認知症患者との日々

楠木 楓

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四話 定期的勘違い

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 認知症対応型のデイサービスは地域密着型のサービスであり、地域に開かれ、時には連携を高めていく必要のある施設だ。
 これは新しい環境に馴染むことが難しい認知症患者が、慣れ親しんだ土地で、慣れ親しんだ行事や人と繋がりを持ち続けることができるように、ということで定められている。

 簡単に言ってしまうと、所属している市町村の人間だけが通うことのできる施設であり、必然的に施設と利用者の住居はある程度近い場所に位置していることが多い。

 中島はその有用性と、ちょっとした困りごとについて先輩達から笑い交じりに聞かされていた。
 そして今、その困りごとを強く実感している。

「今日はお迎え遅かったから自分で来たのよ~」

 にこにこと笑う小柄なお婆さんこと松野。
 大和撫子、といった雰囲気で見た目も可愛らしい彼女は認知症の進行も比較的軽く、古くから付き合いのある職員のことは名前もしっかりと憶えている。
 しかし、病は完全に抑え続けることができない。

「――そうですか。でも松野さん、今日は火曜日なんですよ」

 利用者によって来る時間、曜日が異なる中で、松野の利用日は木曜日の朝から夕方まで。
 迎えがこなかったのではない。迎えに行く必要がなかっただけだ。

 家と施設が近い場合、道順をしっかりと覚えることのできる利用者だとこうして自ら施設へ足を運んでくることがある。
 身内が家にいれば未然に防ぐこともできるが、独居だとそうもいかない。

 核家族化が進む現代において、高齢者の一人暮らしというのは珍しいものではなくなってきている。それは認知症患者であったとしても例外にはならないのだ。

 認知症を患った親を独りにして心配じゃないのか、という人もいるだろう。だが、人には人の事情というものがある。
 勿論、面倒事を避けた結果である家庭がないと断じることはできない。家族関係が良好でなかった人や特に理由なく家族の縁が薄い人もいる。同時に、仕事の都合上、親のもとへ帰れない人や、呼び寄せることができない人もいる。

 そうした高齢者達と独身を貫きパートナーに先立たれ、一人で暮らすより他に選択肢がない高齢者達は、認知症になったからといって即時入居型の施設に入ることもできない。
 施設数の問題や金銭的な問題もあるが、何より本人達が納得しないだろう。
 ある日、医者からあなたは認知症なので施設に入ってください、と言われ、その場でわかりました、というような人間は別の意味で心配になる。

 認知症の人でも独りで生きていけるんだ、と中島が失礼なことを考えていたのは入社直後だけ。松野を始め、一人暮らしをしている利用者は少なくないし、彼らも訪問ヘルパーの助けを受けつつも立派に暮らしていることを知った。
 特に介護度の低い松野は足元の不安こそあれど、一人で近所のスーパーで買い物をして帰ることができる程度には自立した暮らしをしている。食が細く、体重が右肩下がりなのは心配だが、その他には特に問題なく過ごせていた。

「えっ! そうだったかしら。
 嫌だわぁ。歳をとるとうっかりしちゃって……」

 頬に手を当て、憂う松野の姿に中島はこっそり安堵の息を漏らす。
 先輩に聞いたことがある利用者の中には、利用日でないことを伝えると逆上するタイプの人やそもそも話が通じないタイプの人もいた。幸い、松野は理解力がまだ衰え始めている段階であるため話せばわかってくれる。

「ごめんなさいねぇ。お邪魔しました」
「あ、待ってください。せっかくここまで来たんですし、ちょっとお茶でも飲んでいきませんか?」

 先輩からのアイコンタクトを受け、中島はとっさに言葉を返す。

 松野の家まで徒歩約十分。車通りが少ない道であるため事故が起こる確率は低く、ここまで来れている様子からも迷子になる心配も殆どない。
 とはいえ、殆ど、とはゼロではない。
 万が一のことを考えた場合、ここでさようなら、と一人帰すわけにはいかないのだ。

「でも……」
「外は暑かったでしょ?
 水分補給してから一緒に帰りましょ」

 不安げな松野に対し、中島は笑みを浮かべる。

 一拍ほどの間を置いて、松野は小さく頷いた。

 幸いにしてまだ利用者の数は多くなく、席にも空きがある。これが昼直前などであればゆっくりお茶を飲むスペースもないところだった。

「どうぞ」

 いつもの冷たいお茶を出せば松野は少しずつ味わうようにして飲んでくれる。
 真夏日にはまだ遠くとも、太陽の光を浴びればじわりと汗が出てくる季節だ。高齢者、それも認知症患者の場合、自身の体調不良に気づかないことも少なくない。介護士を含め、周りの人間が温度調節や水分管理などをしっかりとしてやる必要があった。

「あれ? あなた今日来る日だっけ?」

 きょとん、とした声を上げたのは本日の正規利用者である目黒だ。
 彼女は火曜と木曜の週二回、この施設を利用しているため、松野とも面識がある。

 年齢差は親子ほどもあるのだが、本人達の性格上か、七十と九十ともなれば敬意などどうでもよくなるのか、気軽にお喋りをする間柄だ。両者共に介護度が低く、他の利用者達よりも互いの方が話がしやすいらしい。

「も~、うっかりしててね。
 私は今日木曜日だと思ってたのよ……」
「そうなの? 大変ねぇ」

 仲良くお喋りに興じる二人を確認し、中島はそっとその場を離れる。
 介護施設とはただ単純に身の回りの世話をしてやるだけの場所ではない。体の不調や自身の精神状態などによって社会から断絶されかねない人を繋ぎ止める役割を持っている。特に認知症患者の場合、自身の言い分が通らぬことや道がわからなくなってしまう不安感から外との交流を拒絶する人が一定数存在していた。

 こうなると、社会性が急速に失われ、認知症の進行も早くなってしまう。
 一分一秒でも長く、自分の力で生活できるようケアするためにも、松野と目黒のように楽しくコミュニケーションが取れるお友達というのは必要不可欠なのだ。

「私らなんて認知症なんだから、何でも書いとかないとダメよ」

 ちなみに目黒は要介護時に認知症を診断されており、進行した今でも自分が認知症患者である自覚がある。
 非常に明るい彼女であるが、家に帰れば悩んでいる様子が見られる、という家族からの話も聞いている。なまじ、体に不自由がなく、徒競走で職員を追い抜く程度ほどの元気を持て余しているため、完全に受け入れるのは難しいのだろう。

「ちゃんと木曜日、って書いてあるのよ。でもね、今日は火曜日だと思ってて」

 仲良く話す二人は微笑ましい。
 穏やかに楽しんでくれている間は物盗られ妄想等も抑えられるので仕事をする側の負担も減って、一石二鳥、三鳥だ。

 問題があるとすれば、今後、この展開が増えていくのであろうこと。家に送り届けるために介護士が一人取られてしまうことだ。
 事実、この光景はある種のお約束となっていくのであった。
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