルの上に置く。

 券面を見た掛川は「わかりました」と言い、免許証を里沙に返して説明を始めた。

「実は、まだ報道には話していませんが、事件と事故の両面から調べています」
 二人は黙って掛川を見た。

「事件?」里沙が首を傾げる。

「そうです。何か心当たりはありませんか? 先ほど北海大学の関係者の方からも連絡があったんで事情をお聞きしたんですが、これといって有力な情報は得られませんでした。一ノ瀬春樹さんご本人が見つかってないので、次の手が打てずに困ってたんです」

 掛川は、そう答えて困り果てた顔をした。

「人ひとりの安否が絡んでいるんでね。事件性がなくてもしっかり捜査したいんです」

 掛川の声には「人命を第一に考える」はっきりした意志が伺える。

 里沙が目で一花の了解を得ると、北海道に来た理由を説明し始めた。

「とても、信じてはもらえないと思いますが──」

 二人が体験したことや、五感に伝わってきた感覚から春樹の存在を身近に感じていることを話した。

 二人の目は真剣だ。

 掛川は、左手の握りこぶしを口元に当てながら警察手帳を取り出した。

「ふむ。その……震える……という感覚はいつごろからですか?」

 手帳を広げて、胸からペンを取り出した。二人の話を簡略に書き始める。

「一か月以上前からです。先日、霊的能力のあるカウンセラーに相談したんですが、自分たちに起こる震えなんかの症状も兄の失踪と関係していると言っていました」

里沙の話を聞いて、掛川のペンを持つ手が止まる。

「霊能力ですか?」

「はい。そのカウンセラーは、アイヌの歴史とダムや洞窟がキーワードだと言っていました。兄は大学に入る前にアイヌのことに興味を持っていたみたいで……。それで二人で考えて二風谷ダムに来たんです」里沙は一つ一つゆっくりと自分の経験を話した。

「興味深い話ですね。北海道には湖やダムはたくさんあります。その中で二風谷ダムを選んで来てみたら車が引き上げられた……。偶然にしちゃ出来過ぎだ」

 掛川はペンを持った手を顔の位置まで上げてテーブルに肘をついた。

「信じてくれるんですか?」

 里沙が身を乗り出して掛川を見つめる。

「刑事ってね、疑うことが仕事だってよくいうでしょ? でもね、時には信じることで事件が解決することだってあるんです。どんな些細なことでも事件解決のために聞き逃さないように注意しています」

 事件に関係する証言者の声を信じて裏を取るのが掛川の考え方だった。

「お兄さんは、まだ見つかっていません。でも、お話をお訊きすると生存の可能性も高いですね。それと、洞窟ですか……。このあたりでは聞かないなあ──」

 掛川は頭をかきながら調書を眺めた。

 里沙は一花と顔を見合わせて微笑んだ。春樹の生存を信じてもらえるだけでも嬉しい。

「お二人のお話を伺うと、事件性はないと考えて良いようですね……。それから今朝捜索していたら変なものが見つかったんです。事故とは直接関係ないと判断されましたが、なぜか気になりましてね……ちょっと待ってください」

 掛川はそばの内線電話で事務所に連絡を取った。

「ああ、白石か? 例のやつ持ってきてくれ……。うん、大丈夫だ。ご親族にお渡しした方が良いと思ってな──」

 しばらくすると、部下の白石が布製の袋を持って部屋に入って来た。掛川が「どうぞ」と二人の前に袋を置く。

「いやあ、車の発見現場の近くの木にぶら下がってたんですよ。中にメモ帳が入ってましてね。参考品として取っておいたんですが、書いてあることが支離滅裂しりめつれつで全く理解できないんです。さっきのお二人の不思議な話を伺って何か参考になればと──」

 横で聞いていた白石が心配そうな顔をした。

「本当にいいんですか? 渡しちゃっても――」

「――いいんだよ。一番心配されているのはご親族だろ。事件性がないようなら一番必要な人に渡すべきじゃないか?」

「掛川さん……知りませんよ。どうなっても」

「大丈夫だ」

 掛川は白石にそう言うと笑顔で二人を見る。一花は感心した。

──警察っていい人もいるじゃん。

二人は、掛川に一礼して部屋を後にした。白石と何やら話しているのが背中越しに聞こえる。
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