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帽子屋
針から守る帽子屋の手首を切り裂き、真実に
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「貴方から話を色んな話を聞いて……向こうでの楽しかったこと、思い出したの」
刃を向けられていると言うのに、薄暗い空を仰ぐ。目をつぶり、憂うような、懐かしむような……そんな表情。口元には笑み。
「夏の暑い日の麦わら帽子、おばあちゃんが被せてくれた。冬の寒い日、私が編んだニット帽を一緒に被ってくれた──そんなこと、思い出せたの」
ずっとお墓参りも行ってないな、と彼女は付け足す。
「──何の話?」
「私のせいでおばあちゃん、お母さんお父さんとか親戚から疎まれちゃったから。私がお墓の手入れしてあげないと」
そして帽子屋のお姉さんは──両手を差し出した。
一歩、一歩と……近づいてくる。その動作が示すこと。いつかの言葉が頭の中で響き渡る。
『私の命は──この両手。帽子が作れなくなっちゃうからね』
反対に私は少しずつ後ろへ下がってしまう。
「私達おばあちゃん子だもの。きっと気が合うわ」
またにっこりと、笑う。出会った時と何も変わらない。人の良さそうな、お姉さんのような包容力。
消すのなら──嫌ったままで、何も想うことがないままでやりたかった。そのままでいてして欲しかった。
手の震えが更に増す。やはり消したくないと思ってしまう。話し合えば分かり合えるのではないかと思って、反射的に足が後ろへ逃げてしまう。
「お姉さん、私……やっぱり」
「だめよ。このまま貴方は進んで。きっと進む時なの」
私も、貴方も──呟く彼女。
「向こうに戻ったら、また友達になりましょう」
許せない気持ちと、逃げ出したい気持ち。よく分からない感情にぐちゃぐちゃ。けれどそれにもう一つはっきりと別の気持ちが浮かんでくる。
──向こう?
「向こうってどういうこと」
すっと、彼女から笑みが消えた。真剣な面もちは、大事なことを知っているのだろうと感じる。
むしろ──知らないのは私だけではないだろうか。
違和感に気付いていない訳ではない。気付かないことが猫との関係のために必要なのだと。
「そうね、アリスちゃん。貴方に言っておきたいことがあるの。私が故意で貴方に忘れ物を届けなかったこと、御免なさい」
だけどね──そう彼女は続ける。
「私は貴方に真実を伝えなかった。だけどね、猫さんは貴方に嘘を伝え始めた」
──猫。
どくりと心臓が大きく脈打つ。つばを飲むとゴクリとのどが鳴った。
気付いていたはずのその違和感に……ただ確かめる術も何もなくて。
ここは私の夢の中だから。
私が一番信頼している人。
「きっと猫さんが、この世界の中心」
私を助けてくれた人、最初からずっと傍にいて導いてくれた人。何より……気付いたら無意識のうちに好きになっていた人。
「教えて……あの人は一体何なの。この世界は夢じゃないの?」
──どうやったら帰れるの。
帽子屋さんはまた、ゆっくり微笑んだ。それと同時に、首を横に振った。
「猫さんに気をつけて」
質問には答えてはくれなかった……そして、また歩を進める。私に近づいてくる。
両手を差し出したまま──。
「いや……いやだよ、こんなのもう……」
「私、帽子屋さんになりたかった。けれどうちの家系の人間は誰も認めてくれなかったの、くだらないって。でもおばあちゃんだけ……私の味方だった」
この歪な世界の違和感。夢の世界のはずなのに。
──なんでこんなに悩み、想い、過去があるのか。具体的なのか。まるで本当に存在しているようで。
「そんなおばあちゃんが死んで、私の居場所はなくなった。だから飛び降りたの、屋上から。下に木があるの確認したし、これで両親も少しは私のこと考えてくれるし、おばあちゃんをバカにしないかなって」
夢の中の、はずなのに。
「でも打ち所が悪かったみたい。それでもここで、私は沢山帽子が作れて楽しかった。もう大丈夫、少し怖いけど……おばあちゃんをバカにする奴、殴り飛ばしに行かないと」
気付いたら──涙で目の前が霞んでいた。
「いや」
「泣かないで」
「いやだよ、こんなの」
「ほら、しっかり握って。ここに大きな動脈があるから」
「いやだよ!」
「わがまま言わないの。帰りたいんでしょ」
「帰りたいけど、こんなの!」
「今までだってやってきたでしょう」
「本当はこんなことやっていいのかってずっと思ってた! 夢の中だけど、うさぎもイモ虫も、双子も、あの小さい女王だって! 皆ここにいたいって気持ちがあったのに、私の帰りたいってわがままで消していって!」
「いいのよ。きっと貴方の言葉から、何か思い出したはずだから」
「でも」
「アリスちゃん。おばあちゃんに逢いたいんでしょう。お友達は?」
帰りたい気持ちはずっとある。だけどここにいる時間が長すぎたのか、知り合ってしまった人がいけなかったのか──素直に頷けなくなってしまっていた。
お姉さんは困ったように笑った。
「……しょうがないなぁ」
笑顔のまま、私の手ごと包丁を握り──刃先を自身の手に押し当てた。
「やだ、嫌だよ」
「わがままはダメだよ」
右手、それから左手と。
それ等は本当に大切なもの。正解の証に、赤い血が飛び散った。お姉さんが教えてくれた動脈を切ったのか、勢いよく赤く噴水のように飛沫が舞って、私達の間を染めていく。
「ちゃんと、全部片づけて、帰るんだよ」
「お姉さん」
──溶けていく。
「また、会いたい、な」
しゅうしゅうと、音をたてて……私よりも高かった背は縮み、腰の高さにまでなり、そして地面へ。
「ごめん、なさい」
かがんでも、もう同じ目線で話せない。
座り込み、しばらく声をあげて泣いた。
もう後には戻れない──。
だけど泣き崩れる中、かすれた声が聞こえてくる。優しくて力強くて、最後の響きはいつまでも耳に残った。
──女王を、どうか。
はっとして、顔をあげる。
「え……」
どういうことか、何を言っているのだろう。聞こうにも発言した本人はもういない。彼女の残骸であった赤黒い液体でさえ、もう蒸発してしまっていた。
「女王は……」
──倒したよ?
どうして今更そんなことを最後に呟いたのだろう。私が消したことを知らないのか。
いや待て、と自問自答。
彼女は……一体何に対して、防衛網を張っていたのか。あの矢や檻の本来の相手は誰だったのか。
そんなバカなと思いながらも、嫌な予感がした。
やっとあの女がいなくなった──
ぞっとする。今度は違う声……お姉さんと違って随分幼くて、冷たい響き。更にそれは聞き覚えがあって、背中をサーっと冷たい氷が走る感覚。
そして、目の前で潰れたぬいぐるみの……いや、ぬいぐるみの外の皮だけの状態のものがぷるぷると揺れて立ち上がる。
これで後はあんただけ──
「女王」
自然とその単語が漏れていた。猫と一緒に倒したはずの赤の女王。
「何でアンタがトミーを!」
何を言っているの。トミーはあたしの友達よ──パパがあたしにくれたの。
……ずきんと頭が痛む。
「パパ?」
私に父の記憶はないからか、彼女の言葉が異様にひっかかった。
あんたは嫌い。あたしから全部全部とってずるい──
もうこの際、女王の言うことはどうでもいい。いつも私が嫌いとしか言わないのだから。
それよりも何故……生きているのか。
「どうして」
大切な体はミキサーで粉々にしたのに。
「なんで」
後はあんただけ──
いや……それよりも、もっと、許せないこと。
「アンタ一体何なのよ! どうしてこんなことばっかりするのよ!」
ぷるぷる揺れるそれの動きが止まる。
「私がアンタに何したって言うのよ!」
一瞬、しんとした空気。風も静かに。
いいよ、教えてあげる──
トミーの体だった布はパタリと倒れ、動かなくなった。だけどその体も次に吹いた突風で何処かへ飛ばされていってしまった。
「教えて……?」
あたしのところに来たら、教えてあげる
ただ女王の声だけが耳元に残り、あとはもう静かな空間へと戻っていた。
もう、何も聞こえないし、誰もいない。
「女王」
だけど止まってはいられない──向かう先は決まったのだから。
刃を向けられていると言うのに、薄暗い空を仰ぐ。目をつぶり、憂うような、懐かしむような……そんな表情。口元には笑み。
「夏の暑い日の麦わら帽子、おばあちゃんが被せてくれた。冬の寒い日、私が編んだニット帽を一緒に被ってくれた──そんなこと、思い出せたの」
ずっとお墓参りも行ってないな、と彼女は付け足す。
「──何の話?」
「私のせいでおばあちゃん、お母さんお父さんとか親戚から疎まれちゃったから。私がお墓の手入れしてあげないと」
そして帽子屋のお姉さんは──両手を差し出した。
一歩、一歩と……近づいてくる。その動作が示すこと。いつかの言葉が頭の中で響き渡る。
『私の命は──この両手。帽子が作れなくなっちゃうからね』
反対に私は少しずつ後ろへ下がってしまう。
「私達おばあちゃん子だもの。きっと気が合うわ」
またにっこりと、笑う。出会った時と何も変わらない。人の良さそうな、お姉さんのような包容力。
消すのなら──嫌ったままで、何も想うことがないままでやりたかった。そのままでいてして欲しかった。
手の震えが更に増す。やはり消したくないと思ってしまう。話し合えば分かり合えるのではないかと思って、反射的に足が後ろへ逃げてしまう。
「お姉さん、私……やっぱり」
「だめよ。このまま貴方は進んで。きっと進む時なの」
私も、貴方も──呟く彼女。
「向こうに戻ったら、また友達になりましょう」
許せない気持ちと、逃げ出したい気持ち。よく分からない感情にぐちゃぐちゃ。けれどそれにもう一つはっきりと別の気持ちが浮かんでくる。
──向こう?
「向こうってどういうこと」
すっと、彼女から笑みが消えた。真剣な面もちは、大事なことを知っているのだろうと感じる。
むしろ──知らないのは私だけではないだろうか。
違和感に気付いていない訳ではない。気付かないことが猫との関係のために必要なのだと。
「そうね、アリスちゃん。貴方に言っておきたいことがあるの。私が故意で貴方に忘れ物を届けなかったこと、御免なさい」
だけどね──そう彼女は続ける。
「私は貴方に真実を伝えなかった。だけどね、猫さんは貴方に嘘を伝え始めた」
──猫。
どくりと心臓が大きく脈打つ。つばを飲むとゴクリとのどが鳴った。
気付いていたはずのその違和感に……ただ確かめる術も何もなくて。
ここは私の夢の中だから。
私が一番信頼している人。
「きっと猫さんが、この世界の中心」
私を助けてくれた人、最初からずっと傍にいて導いてくれた人。何より……気付いたら無意識のうちに好きになっていた人。
「教えて……あの人は一体何なの。この世界は夢じゃないの?」
──どうやったら帰れるの。
帽子屋さんはまた、ゆっくり微笑んだ。それと同時に、首を横に振った。
「猫さんに気をつけて」
質問には答えてはくれなかった……そして、また歩を進める。私に近づいてくる。
両手を差し出したまま──。
「いや……いやだよ、こんなのもう……」
「私、帽子屋さんになりたかった。けれどうちの家系の人間は誰も認めてくれなかったの、くだらないって。でもおばあちゃんだけ……私の味方だった」
この歪な世界の違和感。夢の世界のはずなのに。
──なんでこんなに悩み、想い、過去があるのか。具体的なのか。まるで本当に存在しているようで。
「そんなおばあちゃんが死んで、私の居場所はなくなった。だから飛び降りたの、屋上から。下に木があるの確認したし、これで両親も少しは私のこと考えてくれるし、おばあちゃんをバカにしないかなって」
夢の中の、はずなのに。
「でも打ち所が悪かったみたい。それでもここで、私は沢山帽子が作れて楽しかった。もう大丈夫、少し怖いけど……おばあちゃんをバカにする奴、殴り飛ばしに行かないと」
気付いたら──涙で目の前が霞んでいた。
「いや」
「泣かないで」
「いやだよ、こんなの」
「ほら、しっかり握って。ここに大きな動脈があるから」
「いやだよ!」
「わがまま言わないの。帰りたいんでしょ」
「帰りたいけど、こんなの!」
「今までだってやってきたでしょう」
「本当はこんなことやっていいのかってずっと思ってた! 夢の中だけど、うさぎもイモ虫も、双子も、あの小さい女王だって! 皆ここにいたいって気持ちがあったのに、私の帰りたいってわがままで消していって!」
「いいのよ。きっと貴方の言葉から、何か思い出したはずだから」
「でも」
「アリスちゃん。おばあちゃんに逢いたいんでしょう。お友達は?」
帰りたい気持ちはずっとある。だけどここにいる時間が長すぎたのか、知り合ってしまった人がいけなかったのか──素直に頷けなくなってしまっていた。
お姉さんは困ったように笑った。
「……しょうがないなぁ」
笑顔のまま、私の手ごと包丁を握り──刃先を自身の手に押し当てた。
「やだ、嫌だよ」
「わがままはダメだよ」
右手、それから左手と。
それ等は本当に大切なもの。正解の証に、赤い血が飛び散った。お姉さんが教えてくれた動脈を切ったのか、勢いよく赤く噴水のように飛沫が舞って、私達の間を染めていく。
「ちゃんと、全部片づけて、帰るんだよ」
「お姉さん」
──溶けていく。
「また、会いたい、な」
しゅうしゅうと、音をたてて……私よりも高かった背は縮み、腰の高さにまでなり、そして地面へ。
「ごめん、なさい」
かがんでも、もう同じ目線で話せない。
座り込み、しばらく声をあげて泣いた。
もう後には戻れない──。
だけど泣き崩れる中、かすれた声が聞こえてくる。優しくて力強くて、最後の響きはいつまでも耳に残った。
──女王を、どうか。
はっとして、顔をあげる。
「え……」
どういうことか、何を言っているのだろう。聞こうにも発言した本人はもういない。彼女の残骸であった赤黒い液体でさえ、もう蒸発してしまっていた。
「女王は……」
──倒したよ?
どうして今更そんなことを最後に呟いたのだろう。私が消したことを知らないのか。
いや待て、と自問自答。
彼女は……一体何に対して、防衛網を張っていたのか。あの矢や檻の本来の相手は誰だったのか。
そんなバカなと思いながらも、嫌な予感がした。
やっとあの女がいなくなった──
ぞっとする。今度は違う声……お姉さんと違って随分幼くて、冷たい響き。更にそれは聞き覚えがあって、背中をサーっと冷たい氷が走る感覚。
そして、目の前で潰れたぬいぐるみの……いや、ぬいぐるみの外の皮だけの状態のものがぷるぷると揺れて立ち上がる。
これで後はあんただけ──
「女王」
自然とその単語が漏れていた。猫と一緒に倒したはずの赤の女王。
「何でアンタがトミーを!」
何を言っているの。トミーはあたしの友達よ──パパがあたしにくれたの。
……ずきんと頭が痛む。
「パパ?」
私に父の記憶はないからか、彼女の言葉が異様にひっかかった。
あんたは嫌い。あたしから全部全部とってずるい──
もうこの際、女王の言うことはどうでもいい。いつも私が嫌いとしか言わないのだから。
それよりも何故……生きているのか。
「どうして」
大切な体はミキサーで粉々にしたのに。
「なんで」
後はあんただけ──
いや……それよりも、もっと、許せないこと。
「アンタ一体何なのよ! どうしてこんなことばっかりするのよ!」
ぷるぷる揺れるそれの動きが止まる。
「私がアンタに何したって言うのよ!」
一瞬、しんとした空気。風も静かに。
いいよ、教えてあげる──
トミーの体だった布はパタリと倒れ、動かなくなった。だけどその体も次に吹いた突風で何処かへ飛ばされていってしまった。
「教えて……?」
あたしのところに来たら、教えてあげる
ただ女王の声だけが耳元に残り、あとはもう静かな空間へと戻っていた。
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