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102. 同じ香り

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 あれから泰樹くんだけが俺のマンションに残った。

 兄にカウンセリングを受けるよう言われた宏樹だったけど、これまで瀬尾で投与されてきた諸々の中毒症状が確認されて、今は少し離れた土地で入院してるからだ。

 入院といっても寝たきりだとかじゃなく、一日に二度、決められた時間に透析(本当は違う名称らしいけど、俺にはわかりやすくそう説明された)を受ける必要があるらしい。

 一回の透析に時間がかかることもあって、休職も考えたけれど、直属の上司である兄が宏樹のリモートワークを決めた。

 たまに透析中なのにオンライン会議に参加することもあり「一応治療中は時間休を申請してるんだけどなぁ」と本人は苦笑いしているようだ。

 兄としては「治療のたびに休んでいたら、完全に復帰した時に困るのは次男だろうが」という親心(?)みたいだけれど、傍から見ればただの鬼にしか見えない。


 ……〝らしい〟〝ようだ〟ってそんな言葉でしか言えないのが悔しい。

 兄や泰樹くんは何度か入院している宏樹のお見舞いに行っている。その都度、宏樹の様子について教えてくれる二人には感謝しているけれど、俺は一度も行っていない。

 二人にも、そして当の宏樹本人にも面会を断られているからだ。


 そりゃそうだよなって自分でも思う。婚約を解消した今じゃ、俺と宏樹には何の繋がりもない。直属の上司である兄や、血の繋がった兄弟である泰樹くんとは立場が違うんだ。


(わかるよ、わかる。自分でもちゃんとわかってはいるんだけど……)


「――で、自分でもわかってるけど、もやもやしちゃうって感じなんですよね?」


 夜、ソファーに仰向けで寝転ぶ俺の傍に腰かけた泰樹くんが、くすくす笑いながらそう言った。厭味な感じはしない。少し垂れた目をさらに垂らせて、俺の髪を手慰みにくるくるいじっている。


「あーもう。本当、真緒ちゃん可愛い」
「……別に可愛くなんかないよ。単に、俺だけがお見舞いできてないから拗ねてるだけだし」


 そう。俺は拗ねてるだけだ。

 宏樹と和解して、ようやく何のしがらみもなく〝宏樹くん〟と楽しい付き合いができると思っていたのに、俺だけがあいつを取り巻く輪から弾かれてしまってるからだ。


「俺や真都さんから話を聞かされるばっかりで、寂しかったんですよね。今までずっとヒロの傍にいたのは真緒ちゃんだったのに、そのヒロの話を聞かされるだけで会えないから」
「…………。」
「違った?」
「…………違わないけど」
「はは、拗ねてる真緒ちゃんも可愛い」


 泰樹くんは不思議だ。俺よりもずっとずっと年下なのに。未だに敬語だって完全にはなくならないのに。

 それでもどことなく俺よりもまるで年上のような空気で、だからつい、俺も甘えそうになってしまう。


「治療って、どのくらいかかるんだろ」
「血液だけなら、ゆっくりかけて半年って話だったかな。それからまた色々な部位の検査をして……大体、一年もかからないそうです」
「一年!?」


 さらっと言われたけれど、とても「短い」なんて言える日数じゃない。兄が復帰後のことを考えて、休職扱いにしなかったのも納得した。

 宏樹は瀬尾の系列には入院していない。今回の瀬尾の失脚を機に、東へ進出してきた榛名が、昔なじみの兄に対して自分の系列での治療を提案してくれたらしい。

 自分のことを色んな意味で知っている人間ばかりのところで一年も治療を受けるよりは、まだ榛名の方がいいと兄も判断したんだろう。

 最近導入されたばかりの治療法で、瀬尾では受けられるところがないというのも大きかった。


「ヒロは今、穏やかそうに見えて実はずっと発情を抑えた状態にあるんです。そんな時に、運命だと認識している真緒ちゃんに会えば、強く発情する可能性が高いのは、……わかるよね?」


 問われて、俺はこくりとうなずいた。こうして話している間も、泰樹くんにずっと俺の髪を触られていて、くすぐったい。


「今のヒロは薬を飲めない。真緒ちゃんに会うために抑制剤を飲むことはできない。かと言って、真緒ちゃんを抱いて発情を鎮めることも無理だ。そして、今のヒロは真緒ちゃん以外のオメガとのセックスを求めてない。だからヒロの治療の前提条件として、あいつを発情させないためにも真緒ちゃんと会わせるわけにはいかないんだ……本当に、ごめん」
「……俺こそ、泰樹くんに気を遣わせてごめん。俺も、わかってはいるんだけど」


(ただ、寂しいだけだよ)


 小さく答えた俺の頭を、そっと泰樹くんの大きな手が撫でる。伏せていた目線を上げると、泰樹くんと目が合った。

 赤茶色の目。
 泰樹くんはメガネをやめて今はカラコンだけにしている。それだって、俺が「もう宏樹と同じ顔でも怖くないから」と裸眼に戻すようにお願いしても「そのうちね」とやんわり避けられていた。


「真緒ちゃんとヒロは二十年も婚約してたし、そのうちの半分近くはずっと一緒に暮らしてた。そこまでいけばさ、もう家族だよね。ずっと一緒だった家族が離れて寂しく思うのは、当然だよ」


 家族。その単語が何だかぴたりときれいに今の宏樹への心情に当てはまった。


 何度婚約の解消を申し込んでも、子供の頃から育てた恋心が消えても、宏樹が俺の心の隅にいることは変わらなかった。

 浮気されて、ケンカのたびに「死ねよ」と罵倒したけど、本当に宏樹が荒れてる時は放っておけなかった。


(そうか。家族……宏樹は、俺の家族になってたんだ……じゃあ、今もこうして心配する気持ちでいても、仕方ない、んだろうな)


 俺の目からはいつの間にか涙があふれていて、その雫を泰樹くんが指先で拭うものの、追いつかない。


「ヒロがうらやましいな」
「え?」
「俺も、真緒ちゃんの家族になりたい。……もちろん、弟みたいな意味じゃなくて」


 撫でられていた手が、そっと、握られる。その大きな手が、地味に震えてることに気づいてはっとした。

 泰樹くんが何を言いたいのか、わからないほど鈍くはない。俺も、握られた手の上からもう片方の手を添えて握り返した。


「……俺、実はすごくやきもち焼きで」
「えっ」


 唐突な話に、俺は思わず上半身を起こす。


「今も真緒ちゃんに気にしてもらってるヒロのことがうらやましいし、内心めちゃくちゃむかついてる」
「ええっ」
「このマンションにはヒロがいた痕跡がいっぱい残ってるし、その痕跡を見るたびに真緒ちゃんがヒロのことを思い出してるのも、嫌だ」
「そ、そうなの?」
「そうなんです」
「そ、そうなんだ。知らなかった。言ってくれたら良かったんだよ……」


 俺がそう言うと「それは男の沽券に関わるっていうか。器が小さい感じがして嫌だったんです」と口をとがらせた。


(こんな顔も、するんだ)


 年相応の表情は、まるで泰樹くんが俺に我を見せてくれているようだ。再会後はいつも優しく俺を見守ってくれている泰樹くんばかり見てきたから。でも。


「……ずっと言ってなかったけど、俺、ちゃんと泰樹くんのことはそういう対象だと思ってるよ。その、言う機会がなかっただけで。ごめん。泰樹くんは俺のこと好きなんだって伝えてくれてたのに、俺からは伝えてなくて、ごめん」


 手を離すと、腰かけている泰樹くんにそっと抱きついた。俺と同じ柔軟剤の香りがする。


「……それは、えっと、真緒ちゃんも俺のこと、好きってことで、合ってます……?」
「合ってる」


 即答だった。
 見えない泰樹くんの顔が、真っ赤になっているような気がしたのは、触れ合ってる肌の温度が高くなったせいかもしれない。


「宏樹が治ったら、二人で一緒に会いに行きたい」
「俺と一緒で、いいんですか?」
「うん、泰樹くんと一緒がいい」
「…………真緒ちゃん」
「うん?」
「キスしても、いいですか?」


 そっと耳元でそう尋ねられて「これからはもう聞かなくてもしていいよ」と笑いながら答えた。




――
泰樹の口調が敬語だったりタメ口だったりするのは、移行期間だからです。なるべくタメ口で話そうとしてるけど、気が抜くとすぐ敬語になる泰樹です(´∀`)

真緒も、宏樹に対しては口調が荒いけど泰樹や真都に対しては素直だったり。(どちらかと言うと、宏樹への口調は委員長や佐伯くんと同じです)
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