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北へ
沙流川の流れ
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二人は、二階に上がって展望室へ出た。二風谷ダムとダム湖が一望できる。夕暮れの二風谷ダムは静かな波をたたえていた。里沙もようやく落ち着きを取り戻す。
──私のことも、兄さんのことも……。すべてがわかるまでもう動揺しない――。
里沙はどんな事実も冷静に受け止めようと決意した。
沙流川の緩やかな流れを見つめながら、里沙は『兄さん!』と心の奥で叫んだ。
歴史館の閉館時間が迫っている。
「今日はここまでにしようよ里沙。明日も来てみよう」
まだ北海道初日だ。時間は十分残されている。二人は夕暮れの迫るダムを後にした。
広い駐車場には二人の乗る車だけがポツンと残っている。黙って車まで歩き一花が運転席に乗り込んだ。シートベルトをしめようと手をかけたとき、瞼の裏に異物が入り込んだ気がして右手で何度も目をこする。目を開けた一花は複視眼で前を見た。
「あっ!」と一花が突然驚きの声を出したので、里沙が顔を覗き込んで仰天した。
「一花! 目が赤い!」
一花の視界が見る見るうちに赤く染まっていった。恐怖を感じているためか身体が硬直している。心の中で「今度は赤だ!」と叫んだ。
赤い視界の中に二風谷ダムがぼんやり見えた。
すると、岸に近い湖面に大きな波しぶきが上がる。
湖からクレーンで引き上げられる白い車が浮かんできた。
ボディから水がしたたり落ちている。
フロントガラスに白い紙が張りついていて、北海大学購入証の文字が見える。
──北海大学? 春樹? 春樹の車だ!
頭の後ろあたりで女性の声がする。
『助けて』
引き上げられる車と半透明の美しい女の顔が重なる。
女は悲しげな顔をして口を動かした。
『ハルキを助けて──』
──春樹? 春樹はどこにいるの?
『お願い……ハルキを助けて』女の顔が薄れていく…………。
「一花! 一花!」
里沙から心配そうに何度も声をかけられて、ようやく我に返り里沙に顔を向けた。
「里沙──」
「大丈夫?」
「大丈夫。でも里沙ごめん、運転代わってくれる?」
里沙がドアを開けて助手席から運転席に移る。一花は驚きと恐怖が入り交じった複雑な表情で外の空気を吸った。冷え冷えとした外気がのどから身体に入ってくる。運転席に着いた里沙の顔を見ながら助手席側のドアを開け、身体を滑りこませた。
里沙がエンジンをかけてサイドブレーキを下ろそうとしたとき一花がその手を止めた。
「ちょっと待って……。里沙、今ね……ダムから白い車が引き上げられるところが見えたの――」
「えっ、白い車? どういう意味?」
「よくわからない。何が起こったのかうまく言えないけれど、目の前が赤くなって──」
赤い視界の中で見た内容を里沙に伝えながら、春樹の車が事故でダムに転落したという不吉な予感が一花の胸を去来した。
里沙はエンジンを止めて話を聞いていたが、やがて耳を抑えて前かがみになりハンドルに頭を着けるようにして唸り始めた。両腕を掴んで震えている。
「里沙? また、寒さを感じるのね?」
北海道に来てから、里沙の謎の震えは頻繁に起こっていた。
「寒さを感じるだけじゃなくて声も聞こえる。兄さんの声みたい……」
「春樹の声?」
「うん。誰かの名前を呼んでたわ」
里沙が聞いたのは何度も同じ名前を叫ぶ春樹の声だった。
「里沙……。ここにきっと何かがあるんだよ」
一花の視線の先には薄暮の二風谷ダムが静かに横たわっている。
「少し疲れた」と言う一花を横目に里沙はエンジンをかける。すでに太陽は西の地平線に姿を消していた。
──私のことも、兄さんのことも……。すべてがわかるまでもう動揺しない――。
里沙はどんな事実も冷静に受け止めようと決意した。
沙流川の緩やかな流れを見つめながら、里沙は『兄さん!』と心の奥で叫んだ。
歴史館の閉館時間が迫っている。
「今日はここまでにしようよ里沙。明日も来てみよう」
まだ北海道初日だ。時間は十分残されている。二人は夕暮れの迫るダムを後にした。
広い駐車場には二人の乗る車だけがポツンと残っている。黙って車まで歩き一花が運転席に乗り込んだ。シートベルトをしめようと手をかけたとき、瞼の裏に異物が入り込んだ気がして右手で何度も目をこする。目を開けた一花は複視眼で前を見た。
「あっ!」と一花が突然驚きの声を出したので、里沙が顔を覗き込んで仰天した。
「一花! 目が赤い!」
一花の視界が見る見るうちに赤く染まっていった。恐怖を感じているためか身体が硬直している。心の中で「今度は赤だ!」と叫んだ。
赤い視界の中に二風谷ダムがぼんやり見えた。
すると、岸に近い湖面に大きな波しぶきが上がる。
湖からクレーンで引き上げられる白い車が浮かんできた。
ボディから水がしたたり落ちている。
フロントガラスに白い紙が張りついていて、北海大学購入証の文字が見える。
──北海大学? 春樹? 春樹の車だ!
頭の後ろあたりで女性の声がする。
『助けて』
引き上げられる車と半透明の美しい女の顔が重なる。
女は悲しげな顔をして口を動かした。
『ハルキを助けて──』
──春樹? 春樹はどこにいるの?
『お願い……ハルキを助けて』女の顔が薄れていく…………。
「一花! 一花!」
里沙から心配そうに何度も声をかけられて、ようやく我に返り里沙に顔を向けた。
「里沙──」
「大丈夫?」
「大丈夫。でも里沙ごめん、運転代わってくれる?」
里沙がドアを開けて助手席から運転席に移る。一花は驚きと恐怖が入り交じった複雑な表情で外の空気を吸った。冷え冷えとした外気がのどから身体に入ってくる。運転席に着いた里沙の顔を見ながら助手席側のドアを開け、身体を滑りこませた。
里沙がエンジンをかけてサイドブレーキを下ろそうとしたとき一花がその手を止めた。
「ちょっと待って……。里沙、今ね……ダムから白い車が引き上げられるところが見えたの――」
「えっ、白い車? どういう意味?」
「よくわからない。何が起こったのかうまく言えないけれど、目の前が赤くなって──」
赤い視界の中で見た内容を里沙に伝えながら、春樹の車が事故でダムに転落したという不吉な予感が一花の胸を去来した。
里沙はエンジンを止めて話を聞いていたが、やがて耳を抑えて前かがみになりハンドルに頭を着けるようにして唸り始めた。両腕を掴んで震えている。
「里沙? また、寒さを感じるのね?」
北海道に来てから、里沙の謎の震えは頻繁に起こっていた。
「寒さを感じるだけじゃなくて声も聞こえる。兄さんの声みたい……」
「春樹の声?」
「うん。誰かの名前を呼んでたわ」
里沙が聞いたのは何度も同じ名前を叫ぶ春樹の声だった。
「里沙……。ここにきっと何かがあるんだよ」
一花の視線の先には薄暮の二風谷ダムが静かに横たわっている。
「少し疲れた」と言う一花を横目に里沙はエンジンをかける。すでに太陽は西の地平線に姿を消していた。
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